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恋愛小説「now/here」

《あらすじ》
恋人と別れた日の夜。酔いが回りどこにも行けなくなった二十五歳のえりかを助けてくれたのは、大学生のアタルだった。白馬の王子様かも?と浮足立ち、アタルとの運命を手繰り寄せようとするえりか。一方アタルは、近づいてくるえりかが自分の人生にプラスになるかどうかをを見極めていた。これは、今を懸命に生きる不器用な二人が、お互いの存在を通して自分の現在地をたしかめるお話。

now/here あらすじ


方向音痴の人は、自分の現在地を地図上に割り出したとしても方角を認識するのに手間取ることがある。ましてやこんな深夜に、たいてい昼の様相を示す地図アプリの情報と照らし合わせるなんて、なかなか厳しいものがある。
──あたしの現在地はどこ?
飛高ひだかえりかの場合はさらに深刻で、希少な方向感覚も今夜はアルコールによって劣化してしまっている。今日から友人に戻った男の最後の良心で地元の駅まで送り届けてもらったものの、さすがにえりかの家まではついてきてくれなかった。男の半ば自分に言い聞かせた「大丈夫だよね」の連呼に辟易したえりかは、短く「さよなら」と会釈して颯爽と彼に背を向けたのだった。
その清涼感もミントタブレットと同じく長続きせず、駅を出て一つ目の角を曲がった瞬間えりかの歩みは止まった。しばらく立ち止まってみてもえりかを追いかけてくる気配はない。街灯の光が届かない路地裏に一人きり、それがえりかに突き付けられた答えだった。
冷たい夜の空気から逃れようと踏み出した足が自然と加速する。零時の鐘に怯えて階段を駆け下りる姫気取りの自分に苦笑しつつも、えりかはどこかで期待してしまう──ガラスの靴を誰かが拾ってくれたら、なんて。
そんな淡い願いも虚しく、悲劇のヒロインになれなかったえりかは夜道を徘徊する亡霊と化していた。
「ここ……どこ?」
最寄り駅のいつもの出口を出たはずだから、自宅付近なのは間違いないのだけど。悲しみに暮れて走りだしていいのは十代の若者だけというのに、喪失を酒で埋めたえりかはそこまで頭が回らなかった。
「やば、携帯の充電切れてるんだった……」
目印のパンの欠片を失ったヘンゼルとグレーテルはこんな気持ちだったのかもしれない。無慈悲に黙り込む携帯電話を放り投げたりしないくらいの理性があるのは救いだが、いつ途切れるかもわからないこの残量で足りるのだろうか。
途方に暮れたえりかは肩で息をしながら近くの電柱にもたれかかると、そのまま這うように崩れ落ちた。文字通りの自棄酒になってしまった。身体が動かなくなるほどの量をあいつに捧げたなんて馬鹿みたい。
──でも、夜道に女を放り出すような男、別れてもらって正解だったかも。
「あの、すみません」
あの男とは違う、落ち着きのある低い声が降り注いだ。力なく顔を上げると、えりかよりも年下らしき若い男が(青年と呼ぶのが最適かもしれない)えりかの隣にひざまずいた。えりかはとっさに身構えたが、男の眼光に獣の色は感じられない。ここでもう一つの可能性を考える──もしかして。
「あたしを助けにくれたってこと?」
ガラスの靴はちゃんと落ちていたんだ!目を輝かせるえりかに対し、男は声色を変えずに淡々とその意図を告白した。
「そんなところですね。さっき駅前でうちの大学のヤリサー集団がたむろっているのを見かけました。ここにずっとうずくまっているのは危険だと思いますよ」
そういえば先ほど大声で騒ぎ立てている若者たちを見かけた気がする。
「じゃ、伝えましたから」
男は両膝に手をつきすっくと立ち上がった。えりかは慌ててその手を握って引き留める。
「ちょっと待ってよ」
男の身体がよろめいて、互いの呼吸の所在が分かる距離にまで近づいた。男はえりかが嫉妬するほど透き通った青白い肌をしていた。死神かと見紛うほどに。
「何ですか」
「それで終わり?」
「終わりとは?」
えりかは男の言葉の続きを待っている。自力で答えに辿り着かなければならないことを察した男は渋々押し黙った。その物わかりの良さにえりかは好感を覚えた。
やがて男はその眉をはね上げ、「あぁ」と感嘆の声を漏らす。
「俺に介抱されたいってことですか」
「助けてくれる?」
酔いまかせに潤んだ瞳で覗き込んでみても、男の気色は全く変化しない。本当に一言告げるためだけだったのか? その潔白さに苛立ちを覚えるどころかむしろ感心してしまう。
「はあ」
えりかの上目遣いを男は愛想のない溜息でいなし、返事代わりに憐れみの目を向けた。
「たしかに目が据わっているし今にも吐き出しそうですね、あなた」
「は⁉」
えりかは男につかみかかろうとしたが、その弾みで胸のわだかまりと胃の吐き溜まりが一気に押し寄せてきた。慌てて口許を押さえた手に、リップが吐血のようにべったり張り付く。
「やっぱり。大丈夫ですかって……聞くまでもないか」
そんなえりかの背中を台本で決められていたかのように男がごく自然な動作で撫でた。当たり障りのない他人行儀な口調が、今は神父の柔く染み入る声色に聞こえてくる。
「帰らないの」
「帰れないの」
「何で」
「携帯の充電が切れた」
「そっか。じゃあ俺の家来る?」
「ヤリサー集団よりマシかしら」
「多分ね。今空っぽだから」
「空っぽ?」
その意味を捉えあぐねた純粋な問いに対し、男はえりかのように回答を求めることはしない。えりかの想像の範疇を超えていたからだ。
「さっきサキュバスに吸い取られてきたばかりなんです。だから安心してくれていいですよ」
男の返答を聞くや否や、えりかの意識は嗅覚に集中した。強制的に清潔へといざなうシャボンがえりかの腐敗のにおいと混ざり合い、肢体を次第に犯していく。
「……吸い取られたにしては元気じゃない?」
「ええ、利害が一致したので」
「利害?」
「彼女は男をたしなむ。俺は経験と金を得ることができる」
台詞を口にした男の目には卑しさも羞恥も何一つ映っていなかった。コンビニエンスストアでペットボトルの茶を買う取引と何が異なるというのだろう? そんな問いかけが聞こえてくるようだった。
「だからあなたに対して下心なんて一切ないんです。わかってもらえました?」
「……頭ではね」
「物わかりがいいですね」
えりかの絞り出した声に男は破顔した。出会って十数分、初めて見せた純朴な表情だ。
「あとはね、仮にここで放置したとして明日、捨てられたあなたと目を合わせたくないんですよ。それを『助けに来た』と解釈してくれるならそれで結構」
清々しい程配慮というものを一切感じられない声音。怒りを通り越して呆れすら覚えない自分は、思考までもこの男にゆだねてしまったのか。
返事に時間を要したえりかに軽い舌打ちを吐いた男は、再びゆっくりと立ち上がった。
「……まだ信じられない?夜道でうずくまっていたにしては意外と用心深いんですね」
痛いところを的確に刺していく男は、手帳型のスマートフォンケースから何かのカードを取り出すと、えりかの目前に突き付けた。
「はい。俺はこういう者です」
それは学生証だった。アルコールに侵されかけた瞼をこじ開けて見るに、先の言葉通り男は近隣の大学生で、年齢はえりかの三つ下だった。
「学生さんなのね」
「おおっ」
男が興奮した声を上げた。無表情だった白い顔をほんのり朱に染め、興奮で見開かれた眼はキラキラと輝いている。
「何でそんなに嬉しそうなの」
「名前より先に身分を話題にされるのは初めてだったので、つい。ほら、俺『蓮実中はすみアタル』という名前でしょう?そのせいで中学校みたいとからかわれるのが常で」
ああ、言われてみれば確かに……言われてみないとわからなかったけれど。えりかはそれほどまでに驚きはしなかったが、名前に無関心だった人は初めてだとアタルの興奮はなかなか収まりそうにない。
「たしかに『中』という名前は珍しいわね。ご両親はどういう意味を込めて名付けたのかしら」
「知りません」
先ほどとは打って変わって冷たく鋭利な声色が空を切る。拒絶を目の当たりにしたえりかはおとなしく身を引いた。そんなえりかの身体のこわばりを感じ取ったのか、アタルはえりかのうなじから頼りない背筋をゆっくりと撫でた。
「ああ、すみません。俺、施設育ちで親とは殆ど会ったことがなくて。だからもう、確かめようがないんです」
えりかは何かを言いかけたが、第三者の気配を感じ取ってすぐに黙り込んだ。深夜には似つかわしくない歓声。おそらく先ほど彼の言っていた大学生集団の残党に違いない。
「というわけで俺の家には親もいませんから、安心して眠れますよ」
わずかに残る理性がアタルの「眠れますよ」が比喩か否かを疑う。えりかの閉口の意図を察したアタルが、くすりと笑って受け流す。
「それともここでぶちまけたところ、あいつらに見られたいですか」
「それはごめんだわ」
「じゃあ俺と来るのが最適解ですよね」
えりかにはもう、ついていくという選択肢以外残されてはいなかった。

おとなしくアタルの家に連行されてからの記憶はない。訂正、えりかの中でなかったことにしている。酔いがまわっていたというのもあるが、その記憶はあまりにも残酷なものだったからだ。
まず、吐いた。アタルの家に着いた瞬間、思い出したかのように吐き気がえりかの身体を駆け巡った。
「あの扉がトイレだから、早く」
えりかは力なくうなずき、口許を押さえてドアを目指したが、努力も空しく道中で戻してしまった。こぼれた体液が玄関に置かれたスニーカーに降りかかる。さすがに申し訳ないと思いつつも、えりかには指定された場所へ残滓を吐き捨てるので精一杯だった。
「俺、いたほうがいいですか?」
背後からアタルの声がする。先ほどのえりかの醜態を見ていたはずなのに妙に冷静な声だ。糸を引く唾で口内を塞がれたえりかは言葉の代わりに力なく首を振った。
「わかりますよ、あなたの気持ち。初対面の男にゲロ吐き散らかすところを見られたくないですよね。もう遅いかもしれないけど」
一言余計なんだよと思ったが、その思考はすぐに濁音と体液と共に便器へ流される。「お気に召すままに」アタルはこの状況に似つかわしくない色っぽい声を残し、そっとドアを閉めた。
一人残されたえりかは便器に向かって思う存分吐いた。口からは酸っぱい胃液が、目からはあふれ出た情けなさが混ざり合い、渦となって処理されていくのを呆然と眺めていた。
そういえば。
そういえばアタルは、あたしの名前を知らない。
そういえばアタルは、あたしのことを怒ったりしなかった。
見知らぬ女が自分の靴にゲロをこぼしてもキレない男なんて存在したんだ。
異物を全て吐き散らかした後の、空っぽの頭で最後に意識したのはそれだった。

次にえりかが覚えているのは膝を九十度に折り曲げた体勢で、ゴミ袋を敷いたベッドで横向きに寝かされていた光景だ。
「……回復体位か」
「ええ。流石にベッドに吐かれたら困るので」
アタルはすでに目覚めており、頻繁に腰を押さえていた。床には複数のクッションが散らばっている……ベッドで眠るえりかに気を遣ってくれたのだろう。申し訳なさを覚えるとともに脳裏に昨夜の惨状がよみがえる。全てを思い出したえりかの悲鳴に、アタルは電流が走ったように腰から大きく跳ねた。
「ごめん!あのスニーカー弁償するわ」
「別にいいです。ちょうど買い換えようと思っていたところだし」
「そう、なの」
えりかの懇願に近い提案に対し、アタルの返答は冷めたものだった。こちらが申し訳なくなる位の無頓着さだ。
「あと諸々の処理も……」
「頼んだらやってくれましたか?」
「無理ね」
「でしょうね。ゴミ袋片づけるので腰を浮かせてくれますか。……よろしい」
えりかには一切触れることなくアタルはベッドに敷いていたゴミ袋を回収していった。出会って半日も経っていないはずなのに、もうアタルはえりかの扱いを覚えたようだった。男と女というより、もはや家族に近い距離感である。
「施設にいたころ、よくチビたちの処理やっていたから慣れてるんです」
……チビたちと並列かよ。
「ま、大学入ったらもっと沢山処理をさせられたのには驚きましたけど」
チビより吐くんだもんあいつら。えりかが吐いたときには見せなかった苦々しい表情からして壮絶だったのだろう。ゴミ袋を何枚も重ねたベッドと、回復体位で寝かせていた事実がそれを物語っている。
「サークル入ってたの」
「はい、社会勉強に」
「それはさぞいい勉強になったでしょうね」
「一年生の必修科目にしたいくらいですよ」
アタルの皮肉とも冗談ともとれる物言いに、えりかは素直に感服した。同時に「社会勉強」「必修科目」という言葉は昨夜のある記憶を呼び覚ます。
「あれも『社会勉強』ということね」
「あれ?」
ベッドの処理を終え、クローゼットを漁りながらアタルは聞き返す。
「サキュバス」
何かを探すアタルの手がぴたりと止まる。その瞬間えりかは察した──自分は薄氷の上を歩んでいたのだ。今更気づいたところで、もう遅い。
「……そういうことでいいですよ」
アタルのトゲを隠そうともしない声色にえりかの後悔も吹き飛んだ。サキュバスの話を最初に持ち出したのはそちらのくせに。
「あなたにもそれが好都合だったじゃないですか」
「はぁ⁉」
どう見ても不愉快のくせに、冷静さを取り繕うとするアタルに腹が立つ。売られているのなら買ってやる。意気込むえりかを制するようにアタルが何かを放り投げた。
「これ着て帰ってください」
美しい放物線を描いてえりかの足元に着地したのは、丁寧に折りたたまれた白い無地のTシャツ。
「俺に興味を持つのは勝手ですけど、俺はあなたに興味はない。自分の服見てください。昨日のゲロ臭さのままでしょう。そういうことですよ」
アタルに言われるがままにえりかは視線を落とした。ボタン一つ外されていないシャツブラウスから漂う胃酸のにおいが鼻を衝く。
「返さなくていいですよ。それ、千円もしていませんから」
この一言にえりかの寛容はとうとう砕け散った。そういうところが良くないのよと嘆く理性を尻目に、えりかは感情に身をゆだねて叫ぶ。
「あたしの価値は千円以下ってことかよ!」
口からしぶきが飛散するほどのえりかの怒声にアタルは返答せず、早く着替えろと言わんばかりに背を向けた。彼の対応はますますえりかの怒りに拍車をかけた。こうなると止められないのは自分が一番よくわかっている。わかってはいるけれど、えりかの譲れない点を刺したのは彼なのだから仕方ない。
「着ないんですか?」
「結構よ」
えりかはTシャツをアタルに投げつけ、ベッドのすぐ近くに置いてあるカバンを掴み取った。
「ああそうだ」
「何」
「携帯電話、充電しておきましたから。予備の充電器持ち歩くことをお勧めしますよ」
「……ご丁寧にどうも」
アタルは最後までえりかの名前を尋ねることはなかった。

「それで?はなちゃんはお礼も言わずに出てきちゃったんだ?」
ゆりちゃんはクリームソーダをスプーンでかき混ぜながら尋ねた。『はなちゃん』はえりかのメイド喫茶時代の源氏名だ。お互い退職し、こうして街中の喫茶店で会うようになっても名残で呼び合っている。氷の擦れる軽快な音に合わせて、ゆりちゃんの娘の彩夢あやめがあうあうとベビーカーから懸命に手を伸ばした。
「言い忘れただけ。感謝はしてる」
そう、タイミングを失っただけ。言い切るえりかの目を、ゆりちゃんは笑みを浮かべつつ視線はそらさずじっと見つめてくる。
ゆりちゃんのこの朗らかな探る目はメイド喫茶時代から苦手だ。えりかだけでなくおそらく皆そうだったはずだ。ゆりちゃんの前では皆嘘をつけない。正直であることが誠実という信条を持つ彼女は、他人にもそれを求める傾向がある。そのせいで彼女を嫌う同僚も少なからずいた。けれども嘘をつかないという点で彼女は誰よりも信頼されていたし、真面目さと癒しを与えてくれる安心感を併せ持つゆりちゃんは常に指名率上位だった。
「はなちゃんが怒るのもわかるよ。自分の価値をお金で決められるのって、私たちからしたら一番いやなことだからねぇ」
「でしょ?本当ありえない」
「まーでも世間的に言えば、介抱してもらったのにお礼を言わずに勝手に怒って帰る方がありえないけどねぇ」
「……」
おっとりしているのに正論で刺してくるのがゆりちゃんの怖いところだ。もちろんえりかには反論の余地はない。
ぱんっ。
微妙な空気を払うようにゆりちゃんが軽く手を叩いた。彩夢は小さな体をびくりと揺らし、目を見開いたまま静止した。ゆりちゃんはごめんねと囁き、彩夢の背中をそっとなでる。
「ということで、もう一回例のアタルくんに会いに行こう!」
「えっ⁉」
えりかの大声に反応した彩夢がいよいよ泣き出した。ゆりちゃんは彩夢を抱き上げてあやしながら、えりかに「大丈夫だから」と目配せした。
「アタルくんの家、知ってるんだよね?」
「それはまあ……」
飛び出した後当然「ここどこ?」となったえりかは再びパニックになりかけたが、復活を果たした携帯の位置情報を使うという冷静さを失ってはいなかった。アタルの家は同じ市内で、えりかの自宅から徒歩で十五分ほどの距離だった。
「お礼代わりにアタルくんの靴買ってあげなよ。そしたらはなちゃんのこと見直すかも」
「そんな高いもの買えないよ」
「正社員だったのに?」
「今はアルバイト」
「そうだったぁ、ごめんね」
ゆりちゃんの舌足らずな甘ったるい声は、嫌味かどうかの判別ができないから厄介だ。
「高いやつとは限らないよ?だってアタルくん千円のシャツ着てるんでしょ。GUにでも連れていけばいいじゃない。スニーカーと一緒に服でも買ってあげたら」
「確かに、それはそう」
さすがゆりちゃん。人の話をよく聞いているしなかなか鋭い。「それではなちゃんが貧乏ってこともばれちゃうかもね」と付け足すあたり、なぜゆりちゃんが指名多数だったのかがよく分かる気がする。
「それにね、靴を買うって言うのは口実だよ」
「口実?」
「はなちゃん今二十五でしょ。結婚したいって言ってたじゃない。出会いは最悪でもボーイミーツガールなのは間違いないよ。この出会いをモノにしなくてどうするの」
決まり悪くなったえりかはゆりちゃんから顔を背けた。別れた直後だったとはいえ、アタルに「食パンをくわえた少女が街角で……」的な出会いを求めてしまったのは事実だ。しかしボーイミーツガールという言葉の響きがここまで胸やけするものだったとは。アタルの「吸い取られてきたんで」発言はこのような展開お断りという意思表示だったということか。
「アタル……」
『俺に興味を持つのは勝手ですけど、俺はあなたに興味はない』
そう言い放った彼の抑揚のない声を思い出す。……悪寒がした。
「正直もう会いたくないわ」
えりかの垂れ下がった髪が顔を覆う。ゆりちゃんは無理にえりかの髪をはらおうとはせず、クリームソーダの海に浮かぶ氷山と化したバニラアイスを彩夢に分け与えた。
「でもこのままだと、はなちゃんは一生アタルくんに『ゲロの人』呼ばわりされちゃうね。いいの?それで」
「無理」
「じゃあアタルくんに本当の名前教えてあげないとね?」
ゆりちゃんがくすりと微笑みかける。再び寒気がえりかを襲った。あなたの名前は?とでも言うように見つめてくる彩夢から、えりかはしばらく目が離せなかった。

えりかが知っているアタルの情報といえば大学名と年齢と住んでいる家だけだったが、考えてみれば十分すぎるくらいだ。いざとなればネットの海に流してしまえばいい。こちらはアタルの弱みを大いに握っているのだ。
たぶんこの部屋だったはず。正攻法でアタルの部屋のドアを叩く。
「……どちらさまですか」
三回目のノックでようやく聞き覚えのある声が返ってきた。えりかの記憶は確かだったようだ。
「あたしよあたし」
「詐欺ですか。お断りします」
「ちょっと待ってよあたしだって」
「では名乗ってください」
「飛高えりか」
「ヒダカエリカさん、ですか?知りませんね、さようなら」
しまった。あの日えりかは名乗ってすらいなかったのだ!……どうする?
そうだ、一つだけある。絶対あたしだってわかってもらえる表現。えりかは屈辱をかみしめながら腹をくくった。
「この前あんたに拾われてそのままゲロった女ですよ!」
「ああ、あのゲロ女さんですか」
ゆりちゃん、やっぱりゲロの人で終わっていたよ。悔しいがこれだけでも今日来た価値があったということだ。
「お元気そうで何より」
ようやく開いた扉の先には間違いなくあの夜の男──アタルが立っていた。相変わらずの青白い肌と、年齢に似合わぬ冷めた目つき。えりかを支えながら夜道を歩いたにしては細い体に、思わず自分の二の腕と彼のそれを見比べてしまう。
「おかげさまで。……助けてもらったのにそのまま立ち去ったのは悪いと思ってる。すみませんでした」
「それだけを言いにわざわざ来たんですか?別に気にしていないのに」
社交辞令ではなく本当に興味の無さそうなアタルに、えりかは一抹の寂しさを覚えた。
「あ!」
「え?」
「モニターあるじゃない」
「ああ、はい」
「あたしのことずっと見ていたの」
「当然ですよ。あれは来訪者を確認するためのものですから」
「じゃああたしだってわかってたってこと⁉」
「そりゃ顔はね」
しらばっくれるアタルに苛立ちが募る。口車に乗せられているとわかっていながら止められないのが悔しい。
「わざわざ名乗らせる必要あった?」
「不審がられないように身元を明かすのはそちらの義務でしょう」
「そうじゃなくて、げ……」
「げ?」
せっかく今日は他人に会うからと、リップをしっかり塗ってきたのだ。こんなつやつやの唇でそんな単語もう言いたくない。何より確信犯のアタルにこれ以上弄ばれるのはごめんだ。敗北を喫したえりかが視線をそらすと、隅に置かれたゴミ袋が目に入る──例の靴だ!えりかの脳裏に先日の惨状と羞恥がよみがえり、ようやく今日の目的を思い出す。
「そうだ、お礼がしたいの」
「お礼」
妙に冷静な声。少しは興味を持ったのか、先程とは明らかに異なる声質だ。
「お詫びともいう」
「どちらでもいいですけど、そちらの方がしっくりきますね」
いちいちむかつく奴だな。かみつきたくなるのを我慢してえりかは続ける。
「そのスニーカー、あたしがダメにしちゃったでしょ。だから新しいのプレゼントさせてほしいの」
「それで朧げな記憶を辿ってうちまで来た、と」
「そうよ。文句ある?嫌ならいいわ、あの節はどうもお世話になりましたでこのまま帰るから」
「意外とえりかさんは律儀ですね」
「えっ」
──今、初めてあたしの名前呼んだ?
動揺するえりかを気に留めもせず、アタルは考え込むポーズを取り繕うと即座に答えを出した。
「それならありがたく詫びられようかな。準備してくるので、ここで少し待っていてもらえますか」
「わかった」
あとそれから。部屋の奥に消えていく直前、アタルはえりかを見て目を細めた。
「ずいぶん可愛い恰好してますけど、もしかして俺とデートしに来ました?」
「なわけないでしょ死ね」
えりかの即答を軽やかに交わし、アタルはじらすようにゆっくりとドアを閉めた。

「GUかよ……」
不服そうなアタルの声。あからさまに肩を落としてにらみつけてくる彼を、えりかはすました顔であしらう。
「靴ともう二、三着くらいは買ってあげてもいいわ」
「えりかさんは詫びりに来たんですよね?あなたの誠意はこれくらいなんですか」
「千円のシャツを着ているあんたには相応だと思うけど?」
アタルの舌打ちが飛ぶ。性的な欲求は全くぶつけてこなかったくせに、こういった野心は丸出しなのか。
「この間MKのバッグ持っていたくせに……」
「あれはあたしが買ったわけじゃないし。そんな金持ってないよ、あたし」
よく見ているなと思ったが、千円のシャツを気にする彼なら当然かもしれない。
「ふうん。プレゼントだとしたら『お金あんまりない』えりかさんには負担になる贈り物ですね。豚に真珠だ」
「死ね!」
えりかの拳をアタルは俊敏な動きでよけた。
「俺みたいな勘違いした奴が近づいてくるかもしれないってことですよ」
えりかは押し黙った。このバッグを使うのはもうやめよう。未練たらたらの執念深い女と思われても困る。
「お金がないのはここ最近の話だから。この間までフルタイム正社員だったし」
「へえ、仕事辞めたばかりなんだ。お疲れさまでした」
「うるさい」
言うつもりのないことまで口にしてしまった。アタルは同情とも皮肉ともとれる絶妙のラインを踏んで来るのがうまい。
「MKを普段使いするOLだったら、もう少しいいところの服をおねだりしてもいいかなと思っていましたが」
「もしかしてあんた、最初からそのつもりで助けたの」
「さあ、どうでしょう?」
アタルの真意の読めない発言は、ファンデーションを塗り重ねていたメイド時代のえりかとよく似ている。わざと濁して壁を作り、気を引こうとする。でも自分から話す事はしない。あくまで主役は相手なのだから。
「多分、もう少し素直になった方がうまくいくと思うよ」
「何が」
「おねだり」
『はなちゃん』時代の、相手の顔を覗き込むように首をかしげて朗らかに笑う癖が抜けない。好かれようと他人にしっぽを振るのはもう飽きたというのに、体には染みついてしまったということか。気味悪がられるかもと思ったが、意外にもアタルは口を半分開けたままじっとえりかを見ていた。
「そんなにおかしかった?」
唇を尖らせたえりかにアタルは思い出したように咳ばらいし、続けざまに尋ねる。
「前職は何をしていたんですか」
「コールセンター。その前はメイド喫茶」
「なるほど。確かに説得力がありますね」
「説得力?」
「結構可愛かったですよ、今の。グッときました」
「……えっ」
「一瞬だけですけど。俺も次からはそうやっておねだりしよう」
「誰に?」
えりかの頬がほんのり赤らむころには、アタルの沸点はとうに下がっていた。
「MKが似合う女の子」
アタルは『二九〇〇円』と書かれたスウェットを手に取ると、体を屈めてえりかの顔を覗き込んだ。こぼれた前髪の隙間から覗く宵闇色の瞳に、えりかの姿が映る。
「……へたくそ」
「そう?それならあなたの教え方が悪かったんだ」
「あんたの飲み込みが悪いのよ」
「じゃあ次はうまくやりますよ」
しばらくして戻ってきたアタルが手にしていたのは、自身が着ているのと変わらない無地のシャツ。
「おねだり」
魔法の呪文でも唱えるようにゆっくりと唇を動かすと、えりかを真っ直ぐ見据えて破顔した。えりかの口角が緩みそうになった寸前、渡されたシャツの値段を見て我に返る。
「……反省のつもり?」
「第一印象が悪いのはよくないですから」
アタルが選んだのは三千円のスニーカーと七九〇円のシンプルなコットンシャツだった。
「もっとねだらなくてよかったの」
「えりかさんだって安心してるんじゃないですか」
「……」
安心という言葉を当てはめるには異論はないが、それは拍子抜けから来るものだった。アタルなりにえりかに配慮したのか。あるいは彼には全くこだわりがないのかもしれない。
それならアタルは何に対して興味が湧くのだろう。彼に執着心というものはあるのだろうか。もしかして──
「あと連絡先教えてください」
「えっ⁉」
突然の提案に面食らったえりかの声に、アタルはあからさまに顔をしかめた。
「嫌ならいいですよ」
「嫌じゃないけど、何で急に」
「今日みたいにいきなり押しかけられても困りますから」
「それって、また来てもいいってことね?」
「……」
初めてアタルを言い負かしたかもしれない。満足げに微笑むえりかにアタルは満更でもなさそうに閉口した。

「こんばんは、飛高です」
今度は一度の呼び鈴でドアが開いた。素直に開くドアとは裏腹に、部屋の主は仏頂面を浮かべている。
「また来たんですか」
「今回は事前連絡入れたし、ちゃんと名乗りました。何が不満なのか理解できないわ」
舌打ちと共に顔を背けるアタルから視線を落とすと、張りのある清楚なシャツが目に留まった。
「服、着てくれたのね」
「服は着るものでしょう」
「あんたさ……」
「どうしたんですか。用がないなら閉めますよ」
用がないならと譲歩しているあたり、えりかを招待する気は多少なりともあるのだろう。
「用があるから来たんでしょうが!……これ、よかったらと思って」
えりかが持ってきたのは実家から送られてきた野菜や缶詰、レトルト食品の類。人によっては「よかったら」の親切では済まされない量がつまった袋を、アタルは遠慮の一切を見せずに堂々と受け取った。
「ずいぶんたくさんですね。ありがとうございます」
「いいの。こんなにあっても食べきれないし、前の仕送りが余ってるくらいなのよ。うちの親、あたしがロクなもの食べてないんじゃないかって疑っているの。一人暮らし始めてもう随分経つのに」
「幸せな悩みだな」
「食べ物には困らないという点ではね」
アタルの含意を言い当てられないえりかは、自分を見つめるアタルの目尻が力んでいたことも気づかない。
「それなら俺はありがたく幸福のおこぼれにあやかるとするかな」
乞食みたいにね。自らの冗談に冷笑を浮かべながらアタルは部屋の奥に消えていく。
「食べていく」
えりかはアタルの丸まった背中を追いかける。一応恩義は感じているのかアタルは止めなかった。

パックご飯にレトルトのカレーだけでは味気ないからと、アタルはゆで卵を用意してくれた。「俺最近ゆで卵を極めたんです。沸騰してから九分ですよ。覚えておいてくださいね」と、珍しく上機嫌なアタルがゆで卵美学を語ったのを最後に、会話はすっかり途絶えていた。
二人の間を取り持っているのは公共放送のニュース番組と、カレーを運ぶスプーンが皿に当たる音のみ。品行方正という言葉がよく似合う、悪く言えば無個性なアナウンサーが日本の今日を正確に伝えていた。
えりかもアタルも自分を取り巻く世界に興味を示しているわけではない。間を取り持つために流しているのであって、土鳩の鳴き声や、懐かしいメロディで人々の気を引くゴミ収集車と何も変わらない種類の音にすぎない。いまの二人は目の前にある標準的な味のカレーで生をつなぐのに精一杯だった。
そんな妙に緊張感の張りつめた空気の色を変えたのは、意外にも家主のアタルだった。
「……前から聞きたかったんですけど」
「何?」
冷静さの中に何か隠しているような含みのある質問に、えりかは顔を上げて聞き返す。
「どうしてアルバイトなんてしていたんですか?そんな迷惑すぎるほど心配性な親がいれば働かなくてもすむでしょう。しかも、よりによってメイド喫茶を選ぶなんて」
「どうかしてる?」
先回りした答えが的を射たらしく、アタルはカレーを口に含み言葉の続きを放棄した。言い負かすのに成功したえりかが、勝ち誇った顔で得意げに自身を語る。
「よく聞かれるんだけど、可愛い服を着たかったからかな」
「つまりチヤホヤされたいってこと?」
アタルの回答はあながち間違いとは言えないが、えりかの人生史に載る一大決心を、そんな安直で下品な言葉で要約されたくない。
「制服を脱いだ後の、若いうちにしかできないことがしたかった」
えりかの十代最後の夢はアタルの感受性では理解しがたいものだったようで、彼はその長いまつ毛を静かに伏せた。
「じゃあ何でやめたんですか。年を取っ」
言い終わらないうちにえりかの肘ミサイルがアタルに的中し、彼の持っていたスプーンが落ちた。ターメリックのしみを作らずに済んだことにえりかは少し安堵する。……彼はこちらをにらみつけているが。
「憧れのメイドさんがやめちゃったの」
「目標の喪失、ね。よくある話だ」
アタルのこの呟きにはうなずくしかない。青春ごっこの延長のような、あまりにも陳腐で幼すぎる理由であることくらい、自分が一番わかっている。
「どんな人だったんですか」
「お客様や他の女の子たちとの距離感を図るのがとてもうまかった」
あー、はいはい。アタルは大きく首肯した。アタルの相槌はえりかを饒舌にする。いや、違う。共感してくれているとえりかが勝手に解釈しているだけだ。アタルはえりかの話をなぞっているだけにすぎないのだから。
えりかのその予感は当たっていた。分析できるだけの冷静さと心の余裕を持っていなければ、きっとアタルの次の台詞に耐えられなかっただろう。
「その人を前にえりかさんは心が折れた、と」
スプーンを口に運ぶついでの台詞にしてはグロテスクだが、アタルなりに慮ったのかもしれない。下手に慰めるくらいなら核心をついたほうがその人のためになる。
「……挫かれたのは事実だけど、あたしの心は折れるような細い棒状ではないので」
アタルは一瞬目を丸くすると「なるほどね」と短くつぶやいてしばらく黙り込んだ。
「そんなにうまくいってたなら彼女、やめる必要なかったと思いますけどね」
「寿よ。お客様の一人と結婚して子供ができた」
「美味しいところだけ持って行きましたね」
そうね、と言いかけてやめた。事実としてはそうなのだが、彼女の持ち前の性格の良さで誰も咎める者はいなかった。実際えりかは今でもゆりちゃん・・・・・との付き合いは続いている。
問題はゆりちゃんが辞めた後だった。
「そういう人がいなくなったなら色々とバランスが崩れたでしょうね。えりかさんの居心地が悪くなるのも納得です」
さすがアタルは察しが良い。『はなちゃん』時代にアタルみたいな固定客がいればよかったのに。そうしたら『はなちゃん』を続けていられただろうか?むしろもっと早くに辞めていたのかもしれない。……ゆりちゃんのように。
「結果的にやめることにはなったけど、色んなことを学べたからよかった」
「学べたって、何が?」
アタルの声色が若干変化したことに気づけなかったのは、えりかにとってそれらが重要な意味を持つ思い出として深く根差していたからだ。
「それはもう、いっぱいある!コミュニケーション能力は言わずもがなだけど、一番大きかったのはプレゼン力の大切さかな。メイドって水商売だからどんどん売り込んでいかないといけないし──」
「いい学びですね。強者の余裕って感じ」
アタルは笑みを浮かべてえりかを見ている。にもかかわらず、声色は深雪に包まれた森のように研ぎ澄まされていた。その声は自分の軌跡を語るえりかを凍らすのには十分すぎる毒を宿していた。
「件の彼女がいてもいなくても、えりかさんには不向きな職場だったと思いますよ」
「何で言い切れるの」
「あれ、図星?」
「っ……」
「もしかして自覚してなかった?ああ、そっか。ここが一番あなたに欠けているところですね」
「欠けている……?」
「教えてあげましょうか。えりかさんがメイド喫茶を辞めなければならなかった理由」
アタルの顔から嘲笑が消えた瞬間、えりかは察した──彼は審判官だ。そして今から宣告されるのは、あたしの罪。
「そこで働く他のメイドたちと見ている景色が違うって、気づいたのではないですか?」
息を呑むえりかになぜかアタルは悲しそうな眼を向ける。
「頭の良いえりかさんなら薄々感じていたはずです。彼女たちは自分とは違う意味で店にしがみついているって。違うな、そこにしか居場所を見つけられない子たちを見て畏れたんだ」
えりかはすっくと立って、まだ半分以上残ったままのカレー皿を流しへと運んだ。その背中をアタルの声が執拗に追いかける。
「その畏れは正しいです。可愛い服を着られるだけで満足なあなたには、生への執着を理解するなんて一生できないでしょうから」
「……どうしてそんなことがわかるの」
えりかが言えるのはそれだけだった。清潔に保たれた三角コーナーに、食べ残しを入れることなんてできなかった。躊躇った挙句無理やり口に押し込んだそれは、なかなか喉を通ってはくれない。
「はは、やっぱりあなたは賢いのに変なところで想像力が欠けている」
背中に突き刺さる彼の声が同情の色をにじませた。……違う、これは和らいだのではなく矛先が変わっただけだ。
「俺も同類だからに決まっているじゃないですか」
「同類……?」
振り向いた先に見えたアタルの顔は悲痛に歪んでいた。えりかが次にまばたきをした時にはもう、彼の気色は何の感情も映していなかった。
「よく言うでしょう?身体は資本って。文字通りの意味ですよ」
『吸い取られてきましたから。サキュバスに』
『彼女は男をたしなむ。俺は経験と金を得ることができる』
『だからあなたに対して下心なんて一切ないんです。わかってもらえました?』
アタルの言葉がよみがえる。空っぽって、そういうことだったんだ。顔がたちまち青くなっていくのを隠し切れないえりかを、アタルは黙って見つめていた。
「……別にそれだけで生計を立てているわけではありませんよ。本業は学生ですし、駅前のスーパーでアルバイトもしています。でも、足りないんです」
これからも生きていくためには。アタルが漏らした言葉はフローリングに沈んでいく。淡々と綴られる彼の語りに相槌を打つ資格なんて、今のえりかは持っていない。
「『深淵を見ている時、深淵はお前を見ている』」
なぜアタルはこの言葉を引用するのだろう?
「えりかさんは深淵の存在すら知らないんでしょうね。それはとても幸せなことなんですよ」
アタルは笑っていた。その笑みは彩夢をあやすゆりちゃんのそれと似ていた。
「そうやって一生、確約された幸福の中で悩んでいればいいよ」
「……ごちそうさまでした」
今度はアタルに頭を下げてからえりかは部屋を後にした。

「それで、また逃げてきちゃったの」
ゆりちゃんはアイスティーを一口すすると、運ばれてきたばかりのフォンダンショコラにフォークをさした。中のチョコレートが一目散にあふれ出すのを見た彩夢の口が、小さな洞穴のようにぽっかり開く。
「逃げてはない。ちゃんと『ごちそうさま』は言ってきた」
「それならはなちゃんは悪くないんじゃない」
「だよね」
「うん」
ゆりちゃんの同意に安堵したのもつかの間、えりかに新たなもやが立ち込めた。えりかのエゴを満たす確認のために、ゆりちゃんと彩夢は喫茶店に呼び出されている。それをわかっていながらケーキを注文した彼女に、えりかは何か会話をつながなければならない。それこそが今できる彼女に対する最大の礼儀なのではないか。そんな恐怖に似た焦燥がえりかを襲った。
「ゆりちゃんはどうしてメイド喫茶で働き始めたの?」
「何それ、すごく唐突」
「聞いてないなと思って」
「言ってなかったっけ?」
「ゆりちゃんは聞かないと教えてくれないでしょ」
「ほほぉ、よくわかっていらっしゃるじゃないですか」
フォークを置いたゆりちゃんの口許が可憐にほころんでゆく。
「そうだね……、可愛い女の子がいっぱいいたから?」
微笑むゆりちゃんの顔にはどこか恍惚の色が浮かんでいた。西洋画の乙女のように、見る者を皆虜にする笑みだった。
「可愛い女の子……?」
意味を捉えあぐねたえりかに、ゆりちゃんは「ごめんごめん」と顔の前で両手を振り懸命に弁明する。
「違うよ。そういう意味じゃなくて、こう……守ってあげたくなるくらいかわいそうな女の子を見て安心したかったの。自分だけじゃないんだなって」
今しがた弁解した手でゆりちゃんは彩夢を優しく抱き上げた。白く細い人差し指が彩夢の柔い肌をさするたび、えりかの背筋が跳ねた。
「安心したうえで自分はこうなりたくないって思ってた。そこを全てにしたくなかった」
彩夢の頬に触れたゆりちゃんの左手の薬指がそっときらめいた。
「結局他人の力を借りちゃったけどね」
「……ゆりちゃんは今、幸せ?」
「うん、とっても。旦那さんもいて、彩夢もいて、……暮らせてる」
「うらやましいな」
「ダウト」
「えっ」
「本当はそんなこと望んでないでしょう」
息を呑むえりかに、鋭利な声が嘘のようにゆりちゃんは柔和な笑みを向ける。
「私は確かに幸せだよ。でもそれって、旦那さんや彩夢に縛られてるということでもある。私みたいな固定化された幸せを、はなちゃんが今望んでいるとは思わないけど?」
私みたいな固定化された幸せ。
深淵というものがあるなら、えりかは初めて覗いた気がした。
「はなちゃんすごい顔してるよ?お客様の前でそんな顔見せたら一発でクビ飛びそう」
「もうやめたからいいの」
「そうだね、はなちゃんは今自由だもんね」
ゆりちゃんはえりかに何かを託すようにまつ毛を伏せ、次の瞬間にはいつもの明るい彼女に戻っていた。
「要するに、幸せの形は人それぞれってことだよ!はなちゃんだって私の真似がしたいわけじゃないでしょう」
「それはそうだけど」
「じゃあそういうことだよ」
「……」
はぐらかされた気がするが、もう彼女は何も話してくれないだろう。
「店トップクラスの売り上げだったゆりちゃんが言うなら、そうなのかもしれない」
「やだやめてよぉ」
ゆりちゃんは左手を口元に添え、えりかの言葉を払いのけるように右手を大きく動かした。
「今の私はただの普通の専業主婦だよぉ」

その連絡は突然来た。いつも通り十一時に目覚めたえりかが、メッセージアプリに届いた、殆どが企業アカウントからの未読を処理している時だった。色とりどりの個性豊かなアイコンの中に、ぽつねんと浮かぶ灰色の人影。……ノーイメージ?
『今度、お時間ありますか』
「ん⁉」
メッセージの受信時刻は今朝五時二十七分。もし通知がオンだったら、寝起きの猛獣えりかに即刻消されていたに違いない。初めてのアタルから始まる会話に笑みがこぼれたが、同時にこれが彼のものなのか疑わずにはいられなかった。早朝のメッセージ──普段から早起きなのか、もしかしたら誰かと一緒にいたかもしれない。……なんて考えすぎるのは女の悪い癖だ。
『会いたいってこと?』
はやる気持ちを押さえて一旦探りを入れる。返信は割とすぐに来た。
『じゃあいいです』
じゃあいいですってなんだよ。つい漏れ出た言葉に反してえりかの口許は緩んでいた。この憎たらしい返しはアタルのものに間違いない。
『忘れたの?あたしは無職ですよ。時間なんてありあまっているくらいよ』
『そうでした』
『では今度の金曜日の十時にここへ来てください』
ちっ、十時かよ。絶妙に早い待ち合わせ時間だ。身支度の時間を考えたら九時……いや八時過ぎには起きないと。えりかにとって嫌がらせとしか思えない時間だが、これを機に起床時間を見直してみるのもいいかもしれない。
送られてきた指定場所のアドレスを開くと、市内にある大学の正門前だった。……大学?
「あれ、これアタルの大学じゃん」

****

当日、えりかはあくびをこらえながらT大前に立っていた。昨夜眠りにつくのが遅くなってしまったのは、服を選ぶのに時間がかかったからだ。えりかは齢二十五。まだまだ若者だという自信は十分あるけれど、大学を卒業してから二年以上経っている。うまく馴染めているといいのだけど。どんなに擬態したところで異質なものはすぐに見抜かれてしまうのだが。
スマートフォンから目を離し一瞥をくれる若者たちの視線に耐えきれず、結局えりかは迷わない程度に学内をぶらついてから、今来たばかりを装って現れた。
「アタル!」
「ああ、えりかさん」
アタルは読んでいた本から目を離して挨拶をした。本というよりメモ帳?えりかの視線に気づいたアタルが「今度授業で小テストがあるんですよ」と注釈を入れる。『授業』『小テスト』という単語を使いこなすアタルはやっぱり学生なのだ。身分の違いに距離を感じるとともに、えりかは自分の即席の学生服を恥じた。
「今日はありがとうございます」
「いいの、どうせ暇だから」
「助かります。行きましょう、もうすぐ始まるので」
「もうすぐって、何が」
首をかしげるえりかを教え諭すように、アタルは自分たちを横目に通り過ぎていく学生たちに目を向けた。十五分前にえりかが来た時よりも学生の人数が増えているし、スマートフォンや腕時計をしきりに気にしているものが多い。この光景には見覚えがある。
「授業?」
「そうです」
「学生の授業に付き合えって?」
「その恰好ならバレないと思いますよ。上手に擬態できています」
「……」
どうしよう、褒められている気がしない。あんなに心配していたはずなのに、アタルの言葉には全く安堵を覚えない。
「ご不満でしたか。すみません。俺のために貴重な時間を割いてくださりありがとうございました。それでは」
「わかった、付き合うってば。どうせ帰ってもすることないし」
往来へと一歩踏み出そうとするアタルをえりかは必死でつなぎとめた。
「就職活動は?あなた今無職でしょう」
「あんたさぁ、あたしにどうしてほしいの。本当に帰るわよ」
「いや、嬉しいです」
アタルの声にはほんの少しはにかみが混じっていたような気がする。それは憶測の域を出ないまま、アタルの律した声にかき消されてしまった。
「教室は奥の七号館なのでそろそろ行きましょう」
そう言ってアタルは掴まれたままの右手をぐっと引っ張った。

三〇〇人ほど収容できそうな大教室の、黒板に向かって左側前方三列目の席にアタルは腰を落とした。コの字型に席が埋まっているのはなんとも懐かしい光景だ。目を細めたえりかにアタルは「年季が入っていますね」と言い放ち、すかさずえりかの左手が飛んだ。飛んだだけに終わった。想定済みだと言わんばかりの彼のすまし顔がいけ好かない。
「いつも一緒に授業を受ける友達いないの?」
「いませんね」
あっさり言い放つアタルに、寂しさの欠片は微量も感じられない。
「それ不便じゃない?」
「俺だって必要な時には声をかけますよ。声をかけられることの方が多いですけどね」
特にテスト前には、と付け足したのを聞いたえりかは罪悪感を覚えた。単位を落とすような真似はしなかったものの、どちらかといえばえりかも声をかける側の学生だった。
「自分のことだけやっていられたらいいんですけど。なかなかそうもいきませんね、学生生活」
「あんたも大変ね」
「何も俺だけでなく、全てにおいてそうだと思いますけどね。大学ここにいるとその意識が薄れそうになるけど」
アタルはそう言って教室を見渡した。間もなく授業が始まるというのに、荷物を解かぬまま爆笑する者たち。イヤホンで外界との接続を遮断し机に臥す者。誰に見せるつもりなのか、人前で堂々と化粧を施す者。その景色からカーテンを閉めるように、アタルは長いまつ毛を伏せた。
「レジュメを取りに行ってきますね」
「部外者のあたしがもらっても大丈夫かな」
「いまさら何を心配してるんですか。それにこの人数で不足するわけないでしょう」
愚問だとでも言うように、アタルはわざとらしい溜息を吐いた。結局途中入室者がいたところで、コの字型の均衡が崩れることはなかった。

アタルがえりかに聞かせたのは『経済学基礎論』という、文学部生だった当時なら避けたであろう講義。一瞬でも社会人を経験した今だからこそ興味をそそられる内容だった。
講義は「経済学は『社会の医者である』と言いますが」の口上から始まった。
「この講義で僕は再三言ってますけど、そんなきれいごと言ってないで学生諸君は自分の利益のことを考えなさい」
講師の身もふたもない台詞に面食らいつつ、えりかの頭に『実学』という言葉がよぎった。ゼミの担当教授が強調していた『文学は虚学だ』のフレーズがよみがえる。教授は自嘲気味に、しかしどこか眼光をギラギラと輝かせて学生たちに説いていた。
『あなた方が様々な文学に触れ、「自分の人生をどう生きるべきか」考察して初めて実学となりうるのです。わたくしはあなた方に期待していますよ。文学を虚学なんて呼ばせないくらいの気概をね』
「経済学は『人間は自分の利益のために動く』という考えがベースにあります。自分の儲けを上げるために社会の動向を分析して考える。そのためにあなた方は経済学の中にある現象や法則を大学で学ぶのです」
要点は以上とでもいうように講師は語勢を失速させ、「それでは前回の続き、レジュメ三ページ二十四のスライドから」と作業的に授業に入った。
下世話な話だとえりかは顔をしかめたが、講師の言葉によって心に顕現したうしろめたさの正体にも気づいていた。「自分の人生をどう生きるか」の命題に愚直に向き合った結果のえりかの現在は、この講師に、ゼミの恩師にはどう映るだろうか。
その回答は九十分の講義の最後に待っていた。
「『自分とは何者か』などと考えている暇があったら自分の付加価値を上げなさい。己を商品としてこの社会に売り込んでいく方法を模索しなさい。それがキャリアデザインと呼ばれているものです。そうしないとこの先苦労しますよ」
そういえば、就職活動が本格化する直前、学部の主任教授は何と言っていたか──えりかはレジュメの余白に書き留める。
「私になる・・ではなく私である・・・を知る」
久しく文字を書くことをしなかった自身の悪筆が、業火のようにえりかの目に焼き付いてしばらく離れなかった。

講義が終わるや否や、瞬く間に騒々しさを取り戻す教室。アタルは特に感想を求めることはせず、黙々と身支度を整えている。連れてきたのはそっちのくせに。
「ねえ──」
「やっぱり蓮実くんだ!」
アタルの意図を探る声は第三者によって遮られた。声の主は強かともお行儀が良さそうとも、どちらでも取れるピンクレッドの唇の女子学生。ミルクティーベージュの緩いカールが、Vネックから覗く鎖骨の上で揺れている。そこまでの情報を得るとえりかは机上の片づけに勤しみながら、二人の動向に聞き耳を立てた。
「どうも」
「蓮実くんもこの授業サイリなの?意外!特待生でしょ、大丈夫なの?」
サイリ……再履修のこと?特待生ってどういうこと?尋ねたくなるのを押さえつつ、えりかは息を殺してアタルの言葉の続きを待つ。
「俺は一年の時に取ったよ。今日は潜りに来ただけ」
「潜りとか偉すぎ!なんで?あ、もしかして」
居心地の悪い視線が向けられていることくらい瞬時に察した。黙っていても不自然なので、観念して女子学生の方に振り返って会釈する。
「こんにちは」
咄嗟の笑顔を取り繕うのには慣れっこだ。彼女の品定めをする目線にも不快の色を出さずにいられるのは、メイド時代の経験値のおかげだ。とはいえ色が消えるわけではないけれど。視界の端でアタルが小さく肩を落とすのが見える。それだけで、心に立ち込めた霧が少しずつ晴れていく気がした。
「同じ学年じゃないよね?後輩……にしては大人っぽいけど」
大人っぽい。若干のとげを交えた声にえりかの背筋が反応する。困り顔の彼女は、口ではアタルに問いかけつつ目はえりかを捉えている。
さて、どうしよう?どう反応したら正解なのだろう?ここで視線を外してアタルに助けを求めるのは負けを認めるのと同じことだ。
他大の友達です。それが一番無難だし、あながち嘘ではない。これなら彼女にもアタルにも誠実な回答だ。うん、そうしよう。えりかが口を開きかけたとき、彼の春雷のような声が遮った。
「俺の彼女」
「えっ」
「ウソ⁉」
擬態を忘れてつい出たえりかの驚嘆は、それ以上に大きい女子学生の声にかき消される。驚く彼女の一瞬の隙をついて、アタルがえりかに目配せをして何かを訴えた。その視線の意図を読み取ったえりかは、彼女の関心が向く前に彼の要求する役柄を纏うことができた。
「本当に?」
女子学生の隠しきれていない猜疑の目に、えりかは内気な女性の曖昧な笑みを返す。普段とは乖離した自分の姿に驚きつつ、その演技力に我ながら満足した。
「そういうことだから。行こう、えりか」
二人を見比べる女を余所に、アタルはえりかの顔を覗き込むように首をかしげた──これは。
合格。えりかは心の中で呟くと、差し出された彼の手を取った。

二人は手をつないだまま七号館を出た。えりかはシャイな彼女の仮面を外すタイミングを掴めないままでいる。監督であるアタルからカットの声がかからないのだから仕方ない。
「あの子、たぶん広めるよ」
「広まったところで俺に害はありませんけど」
「そうね、アタルには友達がいないものね」
「友人くらいいますよ。常日頃から一緒にいる必要がないだけです」
「信頼しているのね、その人たちのこと」
アタルの友人とはどんな人物なのだろう。アタルは自ら動くタイプはないから、正反対な性格だったりするのかもしれない。
「信頼、か」
初めて聞く単語のように、アタルはその言葉の響きを何度も噛みしめる。後味はどことなく苦しそうだった。
「それはごく一方的な感情ですよ。俺が勝手に寄り掛かっているだけだ」
「そんなことな」
「じゃあえりかさんはどうなのですか?」
「え?」
「俺が勝手に彼女役を押し付けましたけど、……」
そこまで言いかけてアタルは押し黙った。彼にしては珍しい躊躇の色。なんだ、アタルなりに一応気にしていたのか。引っ込み思案な彼女から解放されたえりかは、実が弾けるような笑みを浮かべてみせた。
「あれくらいしないとああいうタイプの子は撒けないよ。むしろいい判断だったと思うわ」
「まあ俺が蒔いた種なんですけどね」
蒔いた種?解説を求めるえりかにアタルはわざとらしい嘆息を洩らす。
「えりかさんは想像力だけでなく記憶力までも欠けているのですか?」
彼の呆れ声を振り払った手で頭をつつきながら、えりかは思い出す──
『蓮実くんもこの授業再履なの?意外!特待生でしょ、大丈夫なの?』
『俺は一年の時に取ったよ。今日は潜りに来ただけ』
アタルがわざわざ取る必要もない授業にえりかを巻き込んだ理由……。
「もしかして、あの子に見つかることを想定していたの」
「正解です。それだけじゃないけど」
左手と右手を少しずらした乾いた拍手。それに合わせてえりかの鼓動が次第に高鳴っていく。昂ぶる内奥の動揺を宥めるべくえりかは思考を整理する。
「……あたしを試していたってこと?」
「そうですね。正確に言うと俺とえりかさんの現在地かな」
俺とえりかさんの。わざわざ並列にしたアタルの意図は。矢継ぎ早になりそうなのをこらえ、えりかは言葉の続きを待つ。
「答え合わせをしましょう。俺が一年の講義を聞きに行った理由は原点に戻りたかったからだ」
「原点?」
「俺が経済学を志した理由ですよ」
「さっき特待生だからって……」
「それも理由の一つですね。施設出身の俺にとって、奨学金がなければ大学進学は夢のまた夢でしたから。でも、興味のないことに金なんか出せないでしょう」
夢のまた夢。アタルにしては随分詩的な表現だ。憂いすらも覆い隠すアタルの黒い瞳に憧憬の色が浮かんだのを、えりかは確かに見た。
「その原点はいつだったの」
「中学だったかな。インフレとデフレという単語を知った時ですね。経済は好況と不況を繰り返す。それはつまり、」
「幸福と不幸は交互に訪れる、と」
えりかの返答を聞いたアタルの口元がわずかに緩む。
「俺だけが不幸なのではなく、この世界の仕組み自体がそうなっていたと分かった時、俺は救われた気持ちになった。……あまりにも恣意的な解釈なのは自覚しています」
アタルの言う通り、この世界の仕組みこそが不幸を招いているのなら、それは──
「保障された完全無欠の幸福を手に入れたいなら、人は多分……死ぬしかない」
きっとこれが人類の編み出した、文学や経済学といった全ての学問の帰結なのだ。あるいは学者たちが必死で隠し通してきた真理なのかもしれない。
「……ははっ」
アタルの額に添えた手の隙間から掠れた笑いが漏れた。こぼれた吐息の温度をえりかが確かめる間もなく、その唇が再び引き締まる。
「死ぬしかない、か。文学的ですね」
掌の仮面が外れたアタルは穏やかな顔をしていた。初めて見る──違う、一度だけある。出会った日の夜、えりかの背中を撫でた手の感触に似た柔らかさだ。
「以前、あなたに確約された幸福の中で悩んでいればいいと言ったこと、撤回します。すみませんでした」
「それは別に……」
アタルは腰を折って頭を下げた。気にしてないといえば嘘になるけれど、深々と謝られることでもない。しかし、彼がえりかに求めていたのは謝罪に対する返答ではなかった。
「一つ質問させてください」
顔を上げたアタルの静かな声が、えりかの影を踏む。
「えりかさんの求める幸福とは何ですか?あなただって死にたくはないでしょう」
「あたしは……」
あたしは今、どこへ向かっているのだろう?
『保障された完全無欠の幸福を手に入れたいなら、人は多分……死ぬしかない』
先のつい出た言葉が思考の検閲を通さず無意識に発したものならば、それは内に向かうものだ。
固定化も確約も完全無欠も求めていないなら、つまり──
「特に、ない。だってあたし今生活できているし。完全に自力とは言えないけど……。だからこそ、これといって欲しいものはない」
「そうですか」
「逃げているだけかな」
「えりかさんが今満たされているなら、それでいいんじゃないですか。俺は納得しましたけどね。だから俺の彼女と言われても嫌な顔をしなかったんだって」
「えっ」
「俺のことは好きでも嫌いでもないけど、一緒にいて苦ではないから彼女役を引き受けた。違う?」
「……」
えりかには返せる言葉がなかった。ここで素直に肯定してしまったらアタルを傷つけることになるのではないか。そんな疑問がえりかの腹の底で渦を巻く。
「もし、俺のことを慮っているならそれは杞憂ですよ。俺も悪く言えば利用しているになるのかもしれない。でも……、えりかさんの言葉を借りるなら『信頼している』に近いのかな」
「それは告白なの?」
「……まだ信じられない?やっぱりあなたは用心深い人ですね」
「あんたが臆病な真似するからでしょう」
繊細な意地っ張り。それがアタルの正体だ。深層までお見通しのえりかに、アタルは観念したようにあえなく微笑んだ。
「……じゃあ、お望み通り素直に言ってあげますよ。俺は今、えりかさんと一緒にいたい。これで満足?」
「最初からそう言えばよかったのに」
「うるさい」
えりかの念押しを吸いこむようにアタルの唇が重なる。意外にもそれは、触れるか触れないかの躊躇いが感じられるキス。唇に降り注ぐ彼の吐息は荒かった。それは興奮しているかというより、自身を落ち着けるような調子のものだった。
えりかの唇の感触と体温を確かめている、重なっては離れていくそれが無意識的なものだとしても、えりかを焦らすのには十分だった。えりかは彼の腰を抱き寄せ不器用な唇を迎えに行く。唇をふさいだ瞬間、えりかを掴む彼の腕がびくりと揺れた。
「下手でしたか」
アタルの声で我に返る。目の前には手の甲で唇を拭う、泰然自若のヴェールを脱いだ硝子細工の彼がいた。
「……身体を資本にしている割には?」
「はは、確かにそれもそうですね」
以前顔をしかめていたのが嘘のように、アタルは晴れやかな表情で笑い飛ばしてみせた。
「好きな相手だと緊張するものなのでしょうか」
「あたしが下手だったからかもね。……巧くなるまで面倒見てよ」
「それがえりかさんの現在地?」
「そうね。思う存分寄り掛からせてもらう」
「身を預けてきたあなたは重そうですね」
「それはアタルもでしょ」
柄にもないはにかみが二人のあわいを満たしていく。凪が過ぎ去った後、どちらから唇を重ねたのかは思い出せない。ただ、今はここにいていいのだと、それぞれに輪郭を与え合う深い口づけだったことを覚えている。

(終)


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