俳優は役の人物に有機的に役に生まれ変わる 世界で一番やさしいスタニスラフスキー・システム⑧
私の中の理想の演技を調べる
私が完成させたリストは次の通り。
先生は多少の重複はあってもそれをそのままホワイトボードに書き写した。
矢印以下は先生が分かるために私の補足説明が必要だったもの。
理想とする演技リスト
やりたくない演技リスト
一言にまとめる
「沢山でてきましたね。もし、演じる時にこれだけの事をああしなきゃ、こうしちゃいけない、などとどこかで意識してしまっているとしたら、芝居どころではありませんね、アハハ」
「はい」
「これらの理想とする演技は実はたった一言にまとめられるんです」
「そうなんですか?」
「そのたった一言でこれらの理想の要素全てが芋づる式についてくるそんな名前があれば便利だと思いませんか?」
「私は今まで自分が目指している演技って嘘が無い、本物、自然とかリアルで言い表せると思っていたのですが…」
「私達はお芝居に本物やリアルであること自体を求めてはいませんよね。もし、本物を見て心を豊にできるのなら、劇場になんか来ないほうがよほど沢山のリアルを見れるわけですから」
「ですね…大道具が書割ではなく本物の家なら感動するわけでもないですし、舞台上で実際に暴力が振るわれたり、本物の武器が出てきたりしたら幻滅ですし…」
「ですよね」
「あの…そこにある感情が本物ということでは?」
「でも、本当に泣いていたとしても、独りよがりに見えたり、現実的過ぎたり、個人的だったりすると痛々しかったりする場合もあるのでしたね」
「うーん、そうでした…」
「芸術は現実ではありませんし、そもそも現実を目指したりしていません。だったら、例えば絵画は写真にかないませんし、写真も現実にはかてません」
「たしかに」
「ただし、現実のどこをどう切り取るのか、その切り取り方に、現実そのままを超えた何かしらを語ろうとしているのが芸術ですよね」
「そうですね、私も写真や絵画を好きで良く見るんですが、人生を見つめるあらなた視点に力をもらったことがあります」
「私達がやろとしている事も芸術です。私達の日常には始まりも終わりもありません。でも、物語には始りがあり、終りがある時点で人工的なのです。ちなみに、人工的を英訳するとアートですね」
劇場という不自然な人工的なモノに囲まれながら、誰かが作った嘘の物語の中で、私達がこの演技は自然だと感じたり、この演技は不自然だと感じているのは一体、何についてなのだろう…
リアル・本物・自然の正体とは?
「ここで視点を少し変えてみましょう。例えば、この部屋にいわゆる自然ってありますか?」
私は殺風景なスタジオを見回した。窓とライトと暗幕、デスクの上のノートパソコン、ホワイトボードにいくつかの写真やプリント、椅子…
「えーっと、…無い…ですね…」
「ですよね…目に見えるほとんどのモノが誰かの頭の中でひらめいて、設計図が引かれ、工場で作られ、運ばれてきたものです。どれもこれも人間様が作ったものです。その中で、自然に勝手にそこにあるモノってありませんか?」
「あっ、ありました!人間様が作ったものでないモノが」
「なんですか?」
「これです!」
私はバッグの中からペットボトルに入っている水を差しだした。
「水です。そして、空気も人間様でなくて神様か自然が作り出したのだと思います」
相変わらずパチンコ店のネオンがケバケバしく点滅していた。
「あっ、もし、昼間なら太陽の光が差し込んでいたと思います」
「素晴らしい!良いですね!それも人様がつくれませんね。後もう一つだけ見つけて下さい。恐らく、人間の力では存在しえないモノを」
私は、先生の瞳がいたずらっぽく光っているのに気づいていた。
その瞳は、ホラ分かるでしょ!と語っていた。
「灯台…」
「あっ、言わないで下さい、もう少しだけ考えさせてください」
今、先生は灯台下暗しと言おうとした…!
「…なんで、分からなかったんだろう…私…ですよね?」
「アハハ、そうです。あなたです。もちろん、私もですが。やがて人間は私達の精密なコピーぐらいは創り出せるでしょう。しかし、0から生命を創り出すのはまだまだ難しいでしょうね」
「そうか、私も自然の一部だったんですね」
「はい、恐らくは、アハハ!では、ここにある自然としての私と例えばこの椅子との違いがあるとしたらそれはなんですか?」
違いがあり過ぎて、何を答えれば良いのか…
私は、自然なモノを繰り返し思い出してみた。水・空気・太陽の光・私、水・空気・太陽の光・私…
そっか!
簡単すぎて思いつかなかったけど…
先生と椅子の違いはこれだ!
テイク1の時の私とテイク2の時の私の違いも、まだ明確には言えないけど何かそのあたりに違いがあるはずだと感じた!
有機的であること
「先生と椅子の違いがわかりました」
「良かった。私も椅子と同じだと辛いですからアハハ」
「生きているかどうかですよね?」
「そうです!」
「あなたが理想としているのは、生きる、ということではないですか?」
先生はさっきの理想の演技のリストの上に大きく「生」と書いた。
「あなたには私が今、生きているように見えますか?」
「はい」
「しかし、もし、私が突然、「うっー」と叫んで、バタンと倒れてしまったら、あなたはどうやって私が生きているか否かを確かめるでしょう?」
「えーっと、呼吸を確かめます。それと脈を確認すると思います」
「そうですね。では、呼吸とはなんでしょう?脈を打つとは何でしょう?なぜ、それが生きている証拠なのでしょう?」
「…?」
「あなたも今呼吸していますね。それは何のためですか?」
私は静かに呼吸に意識を傾けた、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って…
…違う!
吸って、吸収して、吐いて。吸って、吸収して、吐いて…だ。
「分かりました!…呼吸を調べるというのは先生がまだ、周囲との交換を
続けているかどうかを調べているのだと思います」
「そうです!生きるには常に交換が必要です。そして、私達は誰もが1人では生きていられません。生きてるというのは常にお互いがお互いを活かしあう循環する輪の中に存在しているという事ですから」
交換しあっている。お互いがお互いを必要としている輪にいること。それが生きているということ。
「私が呼吸をやめれば、当然、私は、そして私の二酸化炭素を当てにしていた植物も、死んでしまうでしょう。私が仕事をして他の誰かに価値を与えなければ私は生活の糧を得られません。私が大切な人に優しさを与えなければ、やがてその人の心は離れていき、埋めようの無い寂しさを経験するのは私なのです」
「私達は生命維持のレベルから、精神的にも、経済的にも常に、与え、与えられて生命を保っているわけです」
「あなたはアマンダの感情や人生をリアルに説明したり、自然に表現したいのでしょうか?それともアマンダの人生を生きたいのでしょうか?」
「私はアマンダの人生を生きたいのだと思います」
「そうですね。そして、その生きる過程でアマンダが感じるであろう感情や感覚や思考が、今、そこで、相手役とのやり取りの中から自然に生じてしまうのを経験したいのではありませんか?」
「そうです」
「決して、アマンダの感情や感覚に似た自分の感情をどこかから引っ張ってきて表現したいのではないはずです。その感情自体は本物であったとしても周囲との交換から、今、そこで生まれたのではなく、どこかから、例えば過去から持ち出されたりすると不自然さを感じさせてしまうのです」
「なるほど、今、ここで、周囲と関係しあって生じたのかどうか…」
「そして、もし、あなたが舞台の上で生きているのだとしたら、舞台でも実人生と同じように一人では生きていけません。」
「あなたが生き生きと演じれば、相手役もついのってしまうでしょう。そんな生き生きとした相手役から、さらにあなたもエネルギーを得てより良く生かされるでしょう」
「二人が活き活きすればもちろんその場面はがぜん活気を帯びるでしょうし、観客を前のめりにさせるかもしれません。その観客の活気をあなたは肌で感じたことがあるかもしれません」
先生はホワイトボードの「一体感」「相手とつながる」「観客との一体感」 を丸で囲んだ。
「あなたは客席、舞台という隔たりを超えて交換しあっているのです。そのような時、100パーセント人工物だったはずの劇場に魂がこもり、まるで生き物になったかのように鼓動をさえ打ち始める。それがlive(ライブ)の醍醐味でしょう」
「観客はその交換から、明日を生きる勇気や活力や希望を受け取るかもしれない、もし、そんな事ができるのなら、私達はあらたな生命力を生み出し与える事が出来たと言えるかもしれません」
「役を生き、相手役と、あるいは観客と、お互いに生かし生かされ、劇場に魂がこもる。やがて幕が下り、全てが終わったにも関わらず、もし、彼らの心の片隅にでもあたの演じた役の人物が永遠に生き続けるのだとしたら、こんなに素敵なことはないでしょう」
「生きているとはお互いに交換しあった結果、次世代へと受け継がれていく新たな命を生み出すものだと思うのです」
「こんなことが可能なのかもしれない…だから、あなたは俳優になろうとしたのではありませんか?」
「そうです、だから私は俳優になりたかったのです…」
先生はさっきの理想の演技のリストの上に大きく書いた「生」の周囲に、いきる、うまれる、しょうじる、liveとふりがなを付け足した。
「スタニスラフスキーはこう言いました。俳優の演技が芸術であるとき俳優は役に有機的に生まれ変わる」
私は心の中でもう一度かみ砕きながら唱えた。
俳優の演技が芸術であるとき、つまり、私がお互いの心を豊にすることを目指すなら…
俳優は有機的に、つまり、多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまりながら、
役に生まれ変わる… 私が表現したり、説明したりするのではなく役の人生を生きる
私が作ったリストを見返してみると、結局、結果としての表現が現実っぽいかどうかや、自然っぽいかどうかではなく、そのプロセスや周囲との関係性において「生かし合っているか、生じているか」を判断材料に理想とそうでない演技とを分けていたのだと納得した。
質問3については特に先生は踏み込まなかったが恐らく、
と言えるかもしれない。
先生が教えるではなく、調べてみましょうと言ったのは、あなたは言語化できずにいたかもしれないけど、本当は内面では既に自分の理想の演技を知っているのではという事を言いたかったのだろうと思う。
「どうでしょう?私達が目指すのは 役を生きる演技 こう呼んで良さそうですか?」
「はい、わたしは役を生きる技術を身に着けたいです」
「そうですか、良かった。なら、私にはまだまだあなたに伝えたいことが一杯あります」
こうして今日のレッスンは終わった。
帰りの電車。
席はガラガラだったけど座る気がせず、ドアの前に佇んでいた。間もなくさっきまで私がいた怪しいビルが見えてくる。
よくもあんな怪しいビルに入れたものだと我ながら感心した。なかでも、その怪しさを際立たせているのはあの看板だ。
そして、来週からあそこへ通う自分をやけに誇らしく感じた。
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