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空の向こうの彼女

妻は私の弾くピアノを愛してくれた。しかし彼女はもういない。

私はピアニストだ。駅や空港、公園やレストランなどに設置されたピアノたちを相棒にして、定期的に音楽を届ける仕事をしている。
私が妻と出会ったのは、空港のラウンジだ。行き交う人の雑踏から少しだけ離れた場所に設置されたその日の相棒を奏でていると、彼女のほうから声を掛けてきた。

「私、その曲好きです。」

私がその女性に恋をし、その女性が妻となるまでそう時間はかからなかった。
それからの毎日は、まるで陽だまりの中で過ごすような、優しくて暖かい日々だった。

ある日の夜、私が自宅のピアノを鳴らしていると、よほど上機嫌だったのか、彼女はその曲に合わせて歌いだした。
その透き通った声は、優しくて、柔らかい。
私が慌てて手元のスマートフォンの録音ボタンを押すと、僅かに伴奏が乱れる。それに気づいた彼女はそれから直ぐに、もう!ちょっと恥ずかしいじゃない、と歌うのを止めてしまった。
 
それから間もなくのことだった。妻は身体の不調を訴えた。普段から気丈な彼女の性格からしてこれは只事ではない。私は彼女を連れて病院に駆け込んだ。

結論から言えば、既にその病巣は身体の深くまで進行し、医者も根治治療を薦めないフェーズまできていた。それでも彼女は可能な範囲で治療を受ける選択をする。
体力的にも辛かっただろう。気丈な彼女は入退院を繰り返しながら、出来る限り自分の仕事をし、私との日常を送った。
しかし、彼女は次第に弱っていき、遂に起き上がることも叶わなくなる。程なくして、暖かい春の日の朝に彼女は空に還っていった。

季節は廻り、世間は既に冬に差し掛かっていたが、私の心の中は空っぽの穴が開いたままだった。しかし、それでも私には仕事があり、そこには雑踏に佇む相棒(ピアノ)と、忙しなく行き交う聴衆が待っている。
今日もまた、私はイヤフォンを耳に差し込むと、2小節だけ聞こえる彼女の歌と、恥ずかしがって私を窘める数秒の声を聴いて、家を出た。

私がいつものように空港のラウンジで仕事をこなしていると、一人の若い男が声をかけてきた。
彼は妻の職場の同僚で、後輩として世話になった者だと名乗る。妻は宇宙開発に関わる企業で研究職に就いており、彼もまた研究者なのだろう。葬儀には同僚の方が数多く弔問に参列していた。
彼はトランジット待ちで、もうしばらくこのラウンジに滞在するという。私はちょうど休憩時間に差し掛かったこともあり、彼と少し話をすることになった。

ラウンジの中二階に据えられたバーで席を構える。彼は献杯したいと申し出てくれた。
バーテンダーは三人分のオーダーを取ると、カウンターの奥に消えていく。

「葬儀の際には満足にご挨拶も出来ず失礼しました。葬儀にも足を運んでいただいたとか。改めて御礼を言わせてください。」

いえいえ、と彼は哀悼の意を返す。

「生前の奥様には大変お世話になりました。私が学生として研究室に出入りしていた頃から、優しく面倒を見ていただいて。何というか、今の私があるのも。本当に、惜しい人を亡くしました。」

彼はうっすらと目に涙を貯めながら、妻を偲んだ。快活で面倒見のいい性格だった妻のことだ、若い学生が大人の世界に飛び込んでこようものなら放っておけなかっただろう。
亡き妻の微笑む姿を眼前に思い出し懐かしんでいると、あの、と彼が視線を引っぱる。

「本日は、貴方にお伝えしたいことがありまして、お邪魔しました。」

そのように切り出した彼は、堰を切ったように語りだした。

「先日打ち上げに成功した宇宙ステーションの新モジュールの事はご存じでしょうか?生前の奥様はこれに携わっておられて、制御系プログラム開発の中心メンバーでした。」

そのプログラムは一種の自己診断AIで、宇宙ステーションの状態を監視してレポートする機能を持っていた。
概ね安定して稼働し始めたある日、彼の端末に奇妙なデータファイルが届いた。AIにこれは何かと問うと、ある人に届けてほしいと言う。
何を言い出したのかと思い、彼はAI自身を調査するが、正常に稼働している。
いったいどういうことだとAIに問うと、これは貴方にしか頼めないとAIが懇請するものだった。
その瞬間、彼は、彼女が残した夫へのメッセージであると悟ったという。

運ばれてきた3杯のマティーニは、うっすらとそのグラスに結露を纏いはじめていた。

「それで、そのデータには何が書かれていたのですか?」

「はい、これは私信ですので、私は中身を見ていません。それもあって、奥様は私に託されたのだと信じています。」

彼はそう言って、小さな記録媒体を差し出した。

「この中にそのデータを収めています。どうか、受け取ってください。」

献杯を済ませた彼は、そろそろ出発の時間だと言い、足早にラウンジを去っていく。
ひとりテーブルに残された私は、スマートフォンを取り出すと、恐る恐るその記録媒体を読み込んだ。

———大好きな貴方へ

これを読んでいる頃には、私はもう貴方の前にはいないのでしょう。
ごめんなさい。寂しがりの貴方のことだから、すごく悲しませているのでしょうね。
これを運んできたあの子にも、手間を掛けさせてごめんと伝えておいてください。

貴方の優しい笑顔も、その笑い声も。
ピアノを弾く細くて長い手も、私を抱きしめてくれる長い腕も。
暖かくて優しくて。全部大好きでした。

私はもっと貴方と一緒にいたかった。
もっと一緒にいろんな場所にいって、いろんなものを見て。
一緒に泣いたり、笑ったりしたかった。
でも、少しずつ弱っていく私の身体に、貴方を困らせてばかり。ごめんね。
私は貴方に何もしてあげられなかったけど、最後にひとつだけ、贈り物をさせてください。

私は、貴方に笑顔であってほしい。幸せでいてほしい。
もし、私の事を思い出したときは、空を見上げてください。
私は空の果てから、貴方のことをいつも見守っています。
どうか、お元気で。

愛しています。好き。

★-・-・-

私は休憩時間が終わるのを待って、いつもの相棒の元に戻った。
稜線に沈む赤い夕陽は、私とピアノを焦がしてラウンジのフロアに長い影を落としている。
鍵盤の前に座ると、私はスマートフォンの再生ボタンを押した。耳に押し込んだイヤフォンから、彼女のメッセージが再び流れ始める。
この曲を弾くのはいつぶりだろう。鍵盤に指を置いて待っていると、メッセージが終わり少し間を置いて、彼女の贈り物が始まる。

星影のステラ。

私の耳にだけ響く彼女の優しい歌声は、私の伴奏に乗ってラウンジの中に溶けていく。
妻は私の弾くピアノを愛してくれた。彼女はいつでも私の空にいる。

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