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芸術とは何か〜サマセット・モーム著「月と六ペンス」のこと


あらすじ


株式仲買人をしていた男ストリックランドは40歳の時、急に思い立って画家を目指します。

仕事も家庭も捨ててパリに向かった彼を説得するため、語り手である作家は彼を追うのです。

パリで再会したストリックランドは一言で言うならば厭な奴でした。

他人のことなど気にかけない、気にかけられることも迷惑だと思う、そんな男。

パリでストリックランドは彼を支える友人ストルーヴェの妻ブランチを奪い、しかも彼女はストリックランドとの恋に苦しみ自殺してしまいます。

ストリックランドはやがてタヒチへ向かい、そこで現地人たちと暮らしながら絵を描き続けます。その絵は彼の死後、偉大な芸術作品として認められることになるのです。

芸術=ミステリー?

さて、この物語の冒頭で語り手は次のように述べています。

芸術家の秘密を探る楽しみは、探偵小説を読む楽しみと似ている。その謎は宇宙の謎と同じで、答えがないからからこそ魅力的だ

つまり語り手はこの物語を、あるいは芸術というものを一種のミステリーのようなものだ、と思っているのです。

ならば、素直に考えれば、事件とはストリックランドが描いた作品である、となるでしょう。そしてこの小説は、ストリックランドの人間性に迫ることによって、彼の「芸術という謎」、「芸術という事件」を解き明かそうとしている、そういうことになるでしょう。

そして、恐らく多くの人がこのような問題設定に対して、何の疑問も抱かないのではないでしょうか。

つまり、芸術というものがいかにして発生するのかと問われれば、それは芸術家が作品を制作したときだと、誰もがそう考えるでしょう。

どこかで「芸術発生事件」が起こったとき、犯人は恐らく作者本人です。そして作者本人もまた、こう言うでしょう。「犯人はもちろん俺だ」と。

であるならば、もう何の疑いを持つこともありません。そうでしょう?

犯人は本当に作者なのか

作品は作者によって生み出されます。そして、作者が「これは芸術だ」というのであれば、誰にもそれを否定できません。それは確かに事実。

しかし、誰かが「私は芸術家だ」と言っても誰も相手にしない場合もあるのではないでしょうか。たとえば、パリ時代のストリックランド(=ゴーギャン)がそうであったように。

その逆に、本人にはその気がなくても、世間が放っておかないことだってあるかもしれません。たとえば、職人が芸術ではなく商品として作ったものが優れた芸術として重宝される、というのは茶の湯や民芸の世界で実際にあったことです。

つまり、誰もが「俺は芸術家だ」「これは芸術作品だ」と宣言することはできるわけですが、その宣言と作品に実際に価値が生まれるかどうかはまた別問題なのです。そして価値がなければ、宣言にはなんの意味もない。

つまり、何が事件であり、何がそうではないのかを決めるのは、実は事件を起こした者の側ではない。

だとするならば、こう考えることもできます。

芸術というものを生み出しているのは実は作者ではなく世間の方だ、と。あるいは、千利休や柳宗悦のように影響力のある審美家や批評家だ、と。

このことは、実は美学においては定番の問題設定で「芸術価値説」と呼ばれています。芸術の価値は一体いつ生まれるのか、誰が決めるのか、といった問題です。

そしてアメリカの分析哲学者であるアーサー・ダントーは「アートワールド」という論文を発表して大きな注目を集めることになりました。

ダントーは芸術の価値を決めるのは作者ではなく、作者と美術館や博物館のキュレーターや評論家を含めた「アートワールド」だ、と言ったのです。

アートワールドはどのような世界か

ところで、作家が作品を描く理由、というのは極めて個人的なことです。だからストリックランドは言うのです。

子どもじゃあるまいし、なぜ、顔も知らない連中の意見を気にする? 知り合いの意見だってどうでもいいのに

しかし同時に、実は世間がある作品をどう観るか、ということもきわめて個人的なことだと言えるでしょう。そして世間は、そこに芸術的価値があると思えば、たとえ芸術家が見せたくなかったものでも見ようとするものなのです。

作家はただ自分の作りたいものを作っているだけです。自分勝手に見たいものを見ているのです。だから、そこには価値が生まれることもあれば生まれないこともある。

だけど、それは世間や批評家もまた同じなのです。彼らもまた、ただ自分が見たいものを見、言いたいことを言っているだけでしかない。

誰かが優れた芸術家であるならば、ただ彼の作品だけを見ればいい。なのに「作品をよりよく知るために」などと称して彼の人間性についてまでも知ろうとする。そうでしょう?

そして、今度はその人間性について彼らはただ自分の見たいものを見、言いたいことを言う。

そう。「芸術」を生み出しているのは、本当は芸術家ではないのかもしれません。

この物語の語り手のような、表現者を取り巻く世間が、芸術家がただ自分の欲望のままに作品を描くように、自分たちの欲望のままに一人の絵描きを芸術家であると認めている、ただそれだけなのかもしれません。

ある人がいて何かを見ているとしましょう。そこに誰かがやってきて、言うのです。「お前が見ているのは月だ」と。あるいは「六ペンスだ」と。

そのことに耐えられない人間は、ある者は自殺しようとするでしょうし、ある者はすべてを捨ててどこかへ逃げようとするでしょう。

世間は芸術家の作品を見て、あるいは彼の人生を知り、勝手にそれに共感し、断罪し、そして、赦すのです。

そのことがいかに残酷で横暴なことなのか。そのことに気づいているのは、共感され、断罪され、赦された者だけです。

ストリックランドや、ストルーヴェの妻ブランチのように。

結局「月と六ペンス」とは?

さて、そう考えると、「芸術の発生」が「事件」であるのなら、その犯人は実はストリックランドではない、ということになります。真犯人はむしろ、この物語の語り手であり、彼に代表されるような芸術家を取り巻く世間だ、ということになる。

すると、この物語の見え方は少し変わってくるでしょう。実はこの作品はストリックランドの自白などではなく、彼(作者であり語り手)の自白だったのかもしれない。

しかし、本当にそれだけでしょうか。この作品が語り手の自白なのだとすれば、この物語の語り手は、「芸術発生事件」を単独で実行したのでしょうか。

恐らく、そうではないでしょう。なぜなら、そんなことは誰にもできるはずがないからです。

というか、この語り手にはそれだけの能力は恐らくない。語り手は千利休や柳宗悦のような眼力ある批評家でも、美術館や博物館に勤務するキュレーターでもないのだから。

だとしたら、考えられる結論はただ一つです。

実際は、この物語に登場したあらゆる人物、良い者も悪い者も、崇高な者も低俗な者もみな共犯者なのだ、と。作者であるストリックランドも、語り手である作者も、ストルーヴェの妻ブランチですらも。

というのは、芸術というものはそれを表現する者だけによって存在するものでも、その表現したものを評価する者だけによって存在するものでもないのだから。

つまり芸術は、表現者とそれを受容する世間との共犯関係によって生まれている。

この「月と六ペンス」という物語は一見、一人の芸術家の非社会性を描くことによって、その作品に秘められた芸術性を暴こうとしている作品のように見えるかもしれません。

でも、この作品が本当に暴こうとしているのは、実はその芸術家を取り巻く社会の残酷さ、横暴さの方なのではないでしょうか。

物語ではストリックランドという画家がいかにも残酷で、無頓着で、自分勝手であるかのごとく描かれています。

でも、それは語り手がそのような印象を読者に与えようとしているからです。

いかに語り手が読者をミスリードしようとしているか。そのような印象を与えるために、語り手がどれだけ「人はこういうものである」とか「こうあるべきだ」ということを作品中で何度も述べていることか。読者が決してストリックランドに共感しないようにするために。

もう一度語り手の言葉を引用しましょう。

「芸術家の秘密を探る楽しみは、探偵小説を読む楽しみと似ている。その謎は宇宙の謎と同じで、答えがないからこそ魅力的だ」

芸術家という存在に、あるいは彼らの表現した芸術作品に、本当にがあるのでしょうか。

もしもそれらがであれば、そもそもそれらが世間に許容されるはずがない。そうでしょう? 全くわけのわからないものをなぜ、どのようにして評価するというのです?

ほら、見渡せばそこら中にいるではありませんか。誰からも評価されないだらけの自称芸術家たちが。

むしろ、もしも「芸術」という現象、事件にがあるのだとすれば、それは世間がある作品を「月だ」と言い、その一方である作品を「六ペンスだ」と言うことの方にあります。

その基準はどこにあるのか? それは誰にも分かりません。誰にも分からないからこそ、芸術家じゃない人間はその言葉に振り回されてしまうのです。

はてさて、ただ美を描くことのみに憑りつかれてほかのあらゆるものが見えなくなっているストリックランドのような人間と、彼をその時々で「芸術家」と呼んだり「芸術家じゃない」と呼んだりする世間と、残酷で、無頓着で、自分勝手なのはどちらなのでしょうか?

この物語は語り手がストリックランドの妻と出会うところから始まり、最後もまた彼女と出会うシーンで終わります。

それはつまり、こういうことだと思うのです。

ストリックランドが株式仲買人から絵描きになったことは、本当は変化でもなんでもなかった。彼の中では終始一貫していたのです。少なくとも彼の中での世間に対する考え方は。

でも、彼の妻はどうでしょうか? あるいは語り手自身は? 彼らのストリックランドに対する考え方は終始一貫していたでしょうか?

この物語の作者であるサマセット・モームは明らかに語り手よりもストリックランドに強い共感を感じていたのだと思います。そして彼自身分かっていたのです。この物語「月と六ペンス」もまた、どうせ世間から「月だ」とか「六ペンスだ」と言われるのだろう、と。

そしてそのことに対して彼はきっとストリックランドのように、「どうでもいいことだ」と言ったでしょう。彼はただ書きたいものを書いただけなのだから。

なぜモデル小説でなければならないのか

僕は不思議に思うのです。この物語はフィクションではなくモデルとなったゴーギャン自身の評伝でよかったはずじゃないか、と。

にもかかわらず、作者であるモームはそうはしませんでした。ストリックランドという架空の人物を敢えて想像したのです。それはなぜか。

それは恐らく、ある芸術作品の存在が事件だとするならば、その犯人は作者だ、とモームが言いたくなかったからではないでしょうか。

もしもモームが芸術作品誕生事件の犯人は作者だと思っていたなら、この作品はそれこそゴーギャンの評伝でよかったはずなのです。むしろ、そうすることでこそ、作者と、そして我々読者はこの作品のモデルであるゴーギャンの作品のに迫ることができたはずでしょう。

つまり、もしも芸術作品発生事件の犯人が作者ならば、この作品はフィクションであることが致命的な欠陥となってしまうのです。六ペンスの価値しかないものとなってしまうでしょう。

だけど、もちろん、本書の作者であるモームがそんなあからさまな欠陥を見逃すはずはありません。

モームはきっと、こう言うのだろうと思うのです。

「この作品は月だ」と。

そう、きっと、不遜な笑みを浮かべて。

まるで、ストリックランドのように。

あるいは、この物語の語り手のように。

なぜなら、彼は知っているから。どこかで芸術が発生するという事件が起きたとき、その真犯人は一体誰なのかということを。

そして、誰が自らが犯人であるかのような振りをし、誰が自らは犯人ではないかのような振りをしているのかを。

だけど、多くの人はそのことを知らないのです。ただ見たままのことだけを信じている。

そして、不思議なことに彼らは決まって、自分はあるものをちゃんと「」なのか、それとも「六ペンス」なのか、見極めることができると思っている。

もしも、もしもそれが真実なのだとしたら。

あなたは本当に良いものとそうでないものを見極められますか?

もしも芸術作品は制作者が生み出すものであるのなら。

もしもそれを受容する僕たちが、本当に芸術を見極める目を持っているというのなら。

だとしたらなぜ、モームはこの作品を描いたのでしょうか。

きっと、賢明な読者諸氏は答えを知っているのでしょう。

あるものは月で、あるものは六ペンスだと、正しく判断できるのでしょう。

でも、僕にはそれはできない。

恐らく、この作品の作者であるモームもまた、そうだったのだと思います。

だから、彼は書いたのでしょう、この物語を。

月と六ペンスを、ただそのままに。

何が月で何が六ペンスなのか。

そんなこと、誰にも、ちっとも分からないように。



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