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「正しさ」よりも大切なもの 〜幸田文著「包む」のこと

本書は表題作「包む」を含む二十九篇のエッセイ集です。

どれもこれも素敵な文章で全部お気に入りなのだけれど、全部紹介するときりがないのでこの中で一番好きなエッセイ『結婚雑談』を。

幸田文さんは一度結婚して娘の玉さんを産みますが、嫁ぎ先の経済的な事情等から離縁することになり、娘を連れて父の元に戻った方です。

そういうこともあって、「まあ、結婚に失敗した私が言うのもなんなのだけれど……」という感じで彼女は語り始めるのです。

それは彼女の父、幸田露伴の話。

文さんはもともと結婚にはあまり興味がなかったようで、嫁いだのは二十五歳のころでした。今だと早い方だけれど、当時としてはかなり遅いですよね。

いくら本人に興味がないとは言え、そういうことは周りの方が焦ってとやかく言いだすもので、彼女の元にも見合いの話が訪れます。

相手の男性は当人も家庭も勤め先も申し分ない、いかにも働き者で、才能もありそうです。ところが、そうして実際に会ってみると、何か今ひとつピンとこない。どこが悪いというわけではないのだけれど。

一方相手の男性は、その見合いの日のうちに仲人たちの前で「これで話をきめたい」と言うのです。

困った文さんが父にその不安な気持ちを言うと、露伴は「そうか」とだけ言います。

それからその男性の身元調査のようなものをすると、彼が急いで話を決めようとした理由が分かりました。

その男性は勤め先の会社の上役から娘婿にと懇望とされているらしく、それを断るに断れずにいたところ今回の見合いの話があった、と。だから彼は急いで結婚を決めたのではないか、ということだったのです。

なんだ、そういうことなら、と文さんはその話は断ることにしました。そこで文さんは父がさぞその男性を乏しめるようなことを言ってくれるだろう、と思ったら、露伴はこう言ったのでした。

「一ト眼で働ける男、できる男と踏めるほどの男なら、そのくらいのことはちゃきちゃきやるもんだよ」

そうして、彼の気持ちや立場と言うものを彼女に説明してゆくのです。

自分の娘がいやな目にあったのに、どうして彼の肩を持つのだろう、と文さんが思っていると、露伴は言うのでした。

「私はその男の親になって考えてみるからさ。おまえはおまえの見た男だけを考えていればいいけれど、親というものはそれだけでは済まない、おまえの親としてこちら側からばっかり対手を見ていたのでは足りなくて、あちらの親としても考えを及ぼさなくては、偏った依怙贔屓な考えかたになる。たとえば、こちらから見たあちらのあらは、あちら側に立てば大概気の毒な事情や尤もな云い分になることが多いのだから、あちらの親になった気で、愛情からものを考えなくてはだめなのだ。」

このエッセイの冒頭で、彼女は言います。

「祖父から母を通して孫へ持ちこされる古さには、とにかく時間の厚みがある。時間は古さだ。古さまた採るべしと私はおもう。これは常識であり、常識は平凡でじきに忘れられるものである。」
「結婚についての意見は誰の意見にしても、一夜漬けの思いつきの意見などであるはずがない。けれども私はいつも一応そういうそういうさまざまな意見に、実際の裏づけがあるかどうかを窺ってみる。丁寧な厚みがあるかどうかを窺ってみる。」

言葉には「質量」があると思うのです。その言葉の重さというものが。

正しいことを言おうと思えば、それは誰だって頭で考えれば言うことができます。

でも、正しい言葉が必ずしも人の心に響くかと言えば、そういうわけじゃない。

本当に人の心に響く言葉というのは頭で考えた「正しい言葉」ではなく、実際に自分で経験したことからくる「重さや形をもった言葉」なのだと。

言葉の重さというのは、言い換えればその人が背負っているものの重さであるような気がします。

それは家族だったり、あるいは社員だったり、もしかするともっと別の、ちょっと大げさかもしれないけれど、文化だとか、そういうもののことだってあるかもしれない。

「重い」と言うと何だか深刻な感じになってしまいますが、もちろんそうではない、もっと軽やかだけど深く心に刺さるような言葉もあるでしょう。とにかく、ちゃんと「形のある言葉」。

いわゆる「古いもの」、「常識」というものは、そういう「形」、「質量」のことだと思うのです。

そしてまた、言葉には「丁寧さ」がある、と文さんは言います。雑巾がけで同じところを何度も拭くように、言葉というものも色々な立場や色々な状況から拭いてみる、そうすることが大切なのかもしれません。

自分だけが正しい、とか、とにかく自分にとって都合がいい、というような言葉は、たとえそれが理屈では正しいように見えても、その薄っぺらさ、その粗雑さは人に伝わってしまうもの。

露伴は彼女に、彼女の父としてだけでなく、人の親として、あるいは一人の男としての立場も考えたうえで話したのです。

それが「正しい」かどうかはともかく、とにかく「形」や「重さ」がある言葉として。

結婚というのはいつの時代でも当人にとっても家族にとっても人生で最も重要な問題です。だからこそつい誰かに意見を求めるときには「正しさ」のようなものを期待してしまう。

だけど結婚観なんて時代によっても変わるし、それに結局は当人一人一人の個人的な問題なのだから誰にも「正しい」ことなんて言えるはずがない。

幸田文さんの文章を読むと、いつも背筋が“しゃんっ”となる気がします。それはきっと彼女の言葉が「正論」だからではなく、その言葉の端々からその重さや形が伝わってくるからなのだと思うのです。

古さまた採るべし。


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