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人間版テセウスの船。それは同じ人間でしょうか?

鹿児島で社労士をしています原田です。
今回単なる人工知能と人間って何について考えたことです。

先日の息子との会話です。
私「人工手足、人工内蔵、人工頭脳に置き換わったら、お父さん死なないかも」
息子「人工頭脳になった時点でいらない」
そりゃごもっとも、人工頭脳になった時点で、それは単なる私に似たロボットであり、既に私では無い。


本当に既に私では無いのか?

 会話はそれでいいのですが、後から疑問になってきたことがあります。
「本当に人工頭脳になったら私では無いのか?」

 例えば、既に全て人工的に作った機械の体で脳だけが私の状態だったとします。手足は私の脳が動かしていて、私の意志で会話も行っているのであれば、例えほとんどが機械であっても、全体は「私である」だと言えます。

 ここで、脳を切り離して、私そっくりの思考をする人工知能(AI)に入れ替えた場合に、「切り離した」時点で手足も私が動かしているわけではないし、会話も私の意志で行っているのではないから、これは既に私ではないと言えます。というより、私だった部分が何も無いのですから当たり前です。

 いわゆる「テセウスの船」のパラドックスと同じで、全部のパーツが入れ替わったらそれは同じと言えるかの話ですが、船のような物質であれば、「同じ」である「同じではない」と議論が起こりそうですが、生き物ではそうはいきません。


息子の立場から見たらどうか?

 私の脳が人工知能に入れ替わったことを、息子が知らない場合には、私のそっくりの会話と動作をする「私ではないただのロボット」を私では無いと気付くことはできるのでしょうか?

 元々が既に機械の体となっていたので、外観では分かりません。人工知能も私そっくりに行動や会話も行うので、私だと気付かれる可能性は非常に低くなります。

 つまり私の脳が無いことを気付くまでは、そのロボットは私だったと認識していたであろうと考えられます。


ドラえもんで考えてみよう

 では最初からロボットとして接していた場合にはどうなるのでしょう。

 皆さんご存じの通り、ドラえもんはロボットです。最初からロボットであることは知ってます。
 ドラえもんに搭載されている人工知能は、
・怒り、恐れ、泣く、笑う 等の感情表現を自発的に行える
・時々忘れる
・雰囲気を察知する
という一部にこのようなアルゴリズムをシステム上で構築する必然性が無いようなものまで含まれた超高性能なAIになっています。

 アトムやターミネータの例でお話すると、人間に近い動きと会話をするロボットが、破壊されたり、消失することになったりすると、それを人間と同じように扱っていた場合は、人が亡くなる時と同じような感覚になる場合があります。

 これらは人間が人工知能に置き換わったのではなく、最初からAIプログラムが人間のように動作していたものであったにも関わらず、人は悲哀を感じるのです。


話を人間に戻すと

 それでは私が脳を人工知能に入れ替えた場合に、それを秘匿していたら、周りの人は人間として取り扱うことになるでしょう。

 もっと飛躍させると、脳を別の場所で保管して、そことネットワークをつなぎ、端末とお話ができるようになった・・・という話があったとして、実は、そんなものは無くて、そっくりのAIが対話しているだけとなった場合に、端末で会話している人は、その事実を知ることができないため、嬉々として誰かの意思によって動作しているAIと対話している可能性もありえます。

もしかしたら、そのうちLINEやFacebookのようなリアル系の文書会話系SNSでも、いつのまにか相手がAIになっているかもしれません。

ちょっとしたホラーです。

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