見出し画像

シェイクスピアと音楽(13):オフィーリアは歌う

シェイクスピアの悲劇「ハムレット」は何度も映画化されています。

1948年のローレンス・オリヴィエ版は永久保存版ですね。

1996年のケネス・ブラナーのハムレット、ケイト・ウィンスレットのオフィーリア版は四時間を超える、シェイクスピア・オリジナルのテキストをノーカットで映画化したもの。舞台は十九世紀にアレンジされていますが、言葉はシェイクスピアオリジナルのエリザベス時代の英語。

2019年には新しいハムレット映画が作られました。

題名はOphelia。薄幸のヒロインのオフィーリア視点ということで期待して見たのですが、オフィーリアの人格形成があまりに酷くて失望しました。

主人公オフィーリアは、スターウォーズ新三部作でレイを演じたデイジー・リドリー。

彼女の演技力は申し分ないのですが、ライトセーバーを振り回してジェダイ戦士として見事な剣戟を披露してくれた彼女は、案の定、あまりに女性的なオフィーリアには相応しくないと思わざるを得ませんでした。

第一幕の劇中の有名な言葉

弱きもの、汝の名は女である

は、デイジー扮するオフィーリアには全く似合わない。

この言葉は、ハムレットが母親ガードルート王妃が夫である父を裏切って、義弟に当たる新王クローディウスと結婚したことへのハムレットの苦言なので、全ての女性の本質を言い表した言葉とは思えませんが、ハムレットの時代の女性は男性の庇護なしには生きれなかったのは確かで、やはり女性は社会的に弱い存在。

この意味で、シェイクスピアの言葉は正しい。

映画は、そんな弱い女性としてはオフィーリアを演出しませんでした。

映画「オフィーリア」の問題点

映画のオフィーリアは自主性に富み、物語の核心となる毒薬の秘密に通じているなど、全くシェイクスピアのオフィーリアらしくはありません。

原作ではオフィーリアの性格付けに大いに貢献する父親ポローニウスがほとんど登場しないなど、原作を相当に逸脱した作品です。

先王と現王に仕えている宮廷顧問官、父親ポローニウスの存在の大きさと影響力がなければ、オフィーリアが発狂してしまうことに説明がつきません。

さらには、映画では、オフィーリアはジュリエットのようにハムレットと秘密裏に結婚式を挙げて夫婦になっている。これでは発狂したオフィーリアによって歌われるヴァレンタインの歌などが全く無意味になってしまう。

どういうことかは後述しますが、当然ながらヴァレンタインの歌は映画ではカットされ、強い精神と戦闘能力をを持つオフィーリアは発狂しないで、王の御前で狂ったフリをするのです。

次の場面、川面に漂う有名な死の場面も、薬を飲んで仮死状態となっていたということで、死なずに彼女は助かります。まるでジュリエットですね。

ミレイJohn Everett Millaisの絵画(1851-1852)で有名な
花と共に川面に浮かぶオフィーリアの場面の再現

映画の続きは原作通り、皆死に絶えます。オフィーリア以外は。

ハムレットを強い男性として描き出したトーマのオペラ「Hamletアムレ」もそうですが、原作をここまで曲げて二次創作する姿勢には賛同できません。

映画は本当のオフィーリアの物語はこうであったと締め括ります。シェイクスピアの物語は後世の脚色された創作フィクションであると。

映画には良いところもたくさんあります。俳優たちの名演技は目を見張ります。

オフィーリアの兄レアーティーズをハリーポッター映画でハリーに敵対するドラコ・マルフォイだったトム・フェントンが演じていたのですが、素晴らしいレアーティーズだっと思います。

王妃を演じたネイオミ・ワッツは夫であるクローディアスを差し殺します。わたし的には喜劇ですね。

女性監督による、強い女性たちによる「ハムレット」劇なのです。

シェイクスピア原作そのままの中世デンマークの宮廷など、ハムレットの世界を視覚的に再現したことは素晴らしい。原作の第三幕の黙劇など、最新の映像による原作そのままのイメージの再現で引き込まれます。だから原作ファンにも見どころはないわけでもない。

原作の手弱女弱たおやめなオフィーリアを好まれない方には見応えのある映画と言えるでしょうか。

さて、それならばシェイクスピアの「オフィーリア」とはどういう女性なのかを音楽を通じて考察してみます。

ジョン・ウォーターハウスのオフィーリア。1894年の作品。
オフィーリアを描いた絵画はヴィクトリア英国時代に数多く制作されました。
二次創作の世界で、オフィーリアほどに愛されたシェイクスピア・ヒロインは他に存在しません
コーディリアもデズデモーナも遠く及びません。

オフィーリアのための歌

シェイクスピアの歌に音楽をつけた作曲家は歴史上数多くいるわけですが、シェイクスピアの言葉がクラシック音楽不毛の英国の英語ということが災いして、シェイクスピアの詩に付された音楽の質は、ドイツ語圏のゲーテの詩に付された音楽への質には遠く及ぶものではありません。

本当に残念なことですが、オフィーリアだけは例外で、世界中の言語に翻訳されて上演されたハムレットは、ドイツやロシアなどの音楽王国の作曲家たちに作曲意欲を抱かせました。

ゲーテの創造した、数多くの音楽で讃えられるミニヨンやグレートヒェンに匹敵する量と質の音楽が存在するのです。

特筆すべきは、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、そしてショスタコーヴィッチの三人の作品。他にもあると思いますが、わたしが好きなのはこの三人の楽聖たちの音楽。

オフィーリアがどういう女性なのか、映画がどうしてあれほどにもシェイクスピア原作から逸脱しているのかを検証してみましょう。

オフィーリアとは?

オフィーリアは宮廷顧問官を務めるポローニアスの年頃の娘。ポローニアスにはフランスの大学に留学している息子レアーティーズがいます。オフィーリアの実兄です。

悲劇「ハムレット」が幕開けると、オフィーリアは第一幕第三場で登場。

新王クローディアス即位の祝典のために帰国していた兄がフランスに帰るために、父ポローニアスと共に船着き場より見送る場面です。

ここでポローニアスはレアーティーズに人生訓を垂れます。

なかなかいいことを言うのですが、面白いのはポローニアスは先王を毒殺した新王に信頼される重臣、しかも先王にも仕えていた、何とも世渡り上手な大人なのです。

饒舌で、世間知に富んだ面白いおじさん。言葉遊びが大好きで、王妃に言葉の綾(Art)よりも、物事の本題を語ってくれとたしなめられるほど。

「思ったことを軽々しく口にするな」
ここから始まる人生訓、着るものにお金を惜しむな、
人は見た目で判断するからだとか、
金を貸し借りすると友情は失われるだとか、まさに海千山千親父の真骨頂

オフィーリアにもレアーティーズ同様に、王子様の気まぐれにくれぐれも気をつけよと諭します。

前回、ポローニアスはオフィーリアを A Green Girl と呼んだという話をしました。続きには、お前は何も知らない Baby だとまで言われています。

人生経験豊かな父親は、つまりStreet Smart なポローニアスは、本ばかり読んでるBook Smartで人生経験の乏しいハムレット王子と付き合うな、遊ばれるだけだ、王子のお手つきになるだけだと戒めるのです。

上述の映画「Ophelia」には、ほとんど父親ポローニアスの出番はありません。ポローニアスが口うるさいと、娘オフィーリアはあんな風にはふるまえません。ここに大きな違いがあります。

映画では、オフィーリアが助言を求める相手は原作にはいない人里離れて暮らす魔女(薬草使い)なのです。母親のいないオフィーリアには誰か頼れる人か必要。頼りにできるはずの兄はフランスへ留学中。

さて、オフィーリアが父親の言いつけを守るいい子だという設定が大事。

オフィーリアはハムレットにもらったラヴレターまで父親に見せて、正直にハムレットとの関係を男親に教えています。全てではないにしても、ほとんどのことを。

ポローニアスはオフィーリアを国王に紹介するにも

I have a daughter--have while she is mine--
Who, in her duty and obedience, mark,
私には娘がいますが、嫁入りまでは私の娘、
親孝行な娘で、私の言うことは何でも聞く

という具合。

そしてハムレットの書いた弱強五歩格の短い詩が含まれた恋文を、ポローニアスは国王と王妃に読んで聞かせるのです。

「星たちが炎に包まれていることを疑え、
太陽が動くことを疑え
真実と信じられているものは嘘であると
でも僕が君を愛しているということだけは疑うな」
太陽云々は、地動説がいまだにすべての人には信じられていなかった時代ゆえの表現

こんな詩の書かれたラブレターををもらえば、大抵の女の子は相手に夢中になってしまう。しかも相手は正真正銘の王子様。

ポローニアスとオフィーリアは母親のいない父子家庭で極めて仲の良い父と娘といえるでしょう。ファザコンとかそういうのではなく、当時の習いに従い、結婚するまでは父親の言いつけをきちんと守るいい子なのです。

尼寺へ行けとハムレットに呼び捨てられる場面もそもそも、ハムレットと別れよと父親に命じられたことが発端でした。

オフィーリアの言葉の文体の違いから、父の言葉の受け売りをオフィーリアはしているのだとシェイクスピア劇翻訳者の松岡和子さんは指摘しています。語呂合わせや駄洒落はポローニアスの}十八番《おはこ》です。

そういうNaive世間知らずなオフィーリアと、家族を疑い、自己存在に苦悩するハムレットが釣り合うはずもない。

父親や兄に大切にされている箱入り娘は、それでも愛してると告白してくれたクールな王子様を信じたい。

オフィーリアはハムレットが愛情Affection を注いでくれるというけれども、彼女もまた、本当の愛を知らない。

だから王位を窺うハムレットは、貞操を奪って自分のものとしたオフィーリアを捨てて (尼寺へ行け)、さらには王と王妃の面前の公の場において、膝枕させることを要求したりと、オフィーリアを側室であるかのように扱います。

だからです、父親を誰よりも信頼している箱入り娘は、恋人であると信じるハムレットに最愛の父親が殺されたと知り、発狂します。

恋人が尼寺へ入れと命じたのは、やはり自分を捨てたためだったと。

そしてハムレットはイギリスに送られて殺されたと聞かされるのです(実際には海賊船に乗り移ることで、到着後に殺害される予定だったイギリスには上陸せずに、無事デンマークに帰国を果たします)。

自分の理解を超えた出来事が起こると、自分自身の理性を守るために(現実を受け入れるには辛すぎるがために) 理性を失います。自己保全のためですね。

こうしてオフィーリアはこれまで自分を縛り付けてきた社会的拘束の全てから自由になり、王宮内を彷徨い歩き、歌を歌います。

中世においては、身分のある女性が人前で歌うことは、してはならない、恥ずべき行いでした

誰もがオフィーリアが狂ったと認めたのは、彼女が歌いながら場内を彷徨していたから。マクベス夫人も夢遊病者となって彷徨い歩きます。きっと小唄の一つでも歌いながら。身分ある女性のするべきではない行為なのです。

全ての束縛から自由になり、いい子であることをやめて、「本当のこと」を歌いながら語り始めるのです。狂気のオフィーリアが歌うのは、無意識の中に隠されていた抑圧されていた真実ばかり。

オフィーリアの第一の歌

ドイツ後期ロマン派の交響曲作曲家ヨハネス・ブラームスは生涯にわたって歌を書いた人でしたが、1873年、ブラームス四十歳の年にウィーンのシェイクスピア劇俳優から依頼されて、五つのオフィーリアのための歌を書いています。

ドイツ語で上演される「ハムレット」第四幕のための音楽。歌詞はもちろんドイツ語訳。

音楽専門の歌手ではなく、舞台でオフィーリアを演じる女優のための音楽なので、音楽的に非常に単純ですが、民謡のようで、素人にも歌いやすく美しい。

名作「ハイドンの主題による変奏曲」を書いた頃の作品だけに、凡百の作曲家の作品とは出来が違います。出版はされなかったため作品番号は付されていませんが、数多くのソプラノによって歌われている名品。

劇で歌われることを考慮されて、どの曲も1分にも満たないものですが、印象的なメロディばかりです。

狂ったオフィーリアは、ハムレットの母親である王妃ガードルートに「恋人はどこへ行ったの?」と歌います。

自分を残していなくなったハムレットを探す歌。

How should I your true love know どうやって恋人を他の人と見分けるの?
From another one?
By his cockle hat and staff, 貝殻帽子に杖を持ち
And his sandal shoon. 足には巡礼のサンダル靴
He is dead and gone, lady, 奥様、彼は死んでいなくなってしまったの
He is dead and gone; もういなくなって死んじゃったの
At his head a grass-green turf, あの人の頭のところには緑の芝が生え、
At his heels a stone. 足元には石が転がっているわ
ブラームスではない、別の作曲家による、ハムレット上演に歌われた音楽
Cockle hat and staffは巡礼に向かう人の装束のこと
十二使徒の大ヤコブは帆立貝のついた帽子を被って巡礼の旅に出て、
それ以来、巡礼には貝殻付きの帽子が巡礼者のシンボルになったとか

二十世紀前半のドイツで活躍して、古いスタイルの音楽を死ぬまで描き続けたリヒャルト・シュトラウスは、第一の歌、第三の歌などに作曲していますが、長調とも短調とも言えぬ曖昧な和声の音楽で、ブラームスの素直な歌と比べると、ひねりが効いてて非常にシュール。

オフィーリアの第二の歌

続いて恋人に殺された父親のことを歌います。

White his shroud as the mountain snow,-- 死者のための白装束は山頂の雪のよう
Larded with sweet flowers 良い香りの花を撒き散らして
Which bewept to the grave did go お墓を愛の涙の雨で濡らして
With true-love showers.  行ってしまったわ

明るい長調で歌われるのが、狂った頭のオフィーリアらしい。

他人事のように父親の死を歌うオフィーリアの哀れさは涙を誘います。

この歌を聞いて、高村幸太郎の智恵子抄を思い出しました。幸太郎同様芸術家だった千恵子は夫婦間の芸術家としての確執より、オフィーリアのように発狂したのでした。

狂った頭の智恵子の見た空の話。

あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html

オフィーリアの第三の歌

そして次は自分自身のことを歌います。

オフィーリアの歌として、単独でも非常に有名な聖ヴァレンタインの歌。

そしてこの曲こそがオフィーリア発狂の謎を解く鍵となります。

ブラームスの歌では、狂ったオフィーリアの口走る処女を奪われた女性の話を「明るく明るく」歌います。他人事のように。

To-morrow is Saint Valentine's day, 明日は聖ヴァレンタインの日よ。
All in the morning betime, みんな朝早く起きる
And I a maid at your window, わたしはあなたの窓辺に立つ少女
To be your Valentine. あなたのヴァレンタインになるわ(愛を受け入れて恋人になるわ)
Then up he rose, and donn'd his clothes, そしたらあの人は起き上がって服を着て
And dupp'd the chamber-door; そして部屋の扉を開けて
Let in the maid, that out a maid 少女を入れたの
Never departed more. それで女の子は女の子ではなくなってしまったの
Donn'dやDupp'dは現代英語ではDidと同じ。
つまり非常に口語的で品のない言葉遣い

つまり処女Maidだった女の子は、愛の成就がする日として知られるヴァレンタインの日に、処女を奪われたという歌。

あれほどに兄レアーティーズと父ポローニアスに「ハムレットに気を付けよ」とさんざんいわれながらも、やはりこういうことになっていたのでした。

狂ったオフィーリアの口からほとばしる誰も知らなかった本当のこと。

観劇する人は、ここで初めてハムレットとオフィーリアの二人の仲の真実を知ることになるのです。

オフィーリアの第四の歌

By Gis and by Saint Charity, なんてことなの
Alack, and fie for shame! やってられないわ
Young men will do't, if they come to't; 若い男はやっちまうのよ、そういう時には
By cock, they are to blame. ひどい奴らなのよ
Quoth she, before you tumbled me, あの子はいったわ、押し倒す前に
You promised me to wed. 結婚するって約束したのよ
So would I ha' done, by yonder sun, そう、あのお日様に誓って
An thou hadst not come to my bed. もし俺のベットにあの子が入らなかったらな
品のない俗語だらけ
By GisはJesusという罵り言葉、みだりに聖なる言葉を使うと罵りになるのです
By CockもGodと同じ、もちろん性器も意味していると思います
シェイクスピア作品には、
上記のハムレットのラブレターのような美しい言葉から、
この狂気のオフィーリアの最低の俗語まで、
ありとあらゆる表現が詰め込まれているのです
狂っているからこんな言葉も口にできるのです

ソヴィエトのショスタコーヴィチは、退廃芸術との批判を政府より受けるまでは、若き日にオペラ創作に打ち込んでいました。

不協和音だらけの「ムツェンスクのマクベス夫人」は20世紀オペラの最高傑作のひとつ。

「マクベス夫人」を書く前の1932年にショスタコーヴィチはオフィーリアの歌を書いています。チェロのオブリガートの歌が極めて美しい名品です。

第四の歌は、上記の第三の歌から続けて歌われます。

あまりにひどい歌の内容だからなのか、古今の作曲家でこの詩に音楽をつけた人を、わたしはショスタコーヴィチ以外には知りません。歌いたいと思う歌手も少ないことでしょう。

ブラームスやシュトラウスはこの歌詞を敬遠しています。

明るく歌うブラームスの第三の歌曲と対照的ですが、ショスタコーヴィチの歌曲は狂気のオフィーリアの押し隠された心情に心底寄り添った歌。

哀愁のチェロが沁みいります。チェロ演奏は20世紀最大のチェリストの一人、ロストロポーヴィチです。

この歌のように、若い女性を騙す男は今も昔も絶えることがない。

あまりに真実すぎて笑えない。

文化にもよりますが、現在では婚前交渉は昔ほど忌避されてはいない。中世キリスト教社会では、こうしたことが起こると、女性に非があるとされました。

マクベス夫人を主役に据えたオペラ同様に、社会的秩序の混乱と不条理に対して怒れる芸術家ショスタコーヴィチの面目躍如たる傑作。

彼だからこそ書けたといえるのでは。

オフィーリアの第五の歌

オフィーリアの最期の歌。

物陰に潜むクローディアス王と間違われて、ハムレットに刺殺された父親ポローニアスを弔う歌。Heはハムレットでもポローニアスでもある。

自覚はしていなくとも、自分自身のための死のための歌でもあります。

And will he not come again? ねえ、あの人はもう帰ってこないの?
And will he not come again? もう二度と?
No, no, he is dead: そうよ、死んだのよ
Go to thy death-bed: 私も死んでしまおう
He never will come again. もうあの人は二度と私のもとには帰ってこない
His beard was as white as snow, 髭は雪のように白くて
All flaxen was his poll: 麻のような白髪で頭は覆われていて
He is gone, he is gone, いなくなってしまったの、いなくなって
And we cast away moan: もう嘆いても無駄
God ha' mercy on his soul! 神様、あの人の魂にお慈悲を
And of all Christian souls, I pray God. God be wi' ye. お願いします、神様、安らかに

オフィーリアの死

狂った頭のオフィーリアは、そのまま城の外へと彷徨い出て、川に足を滑らせて死んでしまいます。知らずに足を踏み外してしまったのでは。

オフィーリアの死は、王妃ガートルードによって伝えられます。

本当にたくさんのオフィーリア水死の絵画が描かれました。

一番古くに描かれた、川面に浮かぶオフィーリアはおそらくフランスのロマン主義絵画の一人者ドラクロワの作品。

有名なミレイの作品に先立つものです。

1838年
15年後の1853年にもオフィーリアを描いているドラクロワ。
ミレイの有名な作品の書かれた一年後の作品
ミレイ作品とは異なり、ドラクロワのオフィーリアは木の枝に手を伸ばして溺れ死ぬ直前の情景。
溺死したら沈んでしまうけれども、漂い続けるオフィーリア
きっと朦朧として夢うつつのまま、死んでいったのでしょう
1851-1852年の作品

その後も多くのオフィーリアが描かれるのですが、この傑作こそが最もオフィーリアらしさを伝えてくれる絵画。

後世の我々はこの絵を通じてオフィーリアの悲劇を知るようになります。

この絵を思い浮かべずにオフィーリアを語ることは不可能なほど。

ロンドンで神経衰弱に陥った夏目漱石は美術館でこのミレイに出会い、感動して、のちに名作「草枕」を執筆しています。

オフィーリアを気に入っていた王妃ガートルードが彼女に捧げる言葉

Sweets to the sweet: farewell! 美しいものは美しきあなたに、さようなら(花を撒きながら)
I hoped thou shouldst have been my Hamlet's wife; ハムレットの花嫁になってくれればと願っていたのに
I thought thy bride-bed to have deck'd, sweet maid, 美しい処女の新床にいどこを飾るはずの花が
And not have strew'd thy grave. お墓にまかれることになんて

野端に葬られるオフィーリアの葬儀の音楽。オフィーリアのためのレクイエム。ケネス・ブラナーの1996年の映画から。

悲劇「ハムレット」の本当の主役

溺死したオフィーリアは自殺者として教会墓地へ埋葬することは許されず、前回紹介した第五幕冒頭の有名な墓掘りの場面へとつながり、ハムレットの帰国を知ったオフィーリアの兄レアーティーズは、ハムレットに決闘を申し込み、王の御前における決闘の場で皆死んでゆくのです。

ハムレットやクローディアス王、王妃グーテルードの死は自業自得のようなもの。

ハムレットは父王を殺されて、あのような状況に置かれてしまったことが悲劇的ですが、王子としての権力を嵩にしてオフィーリアの貞操を奪い、重臣ポローニアスをも殺害しています。やはり因果応報。

ならばオフィーリアは?

兄のレアーティーズは?

悲劇「ハムレット」とは、間違いなく、オフィーリアの悲劇なのです。

苦悩するハムレットではなく、この悲劇の本当の主役は、罪なくして無惨に死んでいったオフィーリアなのだと私は思います。


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。