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僕らは自由と引き換えに意味を手に入れる 〜ジョージ・オーウェル著「1984年」のこと

あらすじ

「戦争は平和である
 自由は屈従である
 無知は力である」

こんなスローガンがいたるところに張り巡らされ、まともな人間の誰もがテレスクリーンによって盗撮、盗聴されている世界

そしてこの世界において「偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)」と呼ばれる独裁政党は、国民の思想を統一した全体主義的な管理社会を築いているのでした。

主人公のウィンストンは記録局に勤めています。彼の仕事は「真実管理」、この世界での新語法では「二重思考」と呼ばれる「歴史の改ざん」をすること。

しかしその一方でウィンストンは「思想犯罪」として日記を書くことに手を染めてゆき、ジューリアという女性と出会います。

国家の意思ではなく、「自由に」自分の気持ちを書くという行為、そして「自由」な恋愛。しかしそれらはもちろん、思想警察に発見されることになるのですが……

自由と責任


全体主義的な管理社会として、第二次大戦時のドイツや日本、またスターリン政権下のソ連を思い浮かべる人も多いでしょう。

社会心理学者エーリッヒ・フロムはその著書「自由からの逃走」において、こう述べています。

「われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由をすててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由から逃れる道をさがしたこと、他の数百万は無関心なひとびとであり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値のあるものとは信じていなかったこと、などを認めざるをえないようになった」

フロムは「与えられた意味」や「与えられた責任」を引き受けることで、人が本来持つ「自由」を捨ててしまうことを「自由からの逃走」と呼びました。

そしてそれは、実際に起こったことだ、と。

そんなことはありえない、と思う人もいるかもしれません。わざわざ自由を手放そうなどとする人がいるものか、と。

でも、もしも「自由」について真摯に考えるならば、そこには「責任」が伴うことは言うまでもないことです。逆に言えば、僕たちの「自由」とは自分が背負える「責任」の範囲でしかあり得ない。そして、僕たちの誰もが、自らの「責任」の範囲を超えた「自由」が正しいだなんて、誰も思っていない。

そうでしょう?

問題は、「責任」とは社会から与えられた「意味」でもあるということです。

全体主義的な国家がある種の熱狂を持って受け入れられてゆくその過程には、国民が「自由」と引き換えに強大な「責任」と同時に国家や社会から大きな「意味」も与えられることを求めることにある。

なぜなら、僕たちが社会の中の一人として生きていくのなら、「自由」だけではなく「責任」もまた同じように大切なものだから。

「自由」の観点から見たら「責任」はなるだけ少ない方がいいけれど、「責任」の観点から見たら、「自由」の方がなるだけ少ない方がよい、ということになってしまうのです。

そう考えれば、人が時として自ら「自由」を捨てることは、そう命令するような権力が支持を得て力を伸ばすことは、少しも不思議なことではない。

1984年と1Q84


本書における本当の怖さは「管理社会」そのものの怖さではないような気がします。

あらゆる権力が本質的に「自由」を奪うものであることは自明のことなのだから。

そんな当たり前のことよりもむしろ、それでも僕たちは多かれ少なかれそういう権力による管理を必要としているということ、本当の恐怖はそこにあるのでしょう。

村上春樹は「1Q84」において、権力=社会による「自由」の剥奪、それを「物語」と表現しました。


「答え=意味」を与えるもの、それが「物語」だ、と。

そこがフィクションの世界であろうとなかろうと、僕たちはいつも何かから「答え=意味」を与えられ、そしてそれを受け入れる(管理されることを受け入れる)限り、「自由」を手放しているのです。それは自分を「誰かの物語の登場人物」にしてしまうことだ、と。

フィクションに限らず、思想や歴史や政治的判断だってある種の「物語」です。社会=権力は何らかの権威や常識や科学的事実をその背景として、何が「正しく」て何が「間違っ」ているのかを僕たちに示そうとするのです。

「1984年」の中で、ウィンストンは思います。

「この知識は一体どこに存在しているのであろうか。いまや彼の意識内にしか存在しないのであり、それもいずれは抹殺されるに相違ないのだ。そしてもし他の人たちが党の強いる虚構を受け容れるなら――あらゆる記録が同じような虚構を述べるなら――その虚構は歴史の中に組み込まれて真実となってしまう」
「結局のところどうすれば二足す二は四になるということが確認できよう? 引力が働くということも、過去が不変のものだということもどうやって証明できよう? 過去も客観的世界も精神の内部にだけ存在するとしたら、また精神そのものが管理できるとしたら――一体どういうことになるのだろうか」

もしも権力が「物語」をつくることができなかったら、つまり僕たちの精神を管理することができないとしたら、その権力は権力として存在する理由をなくしてしまう。

だからもしも「権力から物語を与えられること」に不満があるのなら、僕たちは自分で自分の「物語」をつくらなければならない。

「1Q84」の登場人物である青豆が、「私は物語の登場人物ではない」と言って「物語」からの脱出を試みたように。

あるいはもう一人の主人公である天吾が、自分という存在の意味を「空気さなぎ」という自分自身の「物語」の中に求めていったように。

自由であることの辛さ


「答え=意味」なんて、どこにもない。そんなものは誰も教えてくれない。「1984年」という物語の「答え=意味」も、社会のなかでの自分の存在という「答え=意味」も。

僕らはつい、そんな風に言いたくなってしまいます。そしてその主張には、ある種の正しさがあるような気がする。

でもそれは、社会という権力から「お前は無意味だ、お前は無価値だ」と言われることと同じことなのです。

自分が「自由」であることを認めるということ、それは自分が権力をもたない、弱い存在であることを認めるということでもあるから。

だったらむしろ「国家」の代弁者を気取るようにして、自分にはまるで何かの「責任=意味=物語のなかでの役割」があると思うことができるなら、その方がずっと楽だし、その方が楽しいと思う人もいるかもしれない。

すると、そういう人を誰かが「物語を受け入れている」と言ってとがめようとするかもしれない。

でも、その行為すらも、彼らとは別の立場から、彼らが受け入れているものとは別の「物語」を押し付けようとする行為なのかもしれない。

そして、そんな右とか左とかいうくだらない話に耳をふさいでしまうことだって、それもまた、そういう「物語」なのかもしれない……

この作品はディストピア小説だと言われるけれど、本当のディストピアは、「自由」を棄てて「答え=意味」を求めてしまう、僕たち自身の心の方なのでしょう。

「偉大な兄弟」は単純な悪の権力と言うよりも、むしろ僕たち一人一人の心の中で「自分の意味、価値を保証したいがために誰かから与えられた思想、歴史、物語を受け入れること」の象徴なのだと思うのです。

ファシズムや社会主義は間違っている! というだけなら、話はとても簡単なのだけれど、それらはただ単に「管理されていること」が見えやすい社会なだけかもしれない。

もしも「管理されること」が「物語を受け入れること」なのだとしたら、それは今この瞬間の僕たちの社会と、どこが違うというのでしょうか。

もしもこの世界に「完全な自由」というものがあるとしたら、それは「1984年」の中でウィンストンが書き綴る日記のようなものであり、天吾が書き続けているまだ誰にも評価されていない小説のようなもの。

「1Q84」の中で、天吾はこう言うのでした。

「好きなだけ、好きなように過去を書き換えることができる?」
「そう」
「あなたは過去を書き換えたいの?」
「君は過去を書き換えたくないの?」

だけど、そんな「物語」は社会的に何の意味も、何の価値も、何の責任も持たないのだけれど。

僕らは与えられた物語を受け入れることしかできない


「自由」から逃げることなく向き合うということ、それはもしかしたら僕たちが思っているほど簡単なことでも自明のことでもないのかもしれません。

守るべき「自由」なんて、結局は「無意味」で「無価値」で「無責任」な「独りよがり」でしかないのかもしれない。

「彼らは疑惑を抱く対象にも値しなかった。党のスローガンにもあるように「プロレ階級と動物は自由の身」であったのだ。」

「自由」を謳歌することが人間らしさなのでしょうか。

それとも、「責任」を持って秩序を守ることこそ、人間の人間たる所以でしょうか。

オーウェルが本書で描こうとしたのは、僕たちがそれでも「与えられた物語を受け入れること」しかできないという、そのありのままの姿だったのではないかと思うのです。

どちらかの立場からどちらかを否定しようとするような「物語」ではなく、突き詰めると誰も否定することも肯定することもできないということに、人間という存在そのものの恐怖、ディストピアがあるのだ、と。

でも逆に言えば、そうやって「物語」を「「物語」ってこういうものだよね」という風に「物語る」ことができるということ、もしかしたら、それが人間という存在の希望なのかもしれない。

「自由」と「責任」、「自分」と「社会」、どちらを重視する立場に立つにしても、もしこの作品から何らかの「答え=意味」を導き出そうとするのなら……、そんな「物語」の先に辿り着く社会、それこそが「1984年」なのかもしれない。

「覚えてるかい、あの最初の日、森のはずれでツグミが僕たちのために歌ってくれたことを?」
「ツグミはわたしたちのために歌ってたんじゃないわ。自分の楽しみで歌ってたのよ。いいえ、そのためでもないわ。ただ囀っていただけのことよ」

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