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社会科学研究の将来 #2 ~組織論・イノベーション論分野を中核として~

前回、実証を重視しすぎることによって、「実証」が半ば目的化していないかという危惧について書きました。実証を重視しすぎることが、「実証」を目的化してしまい、その結果、組織論やイノベーション論を中核とする社会科学の分野において理論形成につながる論考が軽視されているのではないかという危惧もあります。

結果としての理論の軽視

理論と実証の関係には、「理論」から導かれる「仮説」を検証(「実証」)する演繹的な関係と実態(「実証」)から「仮説」を導き出して「理論」を構築する帰納的な関係があります。演繹的実証研究は「理論」⇒「仮説」⇒「実証」であり、帰納的実証研究は「実証」⇒「仮説」⇒「理論」と言うことになります。

もちろん、今「仮説」と表現している内容は、検証仮説の形式になっていなくても、確認したい傾向の指摘であったり、見いだした法則的傾向であったり、形式は様々でしょう。もちろん、「理論」と呼んでいるものも、自然科学のような体系的な理論である必要はないと思います。社会現象を解釈する枠組みや基本的考え方なども含めて良いと思います。

さて、実証研究を論文の形式で発表する場合、誰もが「仮説」⇒「実証」あるいは「実証」⇒「仮説」について記述します。当然、「理論」⇒「仮説」あるいは「仮説」⇒「理論」も記述しようとします。実証を重視しすぎる場合の問題は、「理論」⇔「仮説」関係よりも「仮説」⇔「実証」関係を重視して研究が進められてしまうことです。「理論」⇔「仮説」関係を軽視しているわけではないでしょうが、研究者への「実証」しなければいけないという制約が「仮説」⇔「実証」関係に焦点を合わせた研究を導いているように思えます。

結果として、論文として発表される研究成果では、研究者の大きな研究目的としての理論の構築や再構築についての記述がなおざりになったり、論文水準での「理論」⇔「仮説」関係の論考がおざなりになってしまったりしているように思われます。

大きな風呂敷と小さな風呂敷

社会科学における理論は社会現象を解釈したり理解するための「枠組み」や「考え方」などであり、そうした理論を構成する法則などは「傾向性」(社会現象の共時的な集合論的関係)や「帰趨性」(社会現象の経時的な集合論的関係)のようなものとなります。私はこの「枠組み」や「考え方」を[大きな風呂敷]と呼び、「傾向性」や「帰趨性」を[小さな風呂敷]と読んでいます。社会科学の研究者は自らが追求する大きな風呂敷を広げ大きな風呂敷に包むパーツとして論文単位の個別研究で追求する小さな風呂敷を広げ小さな風呂敷で包み込める「仮説」⇔「実証」関係を研究すべき、と私は考えています。

例えば、「環境に応じて適切な組織構造は異なる」というコンティンジェンシー理論は著作水準の研究の主テーマにできるとしても、論文水準の研究の主テーマには大きすぎます。論文水準であれば、「見込生産・大量生産の工場の組織構造は安定したルーティンがつなげられた機械的組織が良い」というような傾向についてのテーマが適切な大きさだと思います。この例で言えば、「環境に応じて適切な組織構造は異なる」についての研究が大きな風呂敷で、「見込生産・大量生産の工場の組織構造は安定したルーティンがつなげられた機械的組織が良い」についての研究が小さな風呂敷ということになります。

言うまでもなく、大きな風呂敷を前提にして小さな風呂敷があります。ですから、たとえ論文であっても大きな風呂敷への言及は必要でしょう。しかしながら、最近の論文は大きな風呂敷に言及することなく、いきなり小さな風呂敷に言及しようとするものが多いように感じます。その上、「仮説」⇔「実証」について研究し、論考することに重点を置くあまり、研究している「仮説」⇔「実証」を包みやすい小さな理論を持ち込んだり、その場しのぎの小さな風呂敷を広げることになっているように思います。

「仮説」⇔「実証」を包むことができるような風呂敷を設定するという考え方をすべて否定するつもりはありません。「実証」のために入手できるデータに応じた形式でしか「仮説」は記述できませんから、取り扱える小さな風呂敷は「実証」可能性に応じた「仮説」⇔「検証」を包めるものでなければなりません。それでも、研究する思考の順序としては大きな風呂敷から入っていくべきではないでしょうか。論文で提示される小さな風呂敷は実証に引きずられるのではなく、大きな風呂敷を前提にするべきだと、私は考えています。

理論構築に向かわない実証研究

大きな風呂敷[枠組み]を広げ、それに資する小さな風呂敷[照準を合わせた傾向性や帰趨性]を広げ、観測される社会現象に応じた仮説が提示され、実証される、という流れが演繹的な実証研究です。大きな風呂敷[枠組み]を広げ、観測された社会現象から発見的な仮説が提示され、その発見的仮説を包み込みながら大きな風呂敷[枠組み]の構築に資する小さな風呂敷[傾向性や帰趨性]を提案する、という流れが帰納的な実証研究です。発見された仮説から構築できる小さな風呂敷[傾向性や帰趨性]が既存の大きな風呂敷[枠組み]の構築に寄与しないものであれば、新たな大きな風呂敷[枠組み]の構築を試みる、という流れももちろん帰納的な実証研究になります。

実証を重視しすぎる社会や学会の風潮は、理論構築に資する演繹的な実証研究や帰納的な実証研究を評価することとは異なっているように思います。「実証」してなければいけない、「実証」してあれば良い、「事実」というエビデンスがなければいけない、「事実」というエビデンスがあれば良い、という「単純な実証屋」を評価する風潮のように思います。

「理論」を構築することを目的として、その目的達成の手段として「実証」があるはずです。何に資するかはわからないけれども、データや情報から実証できることがあるので実証しました、ということではもはや「実証」ではなくデータや情報を処理する練習に過ぎません。そのような練習は学習プロセスにおいて評価されるとしても、理論構築の一翼を担う研究者の研究活動としては評価される対象ではないでしょう。

既存理論の修正も含めて、理論構築に向かわず、データや情報の処理結果を論文として発表し、それが業績として評価される。「実証」という甘美な響きにゆがめられた実証至上主義は、大きな風呂敷に相当する理論の構築や再構築をおざなりにさせ、ひいては社会現象を理解して政策的提言をする私たちの能力を低下させるのではないかと危惧しています。


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