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2021 / 2 / 12 の星の声


オレ、薔薇に包まれて生まれたからさ


久しぶりに乗った地下鉄がどうも居心地わるくて、ぼくは目的の駅より三つも手前の駅で電車を降りることにした。誰にも会う予定はないし、せっかくの休みの日くらいガマンなんてしたくなかった。

足早に改札を出て、階段を駆け上がった。人工的な電気の光や空調の風じゃなくて、太陽の光、それにどこからやってきたのかわからない旅人のような風を受けたら、ぼくの気分は変わる気がした。

地上に出ると、目の前は車通りの多い国道だった。ポマードを塗りたくった髪みたいにツヤツヤした車が競い合うように走っていて、そこに砂埃をまぶした大型トラックまで割り込もうとするから余計にヒヤヒヤした。

時間帯のせいか、直射日光を浴びられる場所はどこにもなかった。濃厚な影に電飾がはえる世界には、あたり一面、力こぶを誇示するように高層ビルが立ち並んで、彼らが反射させる日差しはどこに行ってしまったのかよくわからない。

ああ、もしこの高層ビルぜんぶが大きな木だったら、どんな景色に変わるんだろう。ぼくは視界の中のビルというビルを手当たり次第に木に変えていくことにした。大きな幹の中や、四方八方にのびる枝の上下にオフィスや店舗が出来上がる様子が少しずつ浮かんできた。

そうなれば、落葉樹じゃなくて常緑樹じゃないといけないなあとか、葉っぱはどういう風に生かすんだろうとか、いろいろな考えが頭をよぎると、ぼくの耳は国道を行き交う車の音をほとんど拾わなくなった。

あれだけの騒音なのに、聞くことも聞かないこともできるなんて、ぼくとしては大きな発見だった。でも、どうしてそんなことができるのかはわからなかった。もしかすると、他のことにも応用できるのかもとまた考えをめぐらせていたら、いつの間にか目的の駅に辿り着いた。

ぼくは信じられなかった。一駅の区間を徒歩10分と見積もっても30分かかる距離なのに、15分で着いた体感だった。スマートフォンで時間を確かめると、地下鉄に乗り込んだ際にぼくがイメージしていた到着予定時刻とほとんど変わりなかった。

いつからか、ぼくはいつもと同じ世界の中にある、まるで別の次元に来てしまったのかもしれない。ぼくが今いる交差点はテレビでもよく映るくらいに有名な人通りの多い場所なのに、雑踏が奏でるあの特殊な音もほとんど聞こえなかった。

ぼくは急に不安になった。ぼくの姿が見える人はひとりもいないように感じられた。ぼくは誰かと目が合わせたくなった。普段なら目を合わせる機会のない人にもその視線を送った。ぼくのことを見つけてほしい、その一心だった。

すると、交差点近くのガードパイプに腰掛けた男性と目が合った。一輪の薔薇を持つ彼はたしかにぼくのことを見ていた。ぼくの姿なりを足元から頭の先まで見ると、彼は手の甲をこちらに向けたまま人差し指を動かして、こっちに来いとジェスチャーをした。

喧嘩を売っていると思われたとしても仕方がないくらい、ぼくがジロジロと彼を見たことは間違いなかった。ぼくは急に申し訳ない気持ちになって、彼の指に従うことにした。

彼は仕立てのいいジャケットの中に、シルクのような質感のシャツを着ていて、胸元は大きくはだけていた。スリムなパンツに、よく磨かれたレザーシューズまで、全身黒一色だった。ツヤのある髪はシルバーとブルーが混ざったような色で、肩に届くか届かないかくらいの長さで真横にパッツンと切り揃えられた、いわゆるワンレンボブと呼ばれる髪型をしていた。

彼は目の前に来たぼくの目を慈しむように見て言った。


「オマエ、オレのこと見えんの?」


ぼくはすぐに頷いた。その言葉はむしろぼくが聞きたかったことと同じだった。彼はもう一度ぼくの全身を舐め回すように見て、うっすらと笑みを浮かべた


「オマエ、かあ」


ぼくには何のことだかさっぱりわからなかった。この時も、不自然なほどに街の喧騒はひとつもぼくの耳に入ってこなかった。ぼくらの近くを歩く人たちは誰ひとり見向きもしない。この世界には、ぼくと彼しか存在していないようだった。


「オマエはどうやってここに来たの?」


どういうわけか、ぼくには彼のざっくりとした質問の意図がわかった。だから、ぼくは地下鉄に乗っていた頃からここに至るまでの話をした。ビルを木に見立てたことや、時間が歪むような感覚が起きたことまで、事細かに伝えた。彼は上目遣いでぼくを見ながら、何度も頷くと白い歯を見せて笑った。


「オマエ、けっこうメルヘンな」


彼はそう言って、ぼくの肩を叩いた。不快な気持ちは一切生まれなかった。むしろ、彼から愛着に似た思いを送られたような気分になった。


「オレ、薔薇に包まれて生まれたからさ、オマエの気持ちよくわかるよ」


ほんの一瞬だけ、ぼくの思考の中に嘲笑に近いクエスチョンマークが浮かんだことを、ぼくは見逃さなかった。でも、それはすぐに違うと気がついた。ぼくの先入観がつくったまぼろしだったのかもしれない。


「でもな、オレたちみたいな人間は少ないんだ。ほら、見てみな」


ぼくは彼の指差す方を見た。怒鳴り散らしているおじさんがいた。ベビーカーを引いた若い女性が周囲を気にしながら何度も謝っているのに、おじさんの気はすまないようだった。黒づくめの彼は言った。


「あれも、ひとつの世界なんだよ。オレたちと何ひとつ変わらない」


今度は別の方を指さした。おじさんと若い女性のいる場所から、数メートルも離れていないところだった。三人のギラギラした男たちが肩を揺らして歩いていた。話が盛り上がっているのか、手を叩いたり、体をのけぞらせたりしながら大笑いしていた。


「あれもおんなじ、ひとつの世界」


ぼくは彼の考えていることが掴みにくかった。何が言いたいのか、彼に訊ねてみることにした。彼はまた白い歯をこぼした。


「オレたちは、おんなじ世界にいるようで、けっこう別々なんだよ」


そう言って、彼は立ち上がった。座っているとわからなかったが、ずいぶん背の高い男だった。彼は薔薇の香りを嗅ぎながら、あたりを見渡した。山の頂上から雄大な景色を眺めるように恍惚とした表情だった。


「オマエから見て、オレは美しいか?」


薔薇を持つ彼の問いかけに、また一瞬だけぼくの脳裏にまぼろしがよぎった。でもやはり、それは違った。ぼくは首を縦に振った。花のように綺麗だと思えたから素直にそう伝えた。彼はすぐに返事した。


「そりゃそうだ。オレはこの薔薇のように生きてるんだから」


そう言い切ると、彼は突然ぼくの顔を覗き込んだ。おでこ、眉毛、目、まつ毛、頬、鼻、口、顎、とひとつひとつ確認するようにぼくを見た。


「正直、オレとオマエのつくりは全然違う。オレの方がモテるかもしれない。けど、オレとオマエは美しさにおいて等しい。それだけは間違いない」


ぼくは自分を美しいと思ったことなんてなかった。端正な顔をした彼に比べたら月とスッポンほど違うだろうし、背は彼よりずっと低い。体型だって、服装だって、正直比べ物にならない。彼のようになりたいとは思わないが、ぼくは彼を美しいと認識した時、自分と見比べていたような気がした。


「オマエが見出したオマエの美しさは、まだまだ奥行きがある。オレたちはもっとそれぞれの美しさの中で遊び呆けるべきだ。他の奴のことなんてどうだっていい」


彼はその場を立ち去ろうとした。ぼくはなんだか名残惜しかった。友達になる気なんてさらさらないのに、もっとこの時に浸っていたいとさえ思った。普段よりもずいぶん正直になったぼくは率直に彼にそう伝えた。もちろん、彼の笑いを誘うことになったのは言うまでもない。


「オレやオマエみたいな美しさを持った人間は、この世界にまだまだいる。一生かけても会いきれないくらいにいるだろう。だから執着すんな、みっともねぇ。じゃあな」


そう言って、彼は交差点の彼方に消えた。まるで恋人を見送るように、ぼくは彼が見えなくなるまで彼の後ろ姿を目で追いかけた。彼が見えなくなると、ぼくの耳に街の喧騒が戻ってきた。車や人の往来に少しずつピントが合っていくような感覚だった。

ぼくはまた高層の建物をひとつひとつ大木に変えていくことにした。風にそよぐ大ぶりな枝葉の中を歩いて、公園の芝生で寝そべりたくなった。その瞬間、ぼくが求めた心地よさはそれだった。

公園へ向かう道すがら、匂いにはつられるけれどいつも買わずにいたケバブが食べたくなった。手際良く肉を削いでケバブを仕上げた男性は、ぼくの顔を見ないまま金額を言った。ぼくは財布の中に山ほどあった小銭をあさって、ぴったりの金額を渡した。

男性は手のひらの上で硬貨を数えて確かめると、ぼくの方を見ないままケバブを渡した。どうやら彼に見えているものは、お金とそれに成り代わるケバブだけで、ぼくのことは見えなかったようだ。


「これも、ひとつの世界か」


ぼくはそうつぶやいて、ぼくの心地よさと美しさが待つ公園へ向かうことにした。









今週は、そんなキンボです。







こじょうゆうや

あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。