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メガネ。(1)

職場の部下がちょっとしたトラブルを起こし、その後始末で思いのほか帰宅が遅くなった日、電車の中でいつものようにドアの近くに立ち、ガラス越しに外を眺める。
一面をインクで塗りつぶしたような闇の中には、雑居ビルの屋上にある派手なネオンサイン、学習塾の窓から放たれる白々とした明かり、マンションのあちこちに灯る暖色系の明かりなど、数え切れない明かりが浮かび、それらは電車のカタンカタンという小気味よい音とともに流れていく。
一方、電車の中の人々は、外の世界にはまるで興味がない、といった様子で無表情にスマートフォンを眺めるか、あるいはイヤフォンを耳に突っ込んだまま目を閉じている。

周囲にはいくらでも人がいるというのに、誰もがお互いの視界の中には入っていくことはない。見えてはいても、見てはいない。これが今どきのエチケットなのだろう。
    *     *     *
それは、バブルという束の間の夢がとっくに弾け飛んでしまった現実を、未だ多くの人々が受け入れられなかった頃の話だ。
僕は証券会社に勤める彼女と飲みに行く約束をしていた。つい2週間ほど前に友人の紹介で知り合ったばかりで、二人だけで会うのは初めて、いわば初デートだった。
地下街で待ち合わせ、予約していた小洒落た雰囲気の居酒屋へ入っていった。
掘りごたつ式の席に着き、テーブルをはさんでお互いに向き合うと、僕は彼女の表情がこの前と少しばかり違っていることに気がついた。
そう、彼女はメガネをかけていたのだ。
ほのかにゴールドが入った、細いメタル・フレーム。
「あ、今日はメガネをかけてるんだ、視力、よくないの?」と、僕はおしぼりの入ったビニール袋をびりびりと破りながら訊いた。
「ええ、私、すごい近視なの。メガネをかけていないと、その辺りの字だってほとんど見えないのよ」
彼女はテーブルの端に立てかけられていた「お品書」を指さしながら言った。
白くて細いその指がとても印象的で、僕は、コンマ5秒くらい見とれてしまった。
「へぇー、それは何かと大変だろうね」
その頃の僕は、日常生活にはまだ十分すぎる視力があり、その見えないという「世界」が、いったいどんな様子なのか、まったく想像もつかなかった。
「でもね、仕事のとき以外は、メガネをほとんどかけないのよ」
彼女は使い終わったおしぼりを丁寧にたたみながら言った。
「どうして?」
「メガネを外していると周囲がぼんやりとしか見えないでしょ、それがいいの。街を歩いていたって、すれ違う人の顔もわからないし、ばったり会社の人に会っても気づかないでしょ」
メガネ越しに僕のほうを向いて話す彼女はなぜかとても楽しそうだった。

「でも、それはそれでけっこう困ると思うけど?」と僕は言った。
「いや、そのほうがいいの。だって、会社の外に出てまで上司とかの顔は見たくないじゃない。それがメガネをかけていて中途半端に見えたりすると、ああ、一応愛想笑いをしながら挨拶しとかなきゃいけないかな、って思うでしょう。私、そんなつまらないことに気を遣うのが嫌なの」
「確かにそれは言えてるね。しかし向こうは、あ、アイツだ、って気づいているかもしれないよ」
「それはそれで構わないわ。もし、向こうが、挨拶もせずに何てヤツだ、と思ったとしても、私はそんなこと知らないわけでしょ。だから、いいの。世の中って、結構そんなこと、多いんじゃない?」
可愛らしい顔立ちには似合わず、結構鼻っ柱の強いところがあるのかな、と思いながらも、未だ多くの人が浮ついた気分でいる中、ある意味、覚悟を決めているようなところは尊敬したくなった。

「それじゃ、視力がよくないのも、君にとっては便利なところもあるんだ」
「ええ、そうなの。だからあなたも夜、ベッドに入って薄暗い所で本を読んで視力を悪くしたらいいかもよ、フフッ……」
そう言って彼女はメガネ越しに僕を見て微笑んだ。

それから僕は少しためらい、おそるおそる訊いた。
「―ということはだよ、今、君がメガネをかけているというのは、少なくとも僕の顔を見るのが嫌じゃない、っていう理解でいいのかな?」
彼女はこっくりと頷く。
「あぁーほっとしたなぁー」

少し芝居がかって大仰にいう僕を見て、彼女は手を叩きながら大笑いした。(続)

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