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「ぽんぽこ24」と分散型SNS、あるいは月ノ美兎という特異点について

最近は「Twitter」の終末に接して御多分に漏れず「分散型SNS」のことを調べていて、なかなか難しい概念だなと頭を悩ませていたのだが、ふと、これは「ぽんぽこ24」に近いのではないか? と思ったのだった。

8月20日夜に本年度版が無事終幕した「ぽんぽこ24」は、個人勢VTuberの「甲賀流忍者ぽんぽこ」と「オシャレになりたい!ピーナッツくん」のコンビ「ぽこピー」による2018年から開催されている名物企画で、今回でVol.7を数える。黎明期からのコネクションを活かして個人勢からにじさんじやホロライブなどの大手企業勢まで実に多種多様なVTuber界のゲストを迎えて行われる、24時間ぶっ通しの生放送プログラムだ。

およそ1時間に1本、毎回違ったゲストを迎えて繰り出される企画の多様さは圧巻のひと言で、ゲスト選定・声かけの段階から(日々の活動もこなしつつ)2人だけで行っているというのだから驚きだ(なお、近年は3D企画やVRライブなどさらなるスケールアップを図るべく、レンタルスタジオを借りて専門スタッフの協力も仰ぐ形をとっている)。

さらに特筆すべきは企画の合間に「CM枠」を設けている点だ。事前の審査を通過したVTuber(とその隣接領域)のクリエイターが、数十秒間の動画で自身の活動についてプレゼンテーションすることができる。これにより普段は散在している「野生」のクリエイターたちの優れた技術力が明らかになり、中には「ぽこピー」のプロジェクト(VR遊園地「ぽこピーランド」の建設など)にジョインすることになったケースもある。

こうして書くと人気のある活動者が零細の活動者をフックアップしているという構図に見えるかもしれないが、あくまで2人の姿勢はフラットである。何しろ「ぽこピー」の2人は現在に至るまで動画制作――素材の調達・効果音やBGMの合成・編集・サムネイル作成・アップロードなどの一連の工程――を一環して外部に依存することなく行っており(動画周りすべてをぽんぽこ、サムネイル制作をピーナッツくんという分担があるとのこと)、ピーナッツくんは本格的な音楽活動まで行っている(ジャンルとしてはラップミュージックで、作詞は本人が手がける。トラックメイカーやMV制作者には、元々「ぽこピー」のファンだった人たちが多く参加している)。

「ぽんぽこ24」でも、OBSと呼ばれるソフトを使ったリアルタイムの画面構成やキュー出しは未だにラップトップPCを使って2人が手作業で行っており(ゆえに機材トラブルなども付き物である)、「まずは自分たちでやりきる」というその情熱に焚きつけられるようにして、数多のクリエイターたちが群雄割拠する「クリエイティブの祭典」ともなっているのだ。

では、これがどのようにして分散型SNSと似ているというのか。

分散型SNSの世界観は、通常のSNSを「中央集権型」と捉えるとわかりやすい。運営企業が巨大なサーバーで全ユーザーのデータを一元管理するので、突然「〇〇年より以前の画像データが消去される」といったことが運営企業の一存で起こりうる。

これに対して分散型SNSの世界観は、まずサーバーが複数並立している。各サーバーの規模はまちまちだが、同じプロトコル(通信のための規約)を共有していれば相互に通信する(=いわゆる「フォロー」や「リプライ」を行う)ことが可能だ。このことはEメールにおいて「SMTP」や「POP3」といったプロトコルを共有していれば、「@gmail.com」と「@live.jp」が通信可能になる、という比喩で説明されることもある。

最近では「Mastodon」や「Bluesky」など様々な分散型SNSの名前を耳にする機会も増えているが、前者は「ActivityPub」、後者は「AT Protocol」というプロトコルに支えられているために、それぞれのSNSで作ったアカウントが相互にフォローし合うことはできない。

一方、「Mastodon」のアカウント名は「(任意のID).mstdn.jp」や「(任意のID).fedibird.com」といった形で表現されるが、この「IDの後ろに続く文字列」が所属サーバーを表しており、それぞれに作られたアカウントは相互フォローの関係になれるのである。「Masotodon」内であれば別のサーバーに「引っ越す」際に、フォロワーやこれまでの投稿などのデータを引き継ぐこともできる。

なお、サーバーごとにはタイムラインのインターフェースや使えるスタンプの種類などに違いがある他、発言に「問題がある」と判断される基準なども運営者の裁量によって異なっている。コミュニティとしての機能やそこに形成される文化という面で、運営者のカラーが出ると言える。

「ぽんぽこ24」が、ギーク寄りの活動をしている人もタレント的な活動をしている人も並列に紹介し(結果としてVTuberシーン全体と比較するとギーク寄りの人が目立つ構成になっている)、また「ぽこピー」の2人の熱に当てられるようにして「全部自分でやる」という精神が参加者の間に伝播しやすい場になっていることなどは、まさに分散型SNSの、各サーバーに固有のコミュニティ文化に相当するものだと言えるだろう。

さて、VTuberの世界観というのは、基本的にはこうした分散型SNSの世界観に似ていると言える。いわばお互いに「VTuberである」ということが、「プロトコル」に当たるのである。

具体的には、「お互いが3Dの身体を持っていれば、3Dを使った企画が可能になる」といった例を思い浮かべるとわかりやすい。実際には2Dと3Dが同じ画面に構成されたりなどもするので、だいぶファジーではあるのだが。逆に言うとこのファジーさ――丸描いてちょん、の落書きじみた2Dのイラストでも「それが私の“本体”です」と言い張りさえすればVTuberと見なされうる――こそがVTuberという世界観の魅力だと言えるだろう。個人勢の「ぽこピー」が、ANYCOLOR株式会社という企業所属の月ノ美兎や剣持刀也をゲストに迎えることができるのは、ひとえにこの「VTuberというプロトコル」の融通無碍さによるものだ。

ここまで言えばおわかりの通り、「企業勢」は「中央集権型」のSNSに対応する。ただし、企業に所属していても個々の活動者(「月ノ美兎」「剣持刀也」など)は個人勢や他の企業に所属するVTuberとも原理的にはコラボ配信をすることが可能であり、VTuber界全体としてはやはり「分散型」的だ。「中央集権型」のSNS的だというのは、あくまで運営企業と視聴者の立場から見た場合の話である。

「箱推し」という言葉があるように、「にじさんじ」や「ホロライブ」といった企業運営のグループ名というのは単に活動者の所属を表すだけでなく、ある種のコミュニティの名前として機能している。運営企業としては「箱」のファンになってもらうことで消費活動を促し、たとえばクリスマスに幕張メッセをぶち抜いて祝祭の場を演出するといった、資本という「力」をコミュニティの外にもアピールすることが目指されるのである(ANYCOLOR社の掲げる、「エンタメ経済圏を加速させる」とはそういうことだ)。

また、分散型SNSの世界観ではデータを引き継いで別のサーバーに「引っ越す」ことが可能なわけだが、企業所属のVTuberがデータ(キャラクターとしての「身体」や名前、YouTubeやSNSのアカウント)を引き継いだまま別企業に移籍したり個人勢になったりといったケースは非常に少ない。

分散型SNSを支える仕組みのひとつに「スマートコントラクト」というものがあり、これはデータの中に契約を電子的に埋め込むことでサーバー管理者による承認を省略できるというものだが、VTuber自身と運営企業との契約はあくまで人と人との間で行われるものなので、保有しておけばどこかで役立つかもしれないキャラクターIPを個人に譲渡するという判断を、面と向かって運営企業が下すことは難しいのだろう。

ここでいったん個人的な話を挟ませてほしい。

自分は音楽リスナーたちの間で話題になっていたことからピーナッツくんの楽曲を聴き始め、VTuberという世界観へのハードルが下がったところで月ノ美兎のゲーム実況を視聴し、初めて長時間配信という文化に触れたという経緯がある。月ノ美兎が得意とするのはノベルゲームやアドベンチャーパートを含むRPGなどで、もともとノベルゲームに親しんでいた自分からするとその画面構成――背景+立ち絵+テキストボックスの、さらに手前に月ノ美兎のアバターがいる――は親しみやすいものだった。

月ノ美兎自身、周知のように「VTuberという存在」に対してメタ的なポジション取りを行うトーク術に長けている人なので、ノベルゲームに親しんでいるとは言っても、いわゆる「ループもの」だったりメタフィクション性の強いものが好きな(あるいは、特にそういう設定がなくてもそういうアクロバティックな読みをしてしまう)私にとっては、彼女のゲーム配信は波長の合いやすいコンテンツだった。

しかし、時は下って「にじさんじ」という「箱」全体に目を配るようになると、そうした月ノ美兎の立ち位置は原点にして異端というか、むしろぽこピーなどと近い立ち位置だと思うようになった。

月ノ美兎は雑談配信などで、かつて映像関連のプロになることを志向していたことを匂わせている(テレビドラマの撮影現場をアシスタント的な立場で見学したエピソードなどがある)。実際に昨秋、長期の活動休止を挟んでからの活動再開以降は、動画メインの活動にシフトしている。

そんな彼女の動画は、率直に言うとその生配信と比べて、あまり波長が合わないと感じる。

これは内容やネタの選択以上に、動画制作というプロセス――カメラで撮影したり、フリーサイトから収集したりしてきた素材を切り貼りして、時間をかけて制作者である「月ノ美兎」自身から切り離していくプロセス――によって、(かつての自分とシンクロしていた)彼女特有のメタ認識が、自分から見て相対的にずれたところに移動したということなのではないかと思う。

ただ、これは単純に「動画より生配信のほうが好き」という話でもない。現に「ぽこピー」の動画は大好きなのだから。

自分は動画にしろ生配信にしろ、「ある決まった時間・空間フォーマットに則った事象の切り取り方」として捉えているところがある。そして、どのように事象を切り取るかは、その制作者自身のパーソナリティ(人間性)に100パーセントは依存しない気がするのだ。

「事象の切り取り方」は、パーソナリティと同等かそれ以上に、配信に使用しているソフトウェアなどによって制約される面が大きいと思う。同じ「パーソナリティ」を持った人でも、動画編集ソフトに向き合うのと生配信用ソフトに向き合うのとでは「時間・空間の切り取り方」が異なるだろうということだ。月ノ美兎の例で言えば、「動画的」な「事象の切り取り方」をするタイプの人が「生配信」を行っているというある種のズレに、新しい種類の面白さを自分は見出したのだった。

自分にとって「にじさんじ」という「箱」は、まさに「事象の切り取り方」の集合体として捉えられるもので、複数の異なる「事象の切り取り方」が「箱」というひとつのパッケージになっている状態、それ自体が面白く感じられる。SNSの例で言えば、誰かの投稿が面白いのではなく、「タイムライン構築」が面白いと感じるようなものだ。

だからこそ基本的には「にじさんじ甲子園」のような、「複数の活動者がそれぞれの視点で決められた期間同じゲームをプレイし、その結果を大きな舞台で競わせる」タイプの企画を中心に愛好しているし、もちろん好ましいと感じるパーソナリティの活動者も中にはいるが、「推し」と言えるほどの人はいない。

VTuberコンテンツの基本的な受容の仕方は「パーソナリティ消費」で、だからこそ動画主体になっても月ノ美兎は「にじさんじ」の顔役であり続けられるのだろう(それまでに視聴者と築いた関係値があるため)。しかし自分のように「パーソナリティ」を重視しない人間にとっては、彼女が未だに大型イベントのキービジュアルの中央に据えられるのには、いささかの違和感を覚えてしまう。

さて、ここでようやく前半話してきた話につながるのだが、月ノ美兎は「ぽこピー」が「ぽんぽこ24」を行っているように、クリエイターたちのコミュニティを組織するポテンシャルを本来持っている人なのではないかと思うのである。企業所属の、「一風変わった、しかし魅力的なパーソナリティを持つタレント」以上のポテンシャルを、である。

言い換えれば、「分散型SNSのサーバー管理者」になるポテンシャルをということだ。「ぽこピー」の活動を見ていると、VTuber動画の企画・撮影・編集といった工程は、他のVTuber――つまり、多種多様な「事象の切り取り方」を持つプレイヤー――を巻き込んでいくという意味において、「ぽんぽこ24」のような「場」を設計するプロセスともパラレルなものであるような気がする。

「ぽこピー」の普段の活動が動画に偏っているため、「ぽんぽこ24」は「ぽこピーの貴重な生配信」のように一見捉えられるかもしれないが、よくあるVTuberの生配信のように既製のゲームをプレイするだけでなく(20個にも及ぶ!)オリジナルの企画を打ち出していることからもわかる通り、実態としては「動画の生撮影」に近いものなのだ。

個人的にはおそらく、彼女の作る動画と波長が合わないことからも、月ノ美兎がサーバーを設立したとして波長が合わない気がするのだが、しかし分散型SNSの世界観において、サーバーがたくさんあったほうがいいのは間違いない。

これはVTuberという分散型SNS的な世界観を守るために、「ぽこピー」に負荷がかかりすぎている現状があるのではないかという問題提起でもある。「ぽこピー」が過剰労働しているのではないか、という話ではなく(彼女たちは実に楽しそうに活動している)、文化的な偏りが現状ではあるのではないかという話だ。

「サーバー管理者」としての資質を持った月ノ美兎という人が、たまたま企業が運営するグループの「1期生」タレントとして世の中に出たということは、VTuber文化にとって、始まりにして特異点だったのではないかと思う。

VTuber史を振り返る際に必ず言われる「黎明期のキズナアイらは動画主体だったが、にじさんじが生配信主体の文化を持ち込んだ」という史観がある。しかしそういう風に「にじさんじ」という企業を主体に考えるべきではおそらくないのだ。

月ノ美兎という、教育機関で映像制作の勉強をしてきた(そして、その才能があった)人が、「動画を作る」ではなく「生配信」を「演者」として行ってヒットしたという偶然こそが、VTuber文化を現在のような形にしたのではないか。

そして、その可能性が月ノ美兎本人ではなく、独自に動画編集のスキルを身につけた「野生」のクリエイターである「ぽんぽこ(ぽこピー)」の活動の中に保存され、VTuber界全体を巻き込んで私たちの目の前にプレゼンテーションされているのが「ぽんぽこ24」なのではないか。

「にじさんじ」を運営するANYCOLOR株式会社は、まさに「株式会社」であるがゆえに、自己成長を果たし続けなければならない。これは言うまでもなく資本主義というシステムの宿命だ。繰り返すように、基本的には「にじさんじファン」に――「VTuberファン」ではなく――なってもらい消費サイクルを活性化させる、「囲い込み」の戦略が基本となる。これは中央集権型のSNS、もっと言えばいわゆるGAFAと呼ばれるプラットフォーム企業の戦略と同じである。

巨大プラットフォームの一極集中支配の問題点がそこかしこで議論されているのと同じ構図が、現在のVTuber業界には起こっている。

なお急いで付け加えておくと、事業統括プロデューサーのインタビューなどから透けて見える所属ライバーやファンに向き合うANYCOLOR社の姿勢自体は、素晴らしいものがあると個人的には感じている。

問題はそうしたANYCOLOR社の姿勢とは無関係に作動する、資本主義それ自体の論理に基づいて「囲い込まれた」視聴者が、「それ以外の選択肢」に目を向ける機会が失われる――「にじさんじファン」になった人が「VTuber文化全体のファン」になることが難しくなっている――ことなのだ。

こうした構図に対するオルタナティブを「ぽんぽこ24」は提示しているし、それは「Twitter→X」のような中央集権型SNSに対する、「Mastodon」や「Bluesky」といった分散型SNSという選択肢の存在とも重なる。「ぽんぽこ24」の今回の成功はこうした意味でも、非常に勇気を与えてくれるものだった。

遠回りに遠回りを重ねたが、「ぽんぽこ24、今年もありがとう!」これがこの記事で一番言いたかったことだ。

そして、こうした構図の中で月ノ美兎という象徴的なプレイヤーがどのような立ち回りを見せるのかというのも、また気になるところなのである(24時間放送の最後に現れ、プラットフォーム資本主義の祝祭たる「にじさんじフェス」の宣伝をして去っていたがゆえに……)。

(2023.8.23追記)

月ノ美兎は今回の「ぽんぽこ24」出演時、「ぽんぽこ24はまだ“上”に行けるよ!」と熱っぽく語っていたことが、「ぽんぽこ」により明かされた(「ぽんぽこ24 vol.7」振り返り配信より、下記動画指定箇所より)。

月ノ美兎は「ぽんぽこ」の動画制作者としてのスキルをリスペクトしている旨をたびたび語っており、動画メインの活動にシフトしてからは技術面の相談にも乗ってもらっているようだ。

動画制作を軸に、その制作の思想が行き届いた「場」の設計を同時に行う。月ノ美兎が、「自分は本来こういうことがやりたい」という思いを「ぽんぽこ24」の中に見ているのではないか……と考えるのは邪推だろうか。

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