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問2後悔について述べよ。

 もうすこしまともな高校生活を送っていればもう少し人格的にまともな人間になっていたと常々思う。人とのかかわりを避け、比較し見下す。もっと俗なことを言えば、学校に立地ゆえに学校帰りの寄り道なんてできなかったし、坂を下りバス停まで友達や気になっている異性を送るなどといったこととは無縁であったし、それらに割く労力を惜しんだりそれに精を出す年頃の同世代の人間を見下していたのかもしれないと今となっては思う。ある意味自分の思春期としての現象だったのか、それとも反抗期の一種だったのか専門的なことはわからないが、高校生らしい生活を送るというある種の通過儀礼的なものを避けた結果、欠陥のある人間になってしまったのではないかと考える。

 それに加えて、その負の部分は今や離れていてもSNSを通じて広まってしまうものであり、当然ながらそれまで親交のあった人間には悟られてしまうし、何かの拍子に投稿したものの中から感じ取られてしまう。私の行動は保守的に、動機は負の感情から生まれるものが多く、確かにそれらを晒すことで自分の価値を下げていたのだなと、友人と話してよくわかった。もう二度と同じ失敗をしてはならないと考えている。

 すごくありふれたことを言えば、これを機に人に見られる媒体では発言に気を付ける必要があるし、炎上や誰かを傷つけなくとも自分の評価がここまで落ちるということにやはり早めに気が付かなければならなかったのだと思う。一方で対策もしていた、複数のアカウントを駆使したり公開範囲を限定することはしていた。それでも、本当に心中を明かしていい人間はそんなに多くないということをもっと早くに気が付かなければならなかった。親しいと思っているから共感を得られるだろうというのは間違いで、心中をさらけ出しても寄り添い続けてくれる人なんて本当に限られている。それなりに親しいからこそ隠すということはお互いの関係のためにも、自己防衛のためにも必要であると考える。そして過去を振り返れば特定の誰かを傷つけないなら、匿名性の高い媒体で吐き出す必要もあっただろうし、単なる薄っぺらい安心感のためにつながり続けるFFに関しては、実際にかかわりがあったとしても、選別しなければならないと感じた。

 SNSとりわけインスタグラムは日常の自慢したいようなことを切り取って発信する媒体であると言われているが、その逆をすれば自分がいかに醜い人間かを相手に発信しかねないという側面も確実にはらんでいる。人は誰しも弱みを持っている。それでもあえて実名制の高い媒体で弱みを晒すことに一抹の価値もないだろう。繰り返しになるが、だからこそ匿名性の高い環境で言いたいことを発散することは自己防衛にもつながると考える。もちろん相手を傷つけるような真似は絶対に許されないが・・・それらの使い分けをしっかりできるようになることこそ、SNS巧者なのではないかと考える。

(その一つにはこのnoteがあってもいいと思うんだ。)

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