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普遍で不変な身体の価値。

価値なんて時代と共に移り変わるものだし、
文化が違えば全く別物になったりする。

それに気づいた頃から、
じゃあ私にとって価値あるものとは?
を考えながら日々過ごしている。


何か行動を起こすことも
(結婚したり、子をもったり、就職したり、旅をしたり)

100%純粋な自分だけの価値観と欲求に基づいたものというのは
とっても稀有なんじゃないかと思っている。

私たちは「望むこと」を
生きる糧や行動の原動力にしていて

その望みは無限で制限がなく
ノールールである。

いつかマルクス主義の斉藤幸平氏が
どこかのメディアで言っていたのだけれど、

「意識が社会を作るんじゃない、社会が意識を作るんだ」

ということを前提とした時に、
(言葉の真意とは解釈が異なりますが、少し言葉をお借りします)

“私たちの望みはこの社会から作られた意識を介在した望みである”

ということができる。

例えば、
結婚して家族を持ちたいとか、
自分で商品を作って世に出したいとか、
労働で稼いだお金で家族と穏やかに暮らしたいとか、
美味しいスイーツをいっぱい食べたいだとか。

色々あると思うんだけど、
結局この社会や生育環境から得た意識の中で作られた願望だといえる。

全然これを悪いことだとは思ってはいない。
むしろ私たちは決して社会と切り離して存在できないのだから、そう在るしかあり得ないのだとも思っている。

素直に望みや欲求通りに生きていることはとっても素晴らしい。


だけど、

“それがいかに今の社会に左右されたものであるかの自覚が大切だ”

ということは常々自分に言い聞かせている。

なぜならこれを自覚してなかったら、
結局のところ社会に操られちゃってる感じがある。
(その願いが社会に迎合する望みであっても、反面教師的な望みであっても)

このことに気づいた時点で私たちは、

“社会から生み出されたわたしの望み”ではなくて、
“この社会を利用して望みを作ったわたし”になれる。

意識の上での主導権奪還ができるのだ。

(もう本当に自分は行動や意識、全ての面で自分主体で生きていたいんだなあと思う。)



さて、価値とはそういうものだと理解した時、
目の前のほとんどのものが
無価値というか過ぎ去るものだとも思えてくる。

ー私にとって
 本当に価値あるものとは何だろう?ー

自分が大事にしていることやもの、行動が、ある意味そういう虚しい側面を孕んでいるとなると、

私はたまに本当に虚無的(ニヒリズム的)になることがある。いや、なっていた。今は結構折り合いがついてきている。

だから、時代の中で消えていくようなもの(流行り)には取り立ててあまり興味はなく、

自分が携わるものやライフワークは普遍的なものがいいとずっと模索し探求してきた。

時代と共に移り変わるものが無価値とは思っておらず、それがなければ人々の暮らしは豊かにならないのでとても大切だと思う反面、

興味の矛先はやはりいつの時代も揺るがない普遍的なものに向けられるのである。

で、結局辿り着いた
自分のライフワークのテーマは「身体」だ。

人間がある限り、この身体はあるだろうから。

この記事を書いたのもそういう価値観が背景にある↓



いつか人間がAIや何かに
本当に生殺与奪権を与える日が
もしかしてくるかもしれない。

そんな世界線が存在することも
想像に容易くなってきた現代である。

そうなると「身体は本当に必要なのか」
とかいう議論が飛び交うのだろうけど、

個人的に絶対にそんな時代は嫌だし、
後世人類にもそうなってほしくない。

これは本当に私の間違いない望みで
私の価値観であるなあと思っている。

だから、
身体/身体性のことをちゃんとしていく。
特に自分自身をしっかり感じていくセルフケアをしていく。

例えば今の私は、
周りから見たらただヨガをやっていたりするだけなのだろうけど、
本当はそんな価値観のもとにやっている。

意識の上で主導権を持ち、価値観を作り上げる。
そして行動するのが、

今のところ

ちゃんと自分を生きている気がするのだ。

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