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白と黒のその間に無限の色が広がってる 〜ジュール・ヴェルヌ著「二十世紀のパリ」のこと

ジュール・ヴェルヌの研究者たちの間で神話となっていたという本書。というのは、ヴェルヌが死去した時、その息子ミシェル・ヴェルヌが作成した作品リストの中にこの作品のタイトルが記載されていたものの、その原稿が見つからず「幻の作品」とされていたからだそうです。  

ところがミシェルが死去した時、鍵すら失われた金庫の中から発見されたのがこの作品「二十世紀のパリ」だったのでした。  

ヴェルヌと言えば十九世紀の作家であり、もちろんSFの創始者のひとりとしても有名ですが、この作品はその彼が100年後の未来のパリを予想して描いたものでした。  

と言うわけでどんな内容なのか、ちょっとご紹介しましょう。  

あらすじ

この作品における二十世紀のパリ、それは十九世紀に比べて科学技術が進歩していることはさることながら、同時に社会も変化しています。  

まず、冒頭に登場するのが「教育金融総合会社」。ヴェルヌは100年後の未来では「教育」がビジネスとなっているだろう、と予想しているのです。  

そしてヴェルヌは予想します。その「会社」ではいったいどんな教育がされているのか。それは主に「科学」と「金融」なのです。なぜならそれらこそが「合理的」で、「実用性」がある知識なのだから。  

さて、そんな「会社」の卒業式。当然このような時代ですから、この「会社」の文学部の生徒なんていうものはもう、本当に馬鹿にされているのですね。そしてその授賞式でラテン語の作文一等賞を取ったのが物語の主人公、ミシェル・デュフレノワ君だったのでした。  

 会場全体から爆笑が沸き起こり、その間を縫ってこんな言葉が飛び交った。
 「ラテン語の一等賞だと!」
 「書いたのはあいつ一人だったんだ!」

さてこのミシェル君は孤児だったので叔父夫婦の家に預けられていましたが、この叔父夫婦はパリでも有名な銀行の頭取でした。そして叔父はミシェル君に言うのです。  

「君の父親は芸術家だった。この言葉がすべてを言いつくしている。君は父親の不幸な天分を受け継いではいなかったと考えたい。しかし、摘み取らねばならぬ芽が君のうちに芽生えていることをわしは発見した。君は好んで理想という砂原をさまよっているが、これまでのところ、君の努力のきわめて明白な結果は、君が昨日、ラテン語の詩で賞を取ったことだ。まことに恥辱の至りだ。君の立場を算定してみよう。君には財産がない。これは欠陥だ。おまけに君には親がない。ところが、このわしは家族の中に詩人なんぞがいることを欲しない。わかったか! 人の顔に韻なんぞを浴びせに来る輩を欲しないのだ。君には裕福な家族がある。その家族を巻き添えにしてはならん。芸術家なんてものは気取り屋以外の何者でもない。芸術家がわしの消化を助けるというのなら、百ソルぐらい投げてやってもよいがな……よく聞くがよい。芸術の才能など不要だ。必要なのは実用的な能力だ。」  

そんなことで「役立たず」として叔父のコネで銀行に入社するミシェル君ですが、銀行の中ではもう彼の噂は広まっています。そして彼は銀行の中でも一番身分の低い仕事へ回されることになるのです。  

その部署では「大会計簿」と呼ばれる巨大なコンピューターがあり、ミシェル君の仕事はその担当者キャンゾナスに向って数字を読み上げる、というそれだけの仕事でした。  

このキャンゾナスという彼の上司が、実は元音楽家だったということを知り二人は意気投合します。  

果たして二十世紀のパリでの文学青年ミシェル君。彼の運命やいかに?  

本書がお蔵入りになった理由

と、そんな未来の世界を描いたこの作品、どうしてお蔵入りとなったのでしょうか?  

この作品が書かれたのは、ヴェルヌがデビュー作「気球に乗って五週間」を書いてすぐの頃だったようです。ということは、まだ有名な作家でもなんでもない、未来を約束されていない新人若手作家だった頃です。  

この作品の出版を拒否した編集者はこの作品に対してかなり辛辣な意見をヴェルヌに寄せたようです。  

実際、当時の人々からすればこの作品で描かれていることはあまりにも荒唐無稽で、しかもあまりに悲観的過ぎると感じたことでしょう。  

ヴェルヌはその後、「海底二万海里」や「カルパチアの城」などでセンス・オブ・ワンダー、楽観的な科学の未来を描く作家として世界的な名声を得ることになります。  

しかしこの作品からはヴェルヌが彼の愛する科学やその元となる合理主義というものに元々悲観的な視点を持ち合わせていたことがうかがえるのです。  

そして二十一世紀を生きる今の僕たちがこの作品を読むと、当時のヴェルヌの「予言」が決して荒唐無稽でも誇張のし過ぎでもなかったと言わざるを得ないのではないでしょうか。  

もちろん、世の中には様々な考え方をする人がいるでしょう。僕にはどう考えたって本書に描かれた世界はディストピアでしかあり得ませんが、そうではない人もいるかもしれませんね。大学から文系科目をなくしてしまえと言う人もいるし、大学などは新入社員養成機関でしかないと思っている人も世の中にはいます。実際、科学の話とお金の話しかできないくせに自分が賢いと思い込んでいる人もいます。そういう人にとっては本書に描かれた世界はユートピアなのでしょう。 だから本書は予言となっている。

問題はヴェルヌが何を根拠に100年後の未来を予想したのか、ということだと思うのです。  

白と黒のその間に

ちょっと話は変わりますが、Mr.Childrenの「GIFT」という曲をご存じでしょうか?  

僕はこの曲が好きなんです。特に歌詞が。それはこんな歌詞なのですね。  

「白か黒で答えろ」という 難題を突きつけられ
 ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷ってる 迷ってるけど
 白と黒のその間に 無限の色が広がってる
 君に似合う色探して やさしい名前を付けたなら
 ほら一番きれいな色 君に贈るよ  

「白か黒で答えろ」というのは、すべてのことを0か1かに分けていく論理のことを表しているのだと思うのです。  

そして論理をその礎として発展するものすべてを。  

でも、すべてのことを白か黒、あるいは0か1かに分けていくということは、当然のことながら極論にしか行きつかない。白と黒、0と1しか答えがないのだから。だからもし極論じゃない「合理的な回答」なんてものがあるのだとしたら、それは論理を突き詰めていないのか、あるいは自分が極論を言っていることに気づいていないのかどちらかしかあり得ないのです。(そう、そしてもちろん、それは論理的で、それ故に極論なのだけれど)

でも今、世界を見渡せば、なんだか極論を声高に言う人が強くて、賢くて、偉い人になっているような、そんな気がしませんか。  

そういう人たちは気づいていない。自分が世界を白と黒しかないモノクロにしていこうとしていることを。  

だけどこの世界には白と黒だけじゃない様々な色彩があるということを。  

自分が合理的だと思っている人は、世界が不条理だと思うかもしれません。だから論理という言葉に酔心するのでしょう。でも僕からしたらこの世界をモノクロに変えていこうとする試みの方が、よほど不条理に見えて仕方がないのです。  

最後に

実はこの作品、僕は決して傑作と呼べるものではないと思います。ヴェルヌの傑作ならきっともっと他にたくさんある。でも、僕はこの作品こそがヴェルヌという作家が偉大であったことの証明だと思うのです。  

なぜならこの作品は、ヴェルヌという人がただ彼の愛する科学というものに耽溺した楽観主義者ではなく、科学というものが世界をモノクロにしてしまうことを知ったうえで、それでも科学を使って豊かな色彩を描こうとした人であったことを示しているから。  

正直僕は論理的に何が正しいのか正しくないのか、何が実用的で何がそうじゃないのか、そんなことはどうでもいいのです。僕が今書いているこのレビューがあなたを納得させるかとか、あなたにとって参考になるかならないかということも、申し訳ないけれどどうでもいいです。  

ただ僕はヴェルヌと同じように、そしてミスチルの桜井さんが歌ったように、この世界の色彩を、一冊の書物に描かれた色を誰かに届けたい。  

なぜならこの作品を読んで僕は確信したのですから。すべてが白と黒に分けられたモノクロの世界は、僕にとってはディストピアでしかあり得ないことを。  

本書の冒頭には出版者序文の言葉というのがあります。こんなご時世だからこそ、今ヴェルヌが読まれるべきだと。  

その中から僕はすべての文系の人とすべての理系の人に、この言葉を贈ります。 

未来の扉を開くのは、理性のみならずまた詩でもある

世界のどこかで、あるいは僕らの身の回りのどこかで、未来の扉が開かれますように。  

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