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テクノロジーが導く未来に別れを告げよう ~若林恵著「さよなら未来」のこと


WIREDという雑誌は元々1993年にアメリカで創刊された雑誌で、日本版も1994年から刊行されていたのだけれど1998年に休刊、その後2011年に再刊されることになりました。この第2期WIRED日本版時代の編集長を務めたのが、本書の著者です。

本書には著者が関わった時代のWIRED日本版で担当した記事や編集長として執筆した巻頭言、編集後記のほか、ちょっと立ち上げてみたCDレビューブログの記事などが収められています。

で、この第2期WIRED日本版は著者の編集長辞任をもって再び休刊することになったのです。なので、本書のタイトル「さよなら未来」というのは、「未来」をフィーチャーし続けた雑誌「WIRED」への「さよなら」という意味が込められています。

でも実はそれだけでなく、このタイトルこそが「一体、なぜ著者はWIREDを辞めることになったのか」という疑問に対する答えとなっているのです。

さて、インターネットと社会との関わり、ということを考えた場合、とりわけ問題になるのはいつも「それで何が変わるの?」ということです。

著者は言います。

「『WIRED』日本版では、これまでさまざまな話題を特集として取り上げてきたが、「会社」にせよ、「ゲーム」にせよ、「教育」にせよ、「音楽」にせよ、「行政」にせよなんにせよ、基本的なモチーフは「そこにデジタルが介入することで、それまでその「業界」を構成してきた中央集権的なヒエラルキーは解体(は言い過ぎなら再編成)を求められるようになる」ということで、それはどんな分野を扱っても判を押したように同じだったりする」

つまり、ある業界にインターネット技術が介入することによって「脱中央集権化」という名の「民主化」が起こり、それは「善」である、というのがWIREDという雑誌の根本的な主張だし、その編集長であった著者ももちろんそうだし、その取材対象となるさまざまなネット企業のアントレブレナーたちもそうだし、そんな雑誌を好んで読んでいる私のような読者ももちろんそうなわけです。

で、そういうのって実はもはや空気としてはある程度出来上がっていて、だから多くの企業やそこで働く人も「イノベーションが大事だ!」なんてことを割と当たり前のように言ったりして、で、著者のように「イノベーションを牽引する雑誌」の編集長などは色んな業界団体から声がかかるようになる。

著者がWIREDの編集長を務めていた2012年から2017年までというのは、インターネット業界でさまざまなことがありました。たとえばTwitterやFacebookといったSNSの流行もそうですし、最近だったらAirbnbやUber、ビッグデータ、AI、ブロックチェーンなんかが話題ですよね。

そして著者は正に「イノベーションを牽引する雑誌」の編集長としてそうしたものを取り上げ、またそうしたものについて考えてきた。

しかし、そうしていく中で見えてきたもの、実はそれって、「結局はそれでも既存のシステムというのが再構成されるなんてことは滅多にない」ということだったりするわけです。

GoogleだったりFacebookがどれだけすごい企業になったとしても、結局やってることは世界規模の広告屋さんでしかないじゃんか、みたいなね。

もちろん、GoogleやFacebookが世界を変えた部分も大きいのだけれど、なんか芯の部分は別に何も変わっていない。

著者のWIREDにおける最後の仕事となった特集は「アイデンティティ」がテーマでした。

さまざまなデータが集められて解析され、「最適解」が引き出されることになるかもしれない「未来」、そんなこれからの社会における「アイデンティティ」とはなにか。

「足は遅いけど力のある子がいたとして、その子をサッカーや野球ではなく、子どものころから重量挙げの選手として育てることはたしかに効率がいい。どうせサッカーや野球をやっても芽が出ないことは分かっているのだ。向いていない競技で補欠に甘んじるよりも、得意なことで試合に出られたほうが幸せだろう、というのも納得がいく。けれども、本人が「どうしてもサッカーをやりたい」と言うとき、どちらをやらせることが最善の解となるだろうか」

実はここに、テクノロジーというもの、もっといえばその背景となる科学というものの怖さがある。「科学」はいつも「正しさ」を背負っている。でも、それって本当はすごく「怖い」ことだと思うんです。

僕がこの著者を信頼できると感じるのは、彼が正にそうしたことをずっと意識し続けてきたからなんです。なんというか、「正しく怖れている」感じがある。

というのは、どちらにせよ、テクノロジーの進歩というのはもう止められないわけです。ブレーキのついていない車にみんなで乗り込んでいるようなものだから。で、その車から降りようとか思ったら、現実問題として中国の奥地で暮らすとかするしかないわけで。

だからといってこのブレーキがない車に乗り込んで「超スピードでるぜー! ヒャッハーッ」なんて喜んでるのも、「お前は「北斗の拳」のザコキャラか!」ってな話じゃないですか。実際。

そう考えた時、テクノロジーというのが、科学というのが人間社会にとって必要なものであればあるほど、本当に必要なのは「技術の発展」ではなくて「人間そのもの」になってくる。もっと「人間」自身について、「便利さ」ではなく、「幸福」とか、「倫理」とか、そういうものについてちゃんと向き合わなければならない時代になっているわけです。「それは科学が扱うテーマじゃない」なんて、もう言っていられないわけです。「えっと、その答えはいずれ「未来」が解き明かしてくれるとして…」なんて言い訳も、もう通用しない。

だって、科学はもはや人間にとってある種の「権威」なんでしょう? 今現在を生きる私たちにとって、最も「真実らしい何か」なんでしょう? その「権威」がある問題について「そのことについては考えない」という立場を取るということは、間接的にどういうことになるのでしょうか? っていう話。「はっきりと言っていなくても伝わるメッセージ」というものがあるでしょう? と。


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重要なポイントは、実はもう「未来」は「終わってる」ということだと思うんです。というか20世紀的な「未来」なら、もうすでに「来ている」。だって、今、現在がその「未来」なのだから。もしも今がそうでないというのなら、かつて世界中の人が夢見ていた「未来」なんて、それこそ「未来永劫」訪れない。

だとすると、たとえば「テクノロジーが発達すれば人間が変わる」なんてのも嘘だし、「物質的な豊かさが幸福につながる」なんてのも嘘なんですよ。テレビからインターネットに変わったところで、ワイドショーを見てた人は代わりに自分のFacebookに大量投下されるフェイクニュースを見て喜ぶだけなんです。あるいは「いいね!」をたくさんもらって喜ぶようになるだけ。でも、それって別に何も変わってないじゃない?

「戦後日本のおっさんたちが、汗水垂らして働くことでつくりあげてきた繁栄。「アズ・ナンバーワン」の美酒に酔いしれ、ご褒美のつもりでバブルのなかに引きこもって浮かれ騒いでいるうちに、外の世界はすっかり様変わりしてしまった。失われた二十何年だかは、ハシゴを外されたおっさんのアイデンティティが彷徨い続けてきた二十何年でもあろう。
 といったことが、なにも日本だけに限った話ばかりでもなさそうなのは、ブレグジットやトランプといった現象が、自ら汗水垂らしてつくりあげた社会のメインストリームのポジションを女子供や外国人によって追われたおっさんたちの居直りの結果のようにも見えるからだ。世の中の真ん中にいたつもりがいつの間にか隅へと追いやられてしまった人たちにとって、「メイク・〇〇・グレート・アゲイン」は、そりゃ美しく響くだろう。とはいえ「よかった過去」が含意されるスローガンが甘美に響くのは、「よかった過去」を知っている人たちだけだ」

最先端のネット技術を見続けてきた著者だからこそ感じたもの、それは、インターネットやさまざまな情報技術がもたらしてくれるかもしれない「可能性」と同時に、結局はそれらのほとんどが20世紀的なおっさん連中の価値観の枠に取り込まれてしまうという現実でもあったのでしょう。

要するに、「で、それって儲かるの?」「それって何の役に立つの?」みたいなね。AIなんて正にそれでしょう。AIという「新しい技術」が変えることになるかもしれない価値観についてなんて、誰も興味がない。「で、それで俺の仕事が奪われたりしない?」って、そんなことばっかり。

うんざりしちゃうじゃん、そんなの。そんな人たちが考えているAIが、何か社会を(いい意味で)変えるなんて、どうやったって思えないじゃん。


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ギターはエレキギターになってどんどん進歩していくのに、いつまで経ってもジミヘンは現れそうにない。会社の企画会議で「なんかイノベーションを起こせませんかね」って、起きるわけねーだろ! ていうか、画期的なアイデアに「無謀な」挑戦する余裕、もはやねーだろ!

もちろん、ジミヘンなんてそう簡単に現れるわけがない。でも、多分、ジミヘンほどすごくなくたっていいような、そんな気がするんですよね、今の時代。「脱中央集権化」して「民主化」した社会に必要なのは、たった一人の偉大なジミヘンではなく、たくさんの小さなジミヘンでかまわない。だって、そういう「権威」の否定こそ、インターネットカルチャーでしょ?

「最適化ということばには、現状をひたすら肯定し、ただ補強していくだけのような響きがある。未来の価値が現在との差分に宿るというのが本当なのであれば、「演算された未来」というフィルターバブルの中には、薄まり細っていく「現在」しかない。そこでは誰も、なにも成長しない。飛躍もない。驚きもない。未来そのものが奪われているのだ」

「さよなら未来」。ああ、なんて素敵なタイトルなんだろう。ほんとにそうだよ。20世紀的な、演算された未来なんて、もうたくさんだ。「最適な未来」と「最善な未来」は違うんだよ。

だから、さあ、「今」という「未来」を楽しもう。たとえば、そう、ジミヘンになって歯でギターを弾いてみるのもいいかもね。

おいおい、それのどこが「最善な未来」なんだって?

んなこと誰にだって分からないよ。だからやってみるんだ。そうじゃない?


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