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君は詩なんか読まないって知っているけど

大晦日の紅白歌合戦であいみょんが「君はロックを聴かない」を歌っているのを見ていたら、ふとリルケの「若き詩人への手紙」のことを思い出したので、今日はその話をします。

本書にはリルケが二人の読者に送った手紙が納められています。

本書の中で割と有名な箇所のひとつに、リルケが若い詩人にこう言うところがあります。

審美学的・批評的な物はできるだけ読まないようになさって下さい、--それは生命の枯渇した冷酷さのなかで化石したような、無感覚な党派的意見か、さもなければきょうはこの意見、あすはその反対の意見が勝ちを占めるといった調子の、器用な言葉の遊戯にすぎません。芸術作品は無限に孤独なものであって、批評によってほど、これに達することの不可能なことはありません。
リルケ「若き詩人への手紙」

恐らく、詩人に限らず、創作をしている人の中には「リルケさん、よくぞ言ってくれました!」と喝采を送りたくなる人も多いのではないでしょうか。批評という免罪符があれば人を言葉で刺してもいいなんて法はどこにもないはずですが、この世界には何故かそれを知らない人が多いですから。

それに、実際のところ、リルケが言うように、芸術作品が描こうとしているものを批評的な言葉で表現することなど本来は不可能なことです。そんなことができるなら、最初からそうすればいい。

とはいうものの、たとえば夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳したという有名な話がありますが、それは確かに素敵な表現なのですが、それで誰もが「ああ、この二人は愛し合っているのだなあ」と分かるなら批評なんてものは必要ないわけです。

リルケが言っているのは、あるいは漱石の逸話が教えてくれているものは、別に批評なんてものは必要ない、ということではないと僕は思うんです。

彼が言っているのは、芸術家なら恋人に向かって自分なりの言葉で「月がきれいですね」と言いなさい、ということでしょう。伝わらないかもしれないとか、今流行ってる言い方は何だろうとか、そんなことは考えなくていいよ、と。

そういうことを決めるのが批評家の役目です。でも、それは、創作においては、月を見ながら恋する二人には、何の関係もないことです。

批評というのは、この二人を見ながら「ご覧、あの二人は愛し合ってるんだ」って言うだけのことなのですから。

恋人に「月がきれいですね」と呟いた詩人に「それじゃ伝わらねーぞ」って言う人がいたら、それは批評ではなくただの野次でしょう。そして大抵の自称「批評」は結局ただの野次でしかない。あるいは、自分が詩人のつもりでいる。そんな時、詩人は批評家に向かってこう言ったっていいと思う。

こらこら、勝手に成り変わって俺の愛の告白とるんじゃねーよ。お前はお前の恋人に愛を語れよ。って。

でも、批評家の言葉が創作者ではなく、その作品に触れるだろう誰かに向けた言葉であれば、それがたとえ拙いものであっても批評であり、ちゃんと意味がある、僕はそう思うんです。恋する二人の邪魔をしなければ、それを遠くから眺めること自体は別に悪いことではないから。


と、創作と批評の違いをここまで鼻息荒く述べてきたわけですが、その一方、僕は思うんです。でも、結局のところ、すべてはつながってるって。

それはつまり、優れた芸術作品はそれ自体が批評であるし、優れた批評というものがもしあったら、それは芸術だと。そんな気がしています。

で、あいみょんの話です。あいみょんの書く歌詞って、特に初期の頃ってちょっとすれてるというか、十代の若者特有のこじらせ感がありますよね。

多分、この世界というものを的確に批評してるのはいつだって、十代の若者たちなのだと思うのです。

なぜなら、彼らの多くはこの世界というものを動かすことに何も関わっていないで、ただ受け入れるだけの存在だから。

でも、それは大抵の場合、ただのこじらせにしかならないわけです。いわゆる批評というものの多くが単なる野次にしかならないのと同じように。

でも、あいみょんの歌詞って、どこかただのこじらせを超えた何かがある。ただの野次ではない批評になっている。

たとえば、あいみょんの「君はロックを聴かない」の歌詞の中で、主人公の少年は「君はロックなんか聴かないって知っているけど」って言いながら、「君」にロック聴かせようとします。

これはとても面白いなと思って。どこが面白いかというと、一つ目は、この歌詞が今の時代におけるロックというジャンルを表現しているということです。

このことは初めて聴いたときから思ってたんですが、僕みたいなおっさんは、本当にこの曲を聴いて「ああ、時代が変わったんだ」と思ったのです。

たとえば90年代だったら、ロック≒ポップスなんですよ。浜崎あゆみも宇多田ヒカルも、ロックと言ったからといってそこまでの違和感はないわけです。むしろ含まなかったら「ああ、あなたはなんかロックにこだわりがあるんですね」ということになる。

そんな僕みたいなおっさんにとって「君は音楽を聴かない」はあり得ても「君はロックを聴かない」はあり得ないんですよね。これはもう、感覚の話なので、今の若い人がそれを理解できなくても仕方ないことですが。

そして、今のような時代が訪れるなんて、僕はまったく思っていなかった。いつの日かロックというものがポップスの王者の座から陥落する日が来るなんて。でもこの歌は、まさにそのことをはっきりと宣言してるんですよね。

それに、90年代だったら、この曲は深窓のお嬢様に恋する少年の歌に聞こえてしまう。寺山修司の有名な短歌に「海を知らぬ少女の前に われは両手を広げていたり」というのがありますけど、それに近い感じ。でも、若い人は多分、この曲をそんな風には思わないでしょう? ロックを聴かない「君」は多分お嬢様なのではないでしょう。

そんな風に時代が、ロックというジャンルが変化したことを語っているという意味で、この歌はとても批評的だなと思います。

もう一点は、この歌詞の主人公が「君」にロックを聴かせようとすることです。

多分、僕みたいに単純な人間だったら、きっとそんな歌詞にはしないんですよ。多分、主人公の「僕」は「君」にロックを聴かせようとするのではなく、「君」のためにロックを歌うんです。

でも、もしも「僕」が「君」のためにロックを歌ってしまったら、この曲はすごくつまらなくなるでしょうね。というか、違う話になってしまう。

なぜなら、そんなことをしたら、この曲のもう一つの批評性である「十代の少年の世界に対する立ち位置」という視点が失われてしまうから。

自分でロックを歌うことをしない、できない少年も、ロックを愛する人としてこの歌は歌っています。社会を動かすことに関わっていない十代の少年少女も、この社会の一員として関わっている人であるのと同じように。

これは、まさしく批評というものが芸術になっている瞬間だと僕は思うのです。この世界や物事をどう見るかという視点によってある種の真実を捕え、世界に新しい何かを吹き込んでいるわけですから。別に、みんながみんな歌う人じゃなくたっていいし、歌う人じゃない人には意味がないなんて、そんなことは絶対にないと。

リルケ風に言うなれば、この歌は「若い詩人と、別に詩人じゃないけど詩を愛するすべての人への手紙」になっている、僕はそう思うんです。


ということで、えっと、今日は何が言いたかったんだっけ。

そうだ、まずはあいみょんの「君はロックを聴かない」はいい歌だってこと。もうみんな知ってることだけど。

それから、リルケが言ったみたいに、創作者は批評家の言葉なんか聞かなくていいよねってこと。

でも、だからって批評なんて意味がないわけでも、なくてもいいわけでもないってこと。

そして、優れた芸術作品は優れた批評であり、優れた批評は優れた芸術作品であるということ。

僕は、創作することも批評することもどっちも好きなんです。だから、他人の創作にケチをつけるような批評はしたくないしされたくない。でも、その一方で、批評なんかには意味がないとも思いたくない。

なんだかたくさん話し過ぎました。最後まで読んでくれた人がもしいたら、ありがとうございます。まとまりのないこの文章が、ただの野次になっていなければよいのだけれど。

ということで、また明日。

おやすみなさい。

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