オタマジャクシのシュルレアリスム論 ~アンドレ・ブルトン著「シュルレアリスム宣言」のこと
はじめに
「そもそもシュルレアリスムとは何か」という話をしたいと思います。
ちなみに「シュール」という言葉はもう最近ではごく普通に使われる言葉ですよね。この「シュール」という言葉から多く人が連想するのは「不条理さ」とか、「不可思議さ」とか、そういう感じではないでしょうか。
この「シュール」は「ガロ」に連載していた蛭子能収の作品をそう評したことから始まったそうです。僕はよゐこのコントなんかでその言葉を初めて聞いた気がします。
そのことから、もしかしたら現在では「シュルレアリスム」というものは、何か不条理なものを描いた芸術、何かちょっと変なものを描いた芸術、という風に思っている方が多いかもしれません。
でも実は「シュルレアリスム」と今一般に使われている「シュール」とは似て非なるものなのです。そもそも「シュルレアリスム」を日本語に訳すと「超現実」なわけですから。なんで「超」が「シュール」なのか、ということが問題なわけです。
で、本書の冒頭に収められている「シュルレアリスム宣言」とは、まさにアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスムとは何か」ということを自ら説明している宣言文なんですね。
ドストエフスキーの文章なんて小学生のスケッチでしかない
本書においてブルトンはまず、レアリズムを否定します。現実主義、あるいは自然主義、あるいは合理主義、そういったものはすべてまやかしにすぎない、と。
そして、例えばドストエフスキーの「罪と罰」のこんな部分を引用するのです。
「青年が通された小部屋は、黄いろい壁紙がはりめぐらされていた。窓辺にはゼラニウムの鉢がいくつかと、モスリンのカーテンがあった。夕陽がそれらすべての上に、どぎつい光をあびせていた。……部屋のなかには特別なものはなにもなかった。黄いろい木の家具は、どれもひどく古びていた。そりかえった背もたせのある長椅子がひとつ、その長椅子とむかいあう楕円形のテーブルが一つ(中略)――これが調度類のすべてであった。」
この描写は、恐らく現実主義的な、自然主義的な価値観では「細密な風景描写」といわれる部分です。こういう細密な描写によって、この作品のリアリティはより高まっているのだ、と。
しかしブルトンは言うのです。「これは、小学生のスケッチにすぎない」と。
というのはですね、ブルトンに言わせれば、「現実」というものはそもそも「細密に描写」することが不可能なものだからです。
それがどういうことかを説明しましょう。
今、僕のこの文章を読んでいる貴方の目に映っているものを考えてみてください。貴方がスマホで見ているのか、パソコンで見ているのかは分かりませんが、今あなたの目に映っているのは、私が今書いている文字だけではないでしょう。スマホなりパソコンのモニター部分や、もしかしたらその奥にある部屋や外の風景も、目に入っているのではありませんか?
でも、僕が今そのことを指摘するまで、貴方はそのことを意識していなかったでしょう。自分の目に映っているのはただ文字だけのような、そんな風に意識していたのではありませんか?
ところが、「現実」はそうじゃないんですよね。
つまり、僕たち人間は「見る」という行為一つとってみても、実はとんでもなく多い情報の中から必要なものだけを取捨選択しているわけです。
さて、そう考えると、果たして本当に「現実」を描写することなんてできるのか、ということになりはしないでしょうか。「客観」なんて一体どこに存在するのだ、と。
ブルトンとフロイト
じゃあどうすりゃいいんだよ、ということになるわけですが、そこでブルトンは言うのですね。「ここでフロイトだよ」と。
なぜならフロイトこそが、世界で初めて「無意識」というものを発見したからです。
フロイトが提唱したのは、人間には「有意識」のほかに「無意識」というものがあり、実は私たちの「有意識」の世界は「無意識」の世界に影響を受けている、というものでした。いわゆるトラウマ、コンプレックスというやつですね。
僕たちは通常自分のことは自分の理性でコントロールできる、あるいはしなければならないと思っているけれど、そういう考えこそが無意識におけるトラウマやコンプレックスという情動を生むのだし、また僕たちが自分でコントロールできていると思っている理性は、本当は無意識の情動によってコントロールされている、と。
ではこの無意識とは、どんな世界なのでしょうか。それは、僕たちが眠っている時に見る「夢」に現れます。
例えば、ちょっと僕の夢の話をさせてください。まあ、他人の夢の話ほどつまらないものはありませんが、そこはどうかご容赦いただきたく。
それは、こんな夢でした。
僕が高校生の頃に見た夢です。僕は小学校の時の教室にいました。でも、周りに座っていたのは、その時(高校時代)の自分のクラスメイト達でした。
先生が教室に入ってきます。その先生は、昔近所に住んでいたおばさんでした。
僕はしばらくすると立ち上がり、窓の方へ向かいました。授業がつまらなかったのか、何か変なことをして目立とうと思ったのか、そのあたりは今となっては覚えていませんが。
そして僕は窓を開け、建物の5階にあったその教室から飛び降りたのです。
僕はその瞬間、「まずい」と思いました。このまま落ちたら怪我をしてしまう、と。そこで僕はこの落下速度を緩めようとして、壁を蹴りながら、少しずつ下へ降りて行ったのです。
そして僕は無事に怪我することなく、5階から地上へ飛び降りることができたのでした。
こんな夢です。この夢の中では、「現実」の様々な「論理」が否定されています。まず最初に時間の論理、なぜ高校生であるはずの僕が小学校の頃の教室にいるのか、なぜその場所に高校時代のクラスメートたちがいるのかということ。
そして人間関係の論理もおかしいですね。なぜ近所のおばさんが先生なのか。
更に物理的な論理も変です。5階から飛び降りたら普通はすぐさま真っ逆さまに墜落して怪我をするものです。僕が夢の中で対処したようなことは、出来るはずがありません。
しかし夢の中ではそれが起こっていたのでした。そしてこれが最も重要なことですが、この不思議な夢の中で僕は、そのことを不思議とも思わずに受け入れていた、ということなのです。
この夢の世界と同じように、僕たちには現実的な論理が通用しない世界と言うものを、人それぞれ自分の心の中、無意識の中に持っているのですね。
ブルトンとヴィトゲンシュタイン
ここでもう一人、本書では言及されていませんが「シュルレアリスム」を理解するために僕が重要だと考えるもう一人の人物をご紹介しましょう。その人とは、「論理哲学論考」で有名な、ヴィトゲンシュタインです。
ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉でとても有名ですね。この言葉が一体何を意味しているかと言うと、それは「私たちは世界を論理的にしか理解することができない」ということなんです。
僕たちが理解できるものは必然的にすべて論理的である。もし論理的でないものがあれば、僕たちはそれについて理解することはできない。
論理とは、言い換えれば「秩序」であり「関係性」です。つまり僕たちは眼の前の様々な事象を「関係性」によって「秩序付ける」という行為=「論理」によって認識することしかできないのです。
だから先ほど僕が指摘したように、普通僕たちはその時その時において自分にとって必要のない情報、あるいは無関係に思われる情報については認識しないようになっているわけです。今貴方が僕の文章を読むにおいて、貴方のスマホかあるいはパソコンのモニターのフレームの部分が何色か、なんてことは必要のない情報だから見えなくなっているのですね。そんなことを意識しながら今この文章を読む、ということは誰にも「できない」のです。
ブルトンは言います。「私たちの現実は論理に支配されている」と。逆に言えば僕たちは、広い世界の中で論理的につじつまの合うものだけを「現実」と認めている、ということにもなります。
この私たちが「現実」と認めている世界、それこそがアンドレ・ブルトンの言う「ドストエフスキーが描く『現実』」の世界であり、フロイトが言う「有意識」の世界であり、ヴィトゲンシュタインが言う「論理」の世界です。
でも、実際にはその現実の外にも、論理の通じない広い世界が存在しているのですね。そしてブルトンは、そういう世界をこそ芸術は描くべきなんじゃないか、と言うのです。
だからこそ「シュルレアリスム」は「超現実」なのです。現実を超えた現実、現実の外にある現実、論理が通用しない現実を描くことが「シュルレアリスム」なのです。
そしてそこで描かれたものが「不条理」だったり「不可思議」だったりするのは、そもそも私たちが「論理」に縛られているからなのです。その「不条理さ」や「不可思議さ」は表象であって、目的ではないわけですね。
自動筆記
じゃあ、それをどうやって描けばいいんだよ、という話になるわけで、ここでブルトンは「自動筆記」という方法を考えます。本書に収められている「溶ける魚」はまさにその方法で描かれた物語です。
自動筆記というものがどういうことかというと、簡単に言えば「考える前に書く」ということです。
なぜなら僕たちは「考える」という行為を頭の中で「文章を思い浮かべる」ことによってしかできないからですね。文章じゃない方法でものを考えられる人は存在しないわけです。
その意味で言えば、文章というものこそ、まさに「論理」だと言えます。ヴィトゲンシュタイン風に言えば、論理的でない文章なんて存在しない。もし論理的でない文章があれば、僕たちはその文章について理解することができないわけです。
ところが文章というものは面白いもので、それは必然的に論理的でなければならない一方、どんな言葉の組み合わせであってもそれが文章としての必要条件を備えていれば、文章として、論理として成立してしまうのです。
オタマジャクシのシュルレアリスム論
たとえば、僕が「私はオタマジャクシである」と言ったとします。
もちろん、僕はオタマジャクシじゃありません。人間です。でも、人間である僕が「私はオタマジャクシである」と言ったり考えたりすることは可能なのですね。
だからこそ、ブルトンは僕たちが常識とか、通説とか、そういう後天的な、経験的な論理によって自分の考え=文章が影響を受ける前に文章を考えてしまうことによって、「私はオタマジャクシである」と何の意図もなく、何の意味もなく表現してしまおうとしたのです。
そのことによって僕たちは、文章という「論理的な道具」の力を使って逆に「論理」に支配された現実を超越することができる、と。
本書に収められた「溶ける魚」はタイトルからしてまさにそうですね。魚は溶けません。普通はね。でも「溶ける魚」という言葉は文章としては成立しているわけです。
で、この「溶ける魚」はそういったやりかたで描かれた短いストーリーの集まりです。稲垣足穂の「一千一秒物語」のような、あれをもっと夢想的にしたような感じです。
そしてこの「溶ける魚」という作品群を読めば、読者は不思議な感覚を味わうことでしょう。まるで夢を見ているような、そういう感覚です。
さて、そういうわけで、「シュール」と「シュルレアリスム」は違うんだよ、という理屈について僕はここまで述べてきたわけです。
しかし、そもそも「シュルレアリスム」が論理からの超越であるならば、ここまで僕が書いてきたこともまた、僕が勝手に取捨選択した現実の関係づけによる代物以外の何物でもありません。
そして「シュルレアリスム」とは、そんな論理からの超越をこそ目指すものなのでしょう。
であるならば、もしアンドレ・ブルトンがここまで僕が書いたものを読んだならば、きっと嫌な顔をすることでしょうね。
「なんだ、これは」と。
そして、「罪と罰」ですら「小学生のスケッチ」と切り捨てた彼のことですから、僕の文章なんかはもうきっと、こんな風に評すのだろうなと、僕は夢想するのです。
「こんなものは、まだ人間になる前のオタマジャクシが描いたスケッチにすぎない」と。
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