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"完璧主義"を克服したらスラムダンクのエンディングが違って見えた

真面目な母と真面目な父の、とりわけ真面目な部分を真面目に半分ずつ受け継いだ私は、"完璧主義"に思い悩む長い思春期を通過した。

小学生から高校生の頃までバスケットボールに熱中していた自分にとって、スラムダンクはバイブルの一つだったが、最後の試合での桜木花道の背中の怪我と、復帰を目指してのリハビリで終わるエンディングが、どうしても辛くて受け入れられなかった。

"完璧主義"に囚われていた頃、スラムダンクのエンディングは"完璧な絶望"そのものだった。

二度の鬱病を経験し、これではいけないと、自分なりにたくさんの書物を読んで、どうにかこうにか”完璧主義”をいなすことができるようになった時、スラムダンクのエンディングの捉え方も変わっていた。

ここで言う「スラムダンクのエンディング」を簡単に説明

絶対的王者である山王との一戦。会場のほぼ全員が花道ら湘北の負けを予想する中、気迫のこもったプレーで善戦する湘北メンバー。花道は、重要な場面でルーズボール(コートの外に出たボール)を拾う気迫のこもったファインプレーを見せるが、その際に審判席で背中を強打したことで、選手生命に関わる怪我を負う。

倒れた花道を救護するマネージャーの彩子は、心の中で次のように呟く。

…これで終わりっていう程のケガではないはずよ …ただーー ……あの子はわずか4ヶ月で異様なほど急速に力をつけてきた いろんなものを身につけてきた 治療やリハビリにもし時間がかかるなら プレイから長い間離れてしまったら それが失われていくのもまた早い この4ヶ月がまるで夢だったかのように………

「君の異変には気づいていたが、試合の中でどんどん成長していく姿をこのまま見ていたくて、代えたくないと思ってしまった、あと少しで一生後悔するところだった」、と懺悔する安西監督に対し、花道は、「オヤジの栄光時代はいつだ?」「オレは今なんだよ」と告げてコートに戻る。

このプレー続行が直接の原因かはわからないが、試合後、花道がもう一度バスケットをするためにリハビリに励むシーンで、ストーリーは終わる。

エンディングへの思い(変化前)と完璧主義

かつての自分には、怪我をしたことで、花道の4ヶ月の急成長がすべて無駄になってしまったように感じられて仕方なかった。それこそまるで夢だったかのように失われていくんじゃないかって思った。彩子の呟きが胸にのしかかった。

そう自分に強く思わせた理由が”完璧主義”だった。

当時、常に一直線に成長曲線を描くことが唯一の正解のように思えてしまっていた。もし途中で躓いてしまったら、一度も躓かなかった場合の最終形には絶対にたどり着けないというイメージを潜在意識レベルで強く持っていた。何かトラブルがあった時点で完璧な姿からその分だけ少しずつ目減りしていく、「成長」というものをそんなふうに捉えていた。

そして、そんな自分にとって、鬱病になって、長いこと心が動かなくなるという経験は、絶望以外の何物でもなかった。

学校の部活動でよく耳にする「三日休むと取り戻すのに一週間以上かかる」というような言説も、絶望に拍車をかけた。(”半年休んだら、いったいどれだけのストックが、消えてなくなってしまうのだろう?”)

完璧主義の構造的欠陥

ただ、今の自分はそのようには思わない。

”完璧主義”は結局は理想/空想で、まったくもって現実的ではないという事実を自分に叩き込んだからだ。
(時に引っ張られそうになるので、こまめに丁寧に諭しなおすことを心掛けている。)

結局のところ、完璧主義の見ているものは、「こうあるべき」という、完璧な「点」でしかない。 完璧なあるべき姿。

朝は何時に起きて(いるべきで)、休日の午前中は何冊本を読んで(いるべきで)、学生は勉強と部活動に全力で取り組んで(いるべきで)・・・。

そういう完璧を追求したいと願ってしまうとき、前日の夜になにがあったかとか、ちょっと集中できない事情があるだとか、大きな怪我を負ってしまったとか、そういう要素は捨象の対象となる。あくまでも理想的な、いわゆる正しい、あるべき姿に身を置けていない自分に、焦ってしまう

場面場面で空想の選択肢に囚われた結果、自分は追い込まれ、鬱病になった。選べないものを選べと自分に課し続けたら、それはそうなる。

現実的に選べない「正しい」は、意味がないのと同じ。理想的な右肩上がりの成長曲線なんて実際には存在しなくて、存在しないその線と比べて焦っている自分はじゃあいったい何と闘っているというんだろう? 場面場面で存在しない理想を追った結果、心は動かなくなった。

構造的欠陥。完璧な「点」をいくら積み重ねても、それが現実的でなければ、完璧な「線」にはつながらない。

選べない「正しい」を捨てることが、知性だと思う。自分や周囲が今”どれだけ疲れているのか”を観察して、現実的な選択を取る。その選択こそが、今ここに自律的に立っているということだと思う。

完璧主義はリカバリーを遅らせる

「この期に及んでまだ、上手くやろうとしているの?」

仕事でしたミスに慌てふためいていた時、お世話になっている人に言われたこの言葉は効いた。脳天が揺れた。

学校のテスト勉強のような感覚で、日常を捉えてはいけない。人生は、100点取りに行こうとして100点を取れるものでは決してないから。

まずは起きたことを観察しよう。自分の動き方を決めるのは、その後。「あるべき」動き方を、目の前で起きていることをなおざりにして選びたがろうとするな。

こうやって書いてみるとすごく当たり前のようなことに思えるが、この当たり前を染み込ませるのに何年もかかった。感じた気持ちをノートに書き出して、何回も読み返して、思考の歪みを検証した。

最近、Official髭男dismの『ビンテージ』を開いて、この辛かった修正作業にぴったりな歌詞だと思った。

悲しい過去なんか1つもないのが理想的だって価値観を持ってた そんな僕は君という人に会えて大事なことに気付かされた キレイとは傷跡がないことじゃない 傷さえ愛しいというキセキだ

エンディングへの思い(変化後)

エンディングをポジティブに捉えられるようになった、という訳ではない。ただ、読んでも少し心が痛まなくなった。事実を受け入れるにあたっての動揺が少し収まった。それだけ。でも、それが何より大切だと思っている。

現実を出発点にして最善の策を取るのが知性だとしたら、起きた現実をスピーディーに直視する力もまた知性だからだ。

背中の怪我さえなければ、もっと凄い選手になっていたはずなのに、背中の怪我さえなければ、この4ヶ月だって消えてなくなってしまわないはずなのに、それは、存在しない空想だ。

完璧主義の空想にしがみつけば、その分、今取れる選択肢が歪む。

だからこそ、今日のリハビリはきついよ、と担当者に言われて「天才ですから」と振り返る花道が、今はとても眩しい。



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