コロナ時代の旅行記─京都編①
もともと旅行が趣味というタイプではない。大学時代にシーズンごとに貯めたバイト代をはたいて外国に出かけていく連中を、当時流行していた自分探しの旅でしょ、って感じで見下したりしながらちょっぴりうらやましい気持ちになっていた。
なんというか趣味っていうのは、内面を豊かにさせてくれる行為のことで、それを外部に求める旅行を趣味と語れる感覚ってものに当時は青臭い嫌悪を感じていたらしかった。
それがこの数年、仕事も含めて何かしらで毎年どこかしら旅に出かけている。
台湾、シンガポール、韓国、オースティン、NY。
国内でも伊香保や箱根といった近場から、石垣島、西表島、屋久島といった島にも出かけた。どの土地でもどんな歴史を持った場所なのかを調べたり、地元の人たちの暮らしぶりがわかるようなお店に出かけるということが楽しくて、そうか趣味が旅行っていうのはこういうことだったのか、と今になって蒙を啓かれるような気持ちになりながら、仲間たちや妻と一緒にいろいろなところに出かけてきた。
8月4日、Google photoが昨年のその日に撮影された写真を呼び出した。ブルックリン・ブリッジの上で撮影されたそれを見て、ああこの世界にはかつて思い立ったら出かけることのできる国がたくさんあったんだなあ、と思う。
それで当初予定していたけれど、愛知県独自の緊急事態宣言の影響でやめようと思っていたこの夏の旅(というよりは移動に近い)をやっぱり行おうかと思った。定期的な地元のクリニックでの診察に合わせて、京都に移住した友人の自宅を訪ねるというその予定は旅というほどの潤沢なプランを持たない気まぐれなものだったけど、この状況下ではまったく正しく特別な旅として記憶されたらしかった。
8月20日(木)
朝8時に家を出て、いつものようにexで予約した新幹線に乗る。直接の診察はじつに半年ぶり。都内に緊急事態宣言が出されていたから出かけていなくて、母に代理診察をしてもらい薬をもらっていたのだった。
新幹線はグリーンにした。できるだけ他人が少ない状態で移動をしたかった。新横浜を出る時に買っておいたシウマイ弁当を開くのはいつもどおりだったけど、記憶の中のそれよりも実際のシウマイ弁当の量は多く、京都についてからちゃんとお昼を食べられるか不安になる。
Airpods proでこの週ずっと聞いていたmacomaretsをかけっぱなしにしながら、本をひらくこともせず、ただ流れていく風景を見ていた。この速度で移動するのは久しぶりのことだった。窓際の出っ張りにX100Fを置いておいて、あ、と思った時にシャッターを切る。富士山が近づく山あいの空の青や浜名湖の上空の青が、普段の生活の中でみる空のものとは違うという当然のことに改めてハッとしたりする。
いつもと違う緊張感があったのは久しぶりの長距離移動だからというわけではなくて、ぼくが都内から県境をまたいで移動するということに紐付いているらしかった。GO TOキャンペーンの施行以来地方の主要都市でも感染者は増えていたからこれまでのような「東京一極集中」という状況ではなくなっているけど、それでも地方に行くというのには気が引ける感じがしてしまった。自粛要請って言葉は、この国の人たちにとって、強制的なものを感じさせるフレーズなんだと思う。
「ひとまず荷物おきにうちくるよね? 駅出たら、5番のバスに乗って」
とたかくらが言っていたから京都駅についてバスのりばを目指した。皮膚が焼けることを数秒ごとに実感させられるような日差し。すでに気温は38度ほどあるようだった。
「SUICAはつかえる?」
とそのLINEへの返事を打ち込んでいたのは、バスの車内で「SUICA使えますか?」と聞けばすぐ都内から来た人間というのが知れ渡ってしまうから、その状況を避けたかったのだった。あらかじめ予想していた危機が防げないとパニックになってしまうから、ASD的な人間としてそれを避けたい。
5番というのが乗り場の番号なのか、バスの路線番号なのかわからないまま歩いていくだんだんそれが路線番号だとわかって、目に入ったバスロータリーの乗り場には5番と表示されたバスが到着したところだったから、急いで乗り込む。
社内の表示で交通系ICカードが使えると知ってから緊張はいくぶん溶けていって、代わりに知らない町をバスで移動していくとということのわくわくした気持ちが持ち上がり、鼻歌のようなのが喉の奥から漏れていった。シンガポールに滞在していた時、でたらめに乗ったバスの通過する地名が全然調べていたものとは違って恐ろしくなりながら、必死で窓の外を眺めていた日のことを思い出す。
最後までありがとうございます。また読んでね。