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【株式会社糸編 宮浦晋哉さんインタビュー01】 日本の生地産地とデザイナーを繋ぐ架け橋。 その活動の原点と、産地とものづくりのいま。

衰退が進む日本各地の生地産地に、年間200社近くも足を運び続けてきた宮浦さん。その7年の間に、自身のSNS発信をはじめ、様々な形でデザイナーと産地とをマッチングさせてきました。宮浦さんのその活動の原点と、生地産地の現状についてお聞きしました。

日本の生地産地との出会い。

― 宮浦さんが産地に足を運ぶようになったきっかけを教えてください。

僕は東京の大学でファッションを学んだ後、留学先のロンドンで日本の生地が高く評価されていることを知りました。それも、パリやロンドンのコレクションで発表している有名どころの海外ブランドの間でも「日本の生地は品質が良い」という評価がスタンダードになっている。海外で日本の魅力に気づかされ「日本の生地産地のことをもっと知りたい」と帰国を決めました。

帰国後は各地の産地をめぐり、ブログやSNSで見聞きした内容をアップしていたのですが、取材させていただいて記事を書いたりするのは、工場に行く資格も理由も持っていなかった僕にとっては「工場を見学させてもらうための手段」という感覚でした。

帰国後にはじめて訪れた工場は、八王子の老舗テキスタイルメーカー「みやしん」さん。みやしんの宮本社長は、ふわふわした僕に対して全国の現場を見るようにと、産地一覧などの資料を渡してくれました。そこから1年のうちに、愛媛のタオルが有名な今治や、ジーンズの岡山、兵庫の西脇、群馬の桐生、ハイテク素材の北陸産地など、主要産地と呼ばれる場所は全て周りました。

― わずか1年で全国を巡るのは、相当な熱量が必要ですよね。実際に現場を見て何を感じていましたか?

当時は素人ながらに純粋に、機械が動くダイナミックなシーンに感動したことを今でも覚えています。それは、大学4年間と海外留学でファッションを学んでも、知り得ない世界でした。

実際に生地が織られる現場を目の当たりにする中で、想像もしなかった大きな機械が動き、職人さんからマニアックな言葉を添えられる…「こういう人たちがファッションを支えているんだ」と胸が高鳴りました。その感動が原動力になっていきました。

それを、当時流行りはじめのInstagramなどSNSで情報発信していましたが、それをデザイナーの友人など見る側も楽しんでくれて。「自分も産地に行きたい!」という人も多くて。時代背景的に20~30代の僕らの世代は、産地に興味を持つ人も多く、そこにフィットしていたのかなと。

― 各地の産地に足を運ぶための資金は最初、自費だったそうですね?

はい。最初の頃は依頼を受けていたわけではないので、自費で夜行バスを乗り継いで行き来していました。資金が無くなると、通訳のバイトや、病院の治験のバイトなどもして。産地へ行くことが一番の目的で、そのために融通の利くバイトで活動資金を稼いでいました。

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そんな生活の苦しい時代からご好意で安く貸していただいているのがこの「セコリ荘」です。最初は住居兼、生地のショールーム兼、おでん屋さんも運営ながら、絶えず産地に足を運んで。帰ってくるとコミュニティースペースとして繊維、アパレル業界の友人と集まり、生地サンプルを共有したり。時には職人さんを呼んで話を聞く場として活用してきました。

そんな活動が少しずつ知られるようになると、産地の記事執筆や企画を依頼してもらえるようになり、だんだんと東京と産地を行き来することが仕事としての形になっていきました。

生地産地に眠る宝の原石を磨きあげ、世に出すために。

ー 宮浦さんが7年を通して見てきた産地は、今どう変化してきましたか?

やはり実感として工場の数は減ってきてしまっています。産地を知る第一歩となった、みやしんさんをはじめ、はじめて伺って染色のことをたくさん教えていただいた糸染め屋さんや、はじめて起毛加工を教えていただいた毛布屋さんも工場を閉じてしまいました。分業制で成り立つ産地にとって、危機的な状況にあります。

ただ一方で、僕は産地に足を運びながら常に可能性も感じています。生地産地に限らず工芸などもそうですが、産地には今も宝の原石が山ほどあります。

生地は多くの問屋を通してマーケットに出ていきますが、それは作られているもののほんの一部。その10倍、20倍のものが現場では作られ、試行錯誤が繰り返されています。それを見ることができるのが、直接産地の工場を訪れる楽しさのひとつです。

しかし、その「原石」の多くは産地からメーカーの手に渡るまでに、物性(生地の堅牢度などの規定)や価格などのハードルを超えられず、展示会に出ていくのはほんの一部。尖った面白いアイデアや技術は、ハードルを越えるために削られて、まるくなり面白くなることも。極端に言ってしまえばそんな状況です。

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そういった技術や面白い生地の源流のところにアプローチして、その原石を磨き上げることができれば。デザインが介入するタイミングを早めることは簡単ではありませんが、そこが化学反応が起きやすいポイントだと思ってます。

実際にこれまで産地に連れていった多くのデザイナーや異業種の友人も、普段目にすることのない生地に触れると面白がって、新たな発想が生まれるところを目にしてきました。

― やはり、そのためには産地に足を運ぶことが一番なのですか?

実は、接点を作るだけでなく、コミュニケーションも大きな課題です。どんなに素晴らしい技術も、産地の職人さんにとっては特別なものではなかったり、魅力をうまく伝えられないことが多い。すんごいサンプルが雑に平置きされているような。そして、取り引きする上では専門用語で会話をするために、円滑なコミュニケーションをするのに時間がかかるかもしれません。

― そもそもデザイナーさんは、そういった業界用語や生地のことにも精通しているというイメージがあるのですが、そうではないのですか?

昔は、デザイナーの多くは産地に頻繁に足を運んでいたそうですが、今は、入社してから産地に通ったり、開発の知識を学んだり、経験を重ねるような話はほぼ聞きません。もちろん、直接工場と取り引きをするかしないかは、会社のスタンスもありますが。

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産地とブランド、問屋、という構造があって、そして出張に行きづらい時代かもしれませんが、だからこそ、デザイナーが頑張っていろんな産地にできるだけ行くことが重要だと僕は思います。そして、もっと職人もデザイナーも双方が歩み寄って意思疎通して同じ方向を向いてものづくりをしたらますます面白くなります。

二人三脚的に純度の高いクリエイティブなものづくりをしていて、ここじゃないと生まれない!という商品づくりを続けているブランドもたくさんあります。

― なるほど、まずは産地を知るための接点づくり、そしてマッチングやその後のコミュニケーションと、課題があるのですね。実際にはどのような形で産地とデザイナーを繋げているのですか?

もう5〜6年ほど、年に10回ほど開催しているのが、産地の工場をめぐるバスツアーです。そして、産地でもらってきた生地サンプルを並べ、職人さんの話を聞くコミュニティースペース「セコリ荘」。それから、2017年からはデザイナーや繊維業界の人が産地のことを学べる場として「産地の学校」という事業もはじめました。

しかし、現状はどうしても「点と点」の接点を生み出すのがやっと。今後はもっと立体的に展開していけるよう、産地の生地を見られるライブラリーも制作予定です。産地と人との繋ぎ方は、少しずつ形を変えてきています!

第2話では、宮浦さんの活動の「これまで」と「これから」についてお聞きします。

記事・撮影|小泉優奈

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