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吉村萬壱「カカリュードの泥溜り」 感想

キラスタ教の支部長と、支部長の家に招かれた野球帽の男(浮浪者)を中心に、物語は進行していく。冒頭被害者であった野球帽が、結末加害者になるという、対照的な構造に包まれ、そこには、宗教という眼鏡を通した、多くの「逆転」が見出せた。

キラスタ教の教義の中に、「カカリュード」と「泥溜り」という概念がある。野球帽は他人に世話をしてもらう「カカリュード」そのものであり、他人の世話に依存して、罪の状態「泥溜り」にあると示される。そして「カカリュード」を救うことは信仰の証、「泥溜り」にいる者を救うこともまた信仰の証。浮浪者は、善行をなすにもっとも都合の良い存在だろう。

本来、支部長にとって「善」なる存在であるはずの妻が、不倫や喫煙という罪を犯して「悪」となった。招かれた家で暴行を働く野球帽は、一般的に「悪」であるが、キラスタ教的には善への道標であると言える。そこには、善と悪との逆転があった。野球帽の皮膚病と、妻の「百人に一人の肌理」という、対比的な表現が、本来のあり方を象徴している。

終盤、支部長は妻を失い、暴力的な野球帽に依存して、自身もまた「泥溜り」に浸かってしまう。それは一般的に不幸であるが、キラスタ教の研究をする、彼にとっては幸福だった。「『御世話』の主の方が、カカリュードという『泥溜り』にどっぷりと首まで浸かって抜け出せなくなることこそ『カカリュードの泥溜り』の真の意味だったのである。それはまさに、ゴッズへの再接近を意味していた』。

信仰に支配された狂気的な視野が、善と悪、幸と不幸との逆転を描き出す。「連作5」と書かれていたので、他の作品も今後探して読もうと思った。

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