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謎の奥の謎を解け! ~ガストン・ルルー著「黄色い部屋の秘密」のこと

あらすじ

ガストン・ルルーによるミステリの古典的名作の一つ、「黄色い部屋の秘密」。まずはこの推理小説における謎について、あらかじめ説明しましょう。 

パリの外れにある古城グランディエ城で起こった奇妙不可解な事件。この城には高名な科学者スタンガーソン博士とその娘マチルド嬢が何人かの召使と共に住んでいました。 

令嬢は博士の研究の助手でもあり、その研究は城の離れにある小屋で行われていました。そして博士の助手でもあった令嬢は、この研究の間は夜になると離れにある黄色い部屋で寝ていたのです。 

ある日博士たちが研究を終え、令嬢が黄色い部屋に入って鍵を閉めたとき、その事件は起こりました。部屋の中から、マチルド嬢の「人殺し!」という叫び声が聞こえたのです。 

スタンガーソン博士と召使のジャック爺さんは慌てて部屋のドアを開けようとしましたが、内側から鍵がかかっていて開けられません。 

そうしてほかの召使いたちもやってきて無理やりドアをこじ開けると、そこには血まみれになったマチルド嬢が倒れていたのでした。 

さらに不思議なことに、その部屋にはマチルド嬢しかいなかったのです。これは一体どういうことでしょうか? 

マチルド嬢の首には絞められた跡が残っていました。誰かがこの部屋に侵入し、マチルド嬢に襲いかかったのです。しかし一体犯人はこの「黄色い部屋」にどのように侵入し、そしてどうやって脱出したというのでしょう? 

この小説はフェアではない?

さて、この作品はカーやクリスティ、そして江戸川乱歩をうならせた作品として有名です。でもその一方で、事件の解決が「フェアではない」として一部ミステリファンから酷評されている作品でもあるようです。 

実はこの作品が一部の読者から嫌われるのには、一つの理由が挙げられるのではないかと思うのです。というのは作者であるガストン・ルルーはこの作品の中で、この「黄色い部屋の謎」はポーの「モルグ街の殺人」よりも難解な謎である、とか、ドイルの「まだらの紐」を超えている、と発言しているんですよね。 

それだけ大言壮語を吐いているにもかかわらず、この事件の解決の一部には決してフェアとは言えない「偶然的な要素」が含まれている。そりゃ、批判されて当然かもしれない。 

……でも、僕はもしかしたら、それがルルーの読者に仕掛けたある種の罠なのではないか、と疑っているのです。 

この小説における二つの謎

本書における事件の冒頭の捜査の中でこんなシーンがあります。

この事件現場で、ある人物が犯人だと思われる決定的な証拠が発見される。 

しかしその時、主人公の探偵ルールタビーユのライバルであるやり手の刑事ラルサンが言うのです。これは真犯人が別の人物を犯人だと思わせるために仕組んだトリックだ、と。ここまで手の込んだトリックを仕掛ける犯人が、こんなあからさまな証拠を残すはずがない、と。 

また、別のシーンでルールタビーユはこんなことを言うのですね。 

「フレッドさん、僕は推理を軽んじるのは、まだ許せます。でも、それより許せないのは、まあ、これはある種の刑事さんによく見られることですが、絶対に許せないのは、〈自分たちの見解に沿うように、論理を巧みに曲げてしまう〉ことなんです。それも間違ったことをしているという自覚はなく、これが正しい推理だと考えて……。」 

なぜ僕がこのような引用をしたのかというと、この作品が「完璧な推理小説」とは呼べないことを誰よりもよく知っていたのは作者自身のはずじゃないか、と。にもかかわらず、まるでこの小説が完璧な推理小説であるかのように作者が装っているのはなぜか? そこには何かの意図があると考えるべきなんじゃないか、と思うのですね。 

さらにこの作品にはミステリの観点から見るともう一つ欠点があります。それは、少しネタバレになってしまうけれども、被害者のマチルド嬢は生き延びるということです。 

もしもこの小説が推理小説であったならば、被害者が死んでいないということはそれだけで興がそがれることになるのではないでしょうか? なぜなら被害者は犯人を知っているのだから。被害者が生きているのなら、「こいつが犯人だ」と言えばいいじゃん。推理する必要ないじゃん。となりますよね。 

そのためこの作品は冒頭で説明した謎(犯人は誰で、どのよたいに犯行を行ったのか)に加えてもう一つ、「なぜマチルド嬢は犯人の名前を明かそうとしないのか?」ということがもう一つの重要な謎として提示されることになるのです。 

僕の推論

さて、この二つの「謎」に対して、僕はある一つの推論を試みたいと思うのです。別になんの根拠もないので、「こう考えたら納得できる気がする」ということを。 

ちなみにこのことについて、本書の解説ではこの作品が20世紀初頭、「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」の遥か前に書かれたものであることが大きな理由の一つである、としています。つまり、現在の僕たちの常識がこの作品が発表された時に通用したわけではない。そのことをあらかじめ了解しておくべきだ、と。そしてそれはきっと定説だと言えるのでしょう。 

でも僕はちょっと違った視点から考えてみたいのです。 

本書がミステリであるならば明らかにマイナスとなる二つの要素、「偶然による推理」「被害者の生存」を作者があえてこの作品の中に取り入れた理由、それはもしかしたら、作者であるガストン・ルルーがこの物語を書こうと思ったその動機にあるのかもしれない。 

作者であるルルーは、ある葛藤の中にいたのではないかと思うのですね。その葛藤とはすなわち、こういうこと。 

小説を面白く読ませるために、ミステリ的手法は有効な方法である。だけど、ミステリだけが面白い小説であるとは限らない。 

このことを体現する方法はなんでしょうか。それは、ミステリのようであってミステリではない小説を書くことではないかと思うのです。推理小説という枠の中にありながら、その枠を超えるような作品を提示することだと思うのですよ。 

恐らくルルーは最初、冒頭で本人が宣言したような「完璧な推理小説」を書こうとしたのかもしれない。 

でも、もしかしたらその構想の中で、もう一つのストーリーが頭に浮かんだのだとしたら。そしてその物語の方が、「完璧な推理小説」よりも「小説」として優れていたとしたら。 

だけどその物語を完成させるためには、「完璧な推理小説」を捨てなければならない。 

さあ、「完璧な推理小説」と「完璧な推理小説ではないが、より面白い小説」、どちらを取るべきなのか。 

「偶然の要素」と「被害者の生存」というミステリにおけるマイナスの要素を入れて「推理小説」を捨てるべきなのか、あるいは、「小説」的により優れたラストを捨てて、完璧なミステリーを目指すべきなのか。 

あるいはこう言いかえることもできるでしょう。 

あることを黒か白かと論理的に明確にすることは素晴らしい。推理小説の愉しみはまさにそこにある。でも、小説の面白さというのはもしかしたら、黒か白かはっきりと分けられないものがある、ということを写し出すことなんじゃないか、と。 

まあ、そんなこと言うとね、この作品が嫌いな人はこう言うかもしれません。 

「ほうら、見ろ。ルルーはそこで推理小説を選ばなかったんだろ。だからやっぱりこの作品をミステリーの名作としては認めたくないね」と。 

でもね、きっとそうじゃないと思うんですよね。だってそんな自分の葛藤を物語の中にこっそり隠しているのだとしたら、もしも作者がミステリの形を装ったミステリではない小説を書こうとしたのだとしたら、それっていかにもミステリ的な遊びじゃないですか。 

つまり、この作品はもしかしたらルルーのミステリファンに対する挑戦状なのかもしれない。 

「さあ、俺が本当に書きたかったことはなにか、あててみな」と。 

なんて考えるとね、あら不思議。 

この作品のミステリとして不完全さ、実はその「推理小説としてのマイナス要素」こそが、回り回ってこの作品をとんでもなく完璧な推理小説に仕立て上げている、そんな風に思うのです。 

……なんてね。

でもそんなことはやっぱり、ミステリファンの明確な定義の中には含めてもらえないのだろうけれど。


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