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卍に吸い込まれし者たちの集い 〜谷崎潤一郎著「卍」のこと

――諸君、本日諸君にお集まりいただいたのは、他でもない、谷崎潤一郎の作品「卍」について語るためである。

作者らしき人物、先生に向かって大阪の言葉で相談を持ちかける女がいる。その相談とは女性同士の同性愛である。この題材、発表当時はさぞかしセンセーショナルなものであったことだろう。

相談者である女性、園子には夫がいる。園子は手すさびに習い始めた絵画の学校で、運命の女、光子と出会うのだ。

園子と光子は互いの裸を見せ合うほどの親密な仲となり、光子は園子のことを「お姉ちゃん」と呼ぶ。そうして互いに「早く逢いたい、明日が待ちきれない」という恋文を交し合う。

しかしこの二人の関係にひびが入る。光子の彼氏、綿貫の存在である。

実は光子には園子とそのような仲になる前から、綿貫という彼氏がいたのだ。

その事実を知り園子は憤慨するが、結局は光子にほだされて元鞘に収まる。

光子と園子、綿貫という奇妙な三角関係。

しかし物語の後半、そこに新たな人物が加わることにより、関係はより複雑なものとなっていく。

そのためこの作品の題名「卍」とは、その四人の関係を表したものである、という解釈が一般的である。

バンッ!!(机を叩く音)

しかし諸君! 私はその解釈に強い不満を覚えるのである。

私は先ほど四人の関係を「複雑だ」と言ったが、それは嘘である。少しも複雑ではない。

なぜなら光子を除く三人は皆、光子に思いを寄せているからだ。

「卍」が四人の関係性を表しているならば、光子もまたその関係の中の一人にすぎなくなる。

しかしそれは断じて違う!

なぜなら光子はこの物語の中心なのだからだ。

つまり、この作品は光子と彼女を愛する三人の男女の物語である。ほら、何とも簡潔な関係性ではないか。

そこで諸君、この作品の題名「卍」について今一度思い出してもらいたいのだ。

この「卍」という字、果たしてどこが上でどこが下だろうか。どこが右でどこが左だろうか。

諸君は「そんなものは見れば分かるじゃないか」と言うかもしれない。しかしこの「卍」という字が正しく表示されているという保障はどこにもない。

いや、そもそも何が正しいかという保障すらないのである。

なにが言いたいかというと、この作品で描かれている関係性、「同性愛」であったり、あるいは「不倫」というもの、それを背徳的なものと感じるのは、その拠って立つ「倫理」が存在するからであろう。或いはそれを「基準」や「常識」と言い換えてもよい。

しかしこの作品を読み進むにつれ、我々読者はそうした倫理や基準、常識が失われていくことに気付くのだ。

「同性愛」だとか「不倫」だとか、それが正しいかどうか、普通かどうかということなど、もうどうでもよくなってくるのである!

なぜならこの関係性の中心にいる人物、光子は、ただの「無」だからだ。

一体なにゆえにこの光子という女は彼氏がいながら一人の女を誘惑し、さらにもう一人までも巻き込もうとするのか。

その理由は語り手である園子にも、また読者である我々にも理解することができない。

理解できないものに倫理や基準を当てはめることなど、どうしてできよう。

我々が「卍」という字について、その指標、どこが上でどこが下で、どこが右でどこが左かということを知ることができないのと同じように。

ただ我々が知りうることのできるのは、その中心にただ「点」がある、ということのみである。

その「点」の中では、時代も、信条も、法律も、愛も、憎しみも意味をなさない。

なぜなら、それはただの「点」であり「無」にすぎないのだから。

この作品に描かれている「光子」、それは究極の「無」である。

この光子という中心に、三人の男女はぐるぐるぐるぐる吸い込まれてゆくことになるのだ。

そう、その様こそが谷崎がこの作品で描こうとしたもの、「卍」なのである!!!

さあ、諸君、よく見てみたまえ! 

この「卍」の字を!



ほら、この字がまるで渦のようにぐるぐるぐるぐる回り始めたであろう!!

諸君、しかも驚くべきことに、渦に巻き込まれているのは決して光子とその周りの男女だけではない。

この物語を聞いている「先生」も、そして本書を読んでいる我々読者もまた、この「卍」の渦に巻き込まれているのである!

そのことに気づいたとき、読者は愕然とし、気づくのだ。男女を問わず、自分ももはや光子の虜となっていることに。この渦の中に巻き込まれていることに。

おお、「光子」、それは、無である。

無ではあるが、極度に体積の凝縮した無である。

それゆえに、彼女はあらゆるものを吸い込むのだ。まるでブラックホールのように。

本書のタイトルである「卍」の字、この字はまさにそのことを象徴していたのである!

谷崎が描こうとしたもの、それはまさにこの「卍」の中心、渦の底にあるのだ。いや、「ある」という表現もまた的を得てはいない。そこはただの「無」なのだから。

我々は本書を通して「光子」という究極の「無」を見ることができる。だが、決してそれを理解することなどできないだろう。  

もしかすると諸君の中にはこの作品をまだ読んだことがない、という人もいるかもしれない。

どうだろう。諸君の中でこの作品を未読だという、そこの貴方。  

その「無」を、見てみたくはないだろうか? 

決してそれを理解できないとしても、それでも見たいと、そう思わないだろうか?

ならば、さあ、遠慮はいらない。

本書を手に、共に堕ちて、吸い込まれてゆこうではないか。

どこまでも果てしなく深い渦の中へ。「卍」の奥の、そのまた奥へ。



ほうら、ごらん。卍がぐるぐるぐるぐる回り出す……ぐるぐるぐるぐるぐ~るぐ~る……あなたはだんだん眠くな~る……そして「卍」が読みたくな~る……



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