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不条理さを目の前したら、そこに正解なんてものはない ~こうの史代著「夕凪の街 桜の国」のこと

本書の内容を一言で言えば、原爆が投下された広島の人々の物語です。

本書は「夕凪の街」と「桜の国」という2つの作品からなっており、「夕凪の街」は終戦直後に被爆した女性の物語、そして「桜の国」は舞台を現代に移し、その被爆した女性の姪っ子の物語となっています。

この作品の中で最も心を揺さぶられるポイントは、やはり「夕凪の街」における主人公の女の子の最後の台詞でしょう。

たくさんの家族や知人を原爆によって奪われた彼女は、それでも自分は生き残ったと思っていた。生き残ってしまったと思い、どこかそのことに対する罪悪感を抱えながら終戦後の日々を送っていたのです。

しかしやがて彼女自身も被爆していたことが明らかになります。そうして職場の男性からプロポーズを受けていたのですが、彼と幸せな日々を過ごせるようになる前に死んでしまうのです。

その死の間際、彼女は思います。

「嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て
「やった!また一人殺せた」と、ちゃんと思うてくれとる?
ひどいなぁ。
てっきり私は、死なずにすんだ人かと思ってたのに。」

この台詞の中には、本当に、たくさんの複雑な思いが込められていると思うのです。

まず最後に彼女は

「ひどいなぁ。
てっきり私は、死なずにすんだ人かと思ってたのに。」

と言っているけれど、果たしてそれは本心なのか。もちろん本心なのだけれど、多分そう言いながら、どこか罪悪感から解放されてほっとしてるような、そんな思いが込められているような気がするのです。

そして最初の方の台詞。

「嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て
「やった!また一人殺せた」と、ちゃんと思うてくれとる?」

というところ。これも、果たして本心なのでしょうか。

だって、そうではありませんか。はっきり言ってしまえば、「そんなわけないよ」ということです。広島や長崎に原爆が落ちました。ではその原爆を落とした兵士は、あるいはそれを指示したアメリカは、そしてそもそも原爆を開発した科学者は、広島や長崎を憎み、あいつらを一人でも多く殺してやると、そう思って投下したのでしょうか。

そんなわけはないですよね。原爆は、広島や長崎が、あるいは日本という国家が対戦国であるアメリカから「憎まれていたから」投下されたんじゃないんです。

むしろもっと単純に、「ただ戦争とはそういうものだから」投下されたのです。

極端に言えば、彼らは原爆を投下すればどうなるかということについて、ほとんど何も考えていなかった。いや、あるいはその時彼らが考えていたのは、自分の家族のことであったり、国家のことだったのです。たとえそれが「憎しみ」や「怒り」であったとしても、「相手」のことを考える余裕など誰にもなかったのです。

でも、そんなのは辛すぎるじゃないですか。そんなことで殺されるなんて、あんまりじゃないですか。

だからそうじゃないんだよね、あなたたちは私たちが憎かったんだよね、だからこんな目に遭わせるんだよね、そうだと言ってよ、っていう心の叫び。

僕はそのことこそが、この原爆という事実における現実であると思います。


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例えば、あなたの大切な人が誰かあるサイコパス(僕はこの言葉嫌いなんですけど)によって殺されたとしましょう。

その犯人があなたの大切な人を殺したのは、別に恨みでも怒りでもないのです。多分その犯人の中の理屈の中で、そうするべきだったからそうしたのでしょう。

その時あなたはその犯人の理屈を受け入れることができるでしょうか。

できませんよね。

あなたはきっと、自分の怒りをその犯人に向かってぶつけるでしょう。

でもそのうち、あなたは段々と空しくなってしまう。

なぜならその怒りが決して相手には届かないことが分かるから。犯人はあなたにとってただただ不条理なだけの存在だからです。

でもあなたにとってできることは、決して相手には伝わるはずのない怒りを持ち続けることだけなのです。

「夕凪の街」で描かれていることも、そういうことだと思うんです。

主人公の女の子が死ぬ間際に発した台詞、それが間違っているということくらい、本当は彼女は分かっているんです。

でも、それでも、間違ってると分かってても、そう言わざるを得ないという現実。

現実というものの不条理さ。

時折戦争の話になると、ご自分は現実主義者だと自称する人が「戦争もまた一つの手段だ」というようなことを言ったりします。

そういう時、僕は、本当に心の底からその人の「現実」の薄っぺらさが愚かだと思うのです。

「戦争」が「不条理」であるという「現実」を知らないから、そのようなことが言えるのでしょう。そして平和主義者を「現実逃避」と嘲笑う。

たとえ戦争に巻き込まれても、その人は多分、自分の理性を保っていられると、そう思っておられるのでしょう。そのことがもう、ちゃんちゃらおかしい。戦争状態ではない今この時ですら、感情的な煽り文句に心動かされているくせに。

本当に「現実逃避」しているのは一体誰なのか。「現実」の不条理さに対する認識が甘いのか、あるいは直視するのが怖いから「たいしたことはない」と思い込もうとしているのは一体どこの誰なのか。


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僕は兵隊に入ったことがあるわけではありませんが、でも別に兵士になったことがなくったってこれだけははっきりと言えます。

もしもあなたが兵士となった時、あなたは敵の兵士かあるいは一般人を殺すことになるかもしれない。

でも、その時あなたは決して「憎しみ」や「怒り」の感情によって殺すのではない、と。

そんな風に思っているのだとしたら、それこそくだらないフィクションの見すぎであるか、あるいは戦争をスポーツか何かと勘違いしているのでしょう。

憎しみや怒りによって相手に危害を加えたり加えられたりするのなら、人は誰でも自分で自分に納得することができましょう。

でももしそうではないとしたら?

ただ「戦争」という舞台を与えられただけで、僕たちはいとも簡単に「何の感情も持たずに相手を殺す」という不条理なことをしてしまうのだとしたら?

あるいはその時、あなたやあなたの大切な人がそのような不条理さの犠牲者になってしまったとしたら?

本書に収められた2つの物語は、そういうことだと僕は思うのです。

そしてこの物語に「答え」なんてものはありません。

不条理さを目の前にした僕たちがどんなことを思おうと、どんなことをしようと、そこに正解なんてものはないのですから。

それが「現実」。

だからそんなことは二度と繰り返してはならない。

そういうことなのではないでしょうか。 


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