隠れて生きよ 〜エピクロス著「教説と手紙」のこと
エピクロス(エピキュロスと表記されることも多い)は紀元前300年頃、ヘレニズム期のギリシャの哲学者です。アリストテレスが死去する少し前に生まれました。時代的にはストア派の哲学者たちと同時代人ということになります。
このエピクロスという人は自らの教派をつくり、ギリシャのある地を庭園と名づけ、そこで仲間たちと暮らしました。ある意味ではコミューンの元祖と言えるのかもしれませんね。
彼らが俗世間に背を向けて暮らしたことに加え、彼らが生きるにおいて最も価値を置いたのが「快楽」であったため、エピクロスとその一派はストア派の哲学者たちの一部からかなり辛辣な批判をされたのでした。
また、今でも快楽主義者をエピキュリアンと呼んだりします。
でも、彼が唱えた「快楽」というのは、いわゆるマルキ・ド・サド的な快楽主義とはまた別のものです。
数人の仲間で集まってこっそり快楽の話をしていた、なんて言うといかにもヤバそうですけど、別にそういうわけではありません。
僕は思うんですけど、ストア派の考え方もエピクロスの考え方も、結論は同じのような気がするんです。少なくとも、快楽主義といっても、別に社会規範を覆すようなことを言ってるわけじゃない。
なので、そういうのを期待する人は、エピクロスなんか読んでもまったく面白くないと思います。残念でした。
エピクロスの快楽主義って、つまりはこういうことなのだと思います。
たとえば、誰かに「なぜ人は勉強しなければならないのか」と問われたとしましょう。
そのとき、ストア派なら多分こう言うのです。「それは、勉強することが君自身のためになり、更にはそれが社会のためにもなるからだ」と。
もう、ごもっともって感じですね。
でも、エピクロスの考え方はそうじゃなくて、彼なら多分、こう言うのです。「だって、勉強するって楽しいじゃん。君はなんでしないの?」って。
つまり、同じ山の頂点を目指すにしても、まったく別のところからまったく別の経路を辿ってるって感じです。
なんか、エピクロスが誤解されることは百も承知で、それでも「快楽」という表現をした理由が分かる気がするんですよね。
だって、ストア派の考え方って正しいのだけれど、なんかちょっとムカつくじゃないですか。
昔、瀬名秀明の「ハル」って小説を読んだことがあって。その中に、鉄腕アトムを作ろうとする技術者の話があるんですよ。で、結局その物語の中でアトムは作られないんです。その理由が、アトムを作る技術がないからじゃないんですよね。そうじゃなくて、もし本当にアトムがいたら、きっとみんな生きづらいから。
エピクロスは、きっとそのことが分かってたんだと思うんです。だから、彼は言ったんです。「人間は快楽のために生きればいい」って。
正義も、善も、そうでないことも、全部自分のためにやってるんだよっていう。人のためなんかじゃなく。
ただ、だからといって、人に迷惑をかけることは正しくないし、人に迷惑がかかるような「快楽」は本当の「快楽」じゃない、と。
でも、それは、やっぱり自分勝手だと、そう思う人もいるんでしょうね。それで、彼はこうも言ったんです。「隠れて生きろ」って。
分かる人にはきっと分かるし、分からない人にはきっと分からないのだから。
それに、分からない人と議論するのもきっと無意味でしょう。自分が正しいと思ってる人は、別にそう思ってればいい。
だから、エピクロスの考え方というのは、誰にでも伝わるわけじゃないと思います。ただ、いつの時代でも、どこの場所でも、「うん。分かるよ」って言う人はきっと一定数いる。
僕も、その中の一人です。
結局のところ、それは「真実」と「正しさ」の問題なのかもしれません。多分、ストア派的には「真実」と「正しさ」はイコールで、だから真実は常に正しいし、正しいことは常に真実だと思ってる。
でも、エピクロスの考え方だと、両者は必ずしもイコールではない。正しいことが常に真実であるとは限らない。そう思ってる。そんな気がします。
最後に、本書の中から、特に僕が好きな言葉をいくつかご紹介しましょう。
誰かと競争することに疲れた人、というよりも、そもそも人と競争することの意味が分からないという人には、きっとこの言葉が届くのではないかなと思います。
そういう人は、かつてエピクロスが言ったように、足るを知り、隠れて生きましょう。
別にそれでもいいと思う。
生きづらさを感じているすべての快楽主義者が、この本と出会えますように。
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