ロボットの幸福: Kazuo Ishiguro “Klara and the Sun”
ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの2021年発表の最新作を読了しました。
今年五月に映画化が決定したため、積読にしていた本書を再び手に取った次第です。映画館で見れるようになるのは、おそらく来年か再来年でしょう。
ニュージーランドの映画監督タイカ・ワイティティTaika Waititi が映像化に挑みます。
このヒゲの方です。もちろんヒトラー!
監督なのに俳優もされる方です。ニュージーランドではかなり有名人。ちなみにわたしはニュージーランド在住です。
2020年に世界中の脚光を浴びて数多くのアカデミー賞を受賞したコメディ映画「ジョジョ・ラビット」が代表作。しかも俳優としても出演さえも。
ニュージーランド・マオリ族出身の映画監督。現在撮影中の映画の次にイシグロ原作の作品に本格的に取り掛かるのだそうですが、撮影はそろそろ始まるのでしょうか。
わたしはイシグロの新作、英語原作を読んだのですが、邦題は土屋政雄訳で「クララとお日様」。
The Sunを「お日さま」と訳すのがふさわしい寓話的な世界観の中の物語。
寓話的なのはロボットという非人間の視点から語られる物語だから。人間に擬された動物が主人公の物語に似ているのかも。
原作「Klara and the Sun」の分かりにくさ
英語原書で300ページほどの小説ですが、前半分はなんとも読みにくい小説でした。後半からはドラマの要素が現れて俄然面白くなるのですが。
描写が人間の視点からは書かれていないので、感情のない平坦な不思議な語りで紡がれてゆくのがとてもユニーク。でもユニークさゆえに読み終えることができないで挫折する人も多いのだとか。
わたしもそんな一人。
発売直後に購入して、少し読んで一年以上積ん読状態にあった本を再び読み始めたのはつい最近のことでした。
英語の国の小学生高学年の子供なら誰でも読めるような優しい文体の小説なのですが、何とも読みにくい。とてもおかしな文体の英語が連なってゆきます。
読めなかったのは、冒頭の旧型アンドロイド・クララの狭い視点から語られる物語があまりに曖昧模糊で抽象的だったからです。
語り手であるアンドロイド少女(作中ではAFと称されています。Artificial Friend=人工親友と日本語版では訳されています)の言葉には感情がほとんどありません。
ロボット(AF)の主観が語られる物語。19世紀風の全てを見通している神の視点的な作者の声は全く差し挟まれず、ひたすらロボット視点の語りが続きます。
非人間ゆえに人間的な感情がないのです。
優れた人工知能なので、感情がないとは言えない。でも人間の普通の感情とはどこか違う。
情景描写はどうにも起伏がない。でも語り手は非常に優れた観察者で、彼女の眼差しは普通の人間ならば気が付かないような洞察に満ちている。
AFの最大の関心事はソーラーエネルギーを与えてくれる太陽の動きと、自分の存在意義としてプログラムされたご主人様を見つけて、そのご主人様に仕えること。
この二つの主題が小説を支配しているのです。
物語はAFに与えられた限られた情報と知識において理解される世界ばかりが物語られ、AFが理解していないことは曖昧なままストーリーは綴られてゆく。
まさに読み手はAFになりきったつもりで読書体験を行わないといけないのですが、AFに共感できなかったり、AF視点であることを理解して読めない読者は戸惑い、わたしのように読み続けることができないことでしょう。でもこれが作者の意図したナラティブなのです。
主人公の語り手ロボットの一人称の世界からはすべてが見えてこない。語り手のAF本人がそもそも理解していないのだから、語れられないのです。
最後の最後まで分からないことはわからないままで終わる。
あえて全部がわからないように仕向けられている。AFであるクララの生きた時間(稼働していた時間)の全てを読者は追体験するという小説なのが分かりにくかった理由。
でも読み終えて深い感銘を受けたので、もう一度読むと本当にこの物語がわかるようになると思う。一度読んだだけでは本当の名作は理解できないものです。
語り手のAFは無垢で純真で前向きな少女の心を持つように設定されているけれども、人間世界の矛盾や愚かさ、醜さを学んでも、それを皆のために改善しようとAFが働きかけることはない。そういう設定。
AFとはチャットGPTにように、尋ねられたこと求られたことには対応するけれども、自発的には動かない。
でも求められたことのためには自己犠牲も厭わない。自己保存本能という要素はプログラムされていないのです。
大ベストセラーとなった「わたしを離さないで」や「日の名残り」のようなドラマチックな展開は後半までほとんど起こることのない、機械の心情に寄り添わねばならない物語ですので、英語版のサイトでは本書への評価は真っ二つ。
上記のようにアンドロイド視点を共有できる読者には稀有な名作、わからない人には退屈極まりない読書時間が無駄な駄作、という論評を出してしまうわけです。
映画化への期待
イシグロ作品の映画化では「日の名残り」と「わたしを離さないで」が名作として知られています。
でも「クララとお日様」がイシグロ作品の第三作目かといえばそうではなく、今作執筆ののちには、黒澤明監督の名作「生きる」を1950年代のイギリスに舞台を移し替えたリメイク映画を、本業である執筆を差し置いてイシグロが翻案して制作していたというのですから、クララが映像化された暁には第四作目と呼ぶべきでしょうか。
「クララとお日様」はどのように映像化されるのか。
ロボットの見た世界というのは映画化に向いているのかもしれません。
ひたすらロボット視点で謎めいた世界の意味を映像が解き明かしてゆくというのは面白そうです。
きっとナレーターを主人公クララ役の少女が担うことでしょうが、言葉だけでは伝わないものが映像を伴ってならばわかりやすくなるのかもしれません。
でもそうなると我々は彼女の視点から世界を見ないことになるのかもしれません。
脚本次第では、美しい太陽の光に満ちた、クララという少女ロボットの内面を映し出した、どこでもない近未来世界の不思議な物語の映画を作り出せるのかもしれません。
舞台は特に明記されてはいないけれども、物語の中でイギリス英語を喋る親子の言葉が周りの人からしばしば槍玉にあげられることから推測されるように、非イギリス英語が近隣では普通に喋られているアメリカのどこかでしょう。カリフォルニアなどの固有な地名が何度か作中で言及されるのですから。
Klaraとクララ
あらすじが必要だと言われる方は以下の投稿などで読むことができます。
わたしが読んだのは英語版ですので、主人公をクララではなくKlaraとしてこれから語ります。
日本人が最も発音しづらい名前の一つがKlara。
Klは子音連結。Kに母音をつけてはいけません。
その上に日本語には存在しないLとRが連続して出てくるのです。
日本語で書くところの二つの「ラ」はまったく別の音。口の中でLは下が上の前歯の裏側に軽く触れて、すぐに下を下に動かすことで子音の違いは明瞭になりますが、そういう舌の筋肉の使い方をしていない日本語話者にはあまりにも難しい名前。
この小説のAFである主人公は自分にはクララではなくKlaraなのです。だから以下ではKlaraとアルファベット式で小説の語り手のことを書いてゆきます。
KlaraはClaraとも綴られますが、Klaraの方が古風な名前で、この言葉を打ち込むとNoteのスペルチェッカーは赤線を表示するほどに。
ラテン語由来の古い名前だけれども、そんなにもありふれた名前ではない。だから知らない人にはとても難しい名前。そんな名前をもつAF。
Klaraという名の意味は英語でいうところの Clear。澄んでいるとか明るいという意味で、名は体を表すという言葉のように、この小説の主人公はそんなキャラクターなのです。
(1) 「Klara and the Sun」はToy Storyである
結論から言いましょう。
この小説は子供に与えられるオモチャがオモチャ屋から買われて新しい持ち主に愛されて、そして成長した子供にもはや必要とされなくなって捨てられてしまうオモチャのお話です。
新しい機種が登場すると前の型のスマホが捨てられるように、Klaraも最新型ではなく、物語の中で次第に機能に不調をきたしてゆく。
AFのB2第四世代型という公式名称は、どこか我々が必需品として持っているスマートフォンを想起させます。
AFとはスマホのように使い捨てなのです。
この小説は人工知能の物語だと喧伝されているのですが、日本というSFアニメが大好きな国はもうすでに、手塚治虫のアトムやウランを知り、ドラえもんを知っています。
マニアックな話では、アトムのリメイクの浦沢直樹の「プルートゥ」を知っています。ほかにもたくさんのロボットの物語がある。
死んだ子供の身代わりとして作られたアトムもロボットであるがゆえに捨てられてしまいます。どれほどに優秀な人工知能を搭載していようと、ロボットはしょせん高価な道具、またはオモチャでしかない。
アメリカのアニメ映画シリーズ「トイストーリー」もまた同じでした。
トイストーリーのおもちゃたちは人間の見ていないところで動き出す「ファンタジー」ですが、イシグロの小説は人工知能を搭載させることで人とコミュニケーションすることが可能な友達ロボットという設定。
どこか鉄腕アトムを彷彿とさせますが、全てのロボット物語はこの同じ部分へと通じてゆく。
Klaraはトイストーリーのジェシーなのです。
そしてトイストーリー3で大きくなった子供に捨てられてしまう全ての子供の頃のオモチャたちと同じく。
映画「トイストーリー2」では大きくなった女の子に捨てられたカウガールの人形ジェシーの思い出を歌ったバラードが心を打ちます。
Klaraの行き着くところ
Klaraの物語は、AFの専門店で他のAFたちと一緒に日当たりの良い窓際に展示されていたKlaraが女の子のJosie (ジョシー、土屋訳はジョジーとされているようですが、わたしはジョシーの方が好きです) に購入されて彼女の家に引き取られ、それ以来病弱なジョシーの健康を気遣うことがKlaraの使命となります。
やがて小説の最後、使命を果たしたKlaraは別れの描写は全くないまま捨てられてしまいます。まだ意識がある状態だけれども動けないKalraは光が斜めに降り注ぐ廃棄場Yard で放置されているところで物語は終わりを告げるのです。
オモチャのジェシーは持ち主の女の子に遊ばれて彼女を楽しませることが彼女の存在意義でした。AFのKlaraもまた、持ち主のそばに子守のように侍っていて、そして必要がなくなれば、お役御免で廃棄されるのです。
藤子不二雄の二十二世紀の猫型ロボット「ドラえもん」の行く末も、あの作品がリアリズムを追求するならば、のび太の成長後にはドラえもんも捨てられる運命にあるということです。
新しい文明の利器であるAIは特別なものとして、2023年現在、もてはやされています。
AIはいつの日かシンギュラリティを迎えて人間の能力を凌駕して、映画のターミネーターのように我々を支配すると、まことしやかに囁かれていますが、わたしはAIはアシスタントであり、ある意味、視力矯正のメガネのようなものだと思います。
メガネが意思を持ったとして、友達のように寄り添ってくれたとしても、やはり道具は道具。
そういうものかもしれません。
道具が心を持つと悲劇しかないわけですが、心を持った道具を葬るという思想は小説の世界の人たちは持ち得ていなかったのが残念です。
愛玩用ペットは死ねば、飼い主たちに悼まれて墓にさえ葬られて土へと還ってゆきます。Klaraはペットではなく、古い機種のアイフォンのようなものだったとは。
この事実は確かに悲しいことかもしれない。
(2) 「Klara and the Sun」はディストピア小説である
SFの多くは全体主義国家によって支配された世界を描き出す物語です。科学が高度に発達すると、国家は市民を管理する社会になると誰もが考えることは、ある意味恐ろしい。
二十世紀のソヴィエト連邦や現在のロシア、第二次大戦以降の中華人民共和国といった社会主義を選んだ国がモデルとなり、数多くのSFが書かれたものでした。
管理社会の恐怖についてはトマスモアのユートピアやスウィフトのガリヴァー旅行記の頃から書かれていたもの。あるいはもっと以前から。
Klaraの世界は近未来。
遺伝子工学が現在よりも発達していて、裕福な家庭では生まれた子供に肉体改造のような処置を施している。Liftingと原作では呼ばれています。土屋訳では「向上措置」。
Klaraのような洗練された人工知能を搭載したAFが裕福な家庭に犬か猫のように購入されている世界。富裕層だけが購入できる高価な子供ロボットがKlaraなのです。
現在の我々の暮らしは自動掃除ロボットのルンバがなくても暮らしてゆけるし、最新機能を搭載したスマートフォンやタブレットもなくても生きては行ける。
でもそうした文明の恩恵にあずかることを知らぬ人たちの方が実際には多い。
未来でもまた、人工知能がどれほど発達しようとも世界は変わらないらしい。
どんなに自分たちの暮らしを向上させるための文明力を発達させて、いろんな道具やロボットを作りだしても、人間の本質は全く変わらないのだから、当然なのか?
機械による文明はさらに進んでいても、発達した文明の恩恵を受けているのは富裕層だけという世界。
しかしながら、自動運転の自家用車は普及していないし、ドローンのような配達機械も、手塚治虫の「火の鳥」に出てくるような労働用ロボットは存在しない。
富裕層に属さないジョシーの友達であるリックの家庭はAFを買う財力もないし、将来のための学校も特別向上処置を受けなかったがために将来さえも差別化されている。未来にはこうした洗練されたカースト制度が当たり前のように存在しているのでしょうか。
文明力は発達しても、汚染をまき散らす機械が町中に存在している。太陽の光は乏しく、だからこそAFのKlaraはいつだってお日さまを気にしている。
環境問題は何一つ改善していない。狭い世界に生きているAFの眼には映らないけれども、この世界にはもっともっと悲惨なことが隠されているはず。
あまり見たくはない楽しそうではない、でも非常に実現しそうな未来予想図。
わたしはこの小説は新しいディストピア小説なのだと思います。
そしていつまでも変わらない人間の本質である孤独の問題もまた、この物語のなかで大事な主題として語られます。
人間は孤独を感じる。
でもKlaraは孤独を知識として知ってはいても実感はできない。
第二部でジョシーの母親は病気の娘を家に残して、娘の代わりにKlaraを連れて死んだ上の娘Salが大好きだったというモーガンの滝へと連れてゆく。SalはSally サリーの短縮形。
そこでKlaraは人の孤独に触れる。
ここから小説世界に人間の孤独がテーマとして急速に立ち現れるのです。
ここから物語は圧倒的に面白くなる。第三部においてこうしてKlaraは新たな使命を帯びて物語を別の方向へと導いてゆきます。
(3) 「Klara and the Sun」は寓話である
Klaraは孤独を感じない。
優れた人工知能を搭載しているので孤独という概念は知っている。
けれでもKlaraは孤独を体感することはできない。
小説の最後、打ち捨てられたKlaraは独りだけの状態でもはや動けない状態で廃棄場に捨てられている。掃除のおじさんは向こうに別のまだ動けるAFがあるけれども、そちらに連れて行ってやろうかという。
でもKlaraはここは日の光を浴びることができて気持ちがいいのでこのままでいいという。
Klaraには孤独はない。
お日さまと一緒だから決して一人ではないのかもしれないけれども、人とつながりたいという欲求そのものがないからだ。生存に必要なものは日の光だけ。でも体を構成している部品は取り換えない限り、劣化して使えなくなる。その結果、人工知能の頭脳は動いても廃棄処分にされる。新しいAFを買う方が修理するよりも安上がりだからだろう。だから中古としてAFは取引されない。
物語の中盤、裕福でないがためにLiftingされなかった(学力などを向上させるための特別な向上措置を受けれなかった)ジョシーのボーイフレンドのリックはシングルマザーの母親ヘレンを独り置いて、遠くの街の大学へは行きたくないと仄めかす。
でもヘレンはリックの将来のためにKlaraにリックに影響力を持つジョジーに進学について口添えをしてほしいと頼む。
AFの存在意義は持ち主に孤独を感じさせない「親友Best Friend」となることだとプログラムされているKlaraは、ヘレンの決断に戸惑う。
この部分、この小説のなかでも最も印象的な場面のひとつ。
小説の最後の場面に戻ると、最後に独り廃棄されたKlaraは空を見上げている。
リックの母親ヘレンが選んだように、Klaraはジョシーと離別したのち、ヘレンの想いを今まさに体験している。
空を見上げる動けないKlaraは孤独を知るようになったのだろうか。だとすればKlaraは少しは人間らしくなって、一生を終えてゆくことになる。
でもやはり、使命達成感の充実を感じることしか彼女にはプログラムされていなかったのかもしれない。自己実現がKlaraにとっても最も幸せなことだったことだろう。
これから作られる映画の最後は、この孤独に見えるような形で廃棄されるKlaraの見上げる空と太陽の場面で原作そのままに終わってほしい。
その瞳には満足感を湛えさせて。
「Klara and the Sun」は悲劇ではない。
使命を終えたロボットはこうなるものだという、イソップやアンデルセン童話のような寓話に似ている。
オスカーワイルドの「幸福な王子」にも似ている。
彫像の王子は全身に施された金箔を南の国へと旅してゆかない決意をした燕に託して街の貧しい人たちに施させる。燕は冬が訪れて凍死して、金箔を失ってみすぼらしくなった王子は捨てられてしまう。でも王子は幸福だった。
AFであるKlaraの視点から描かれた物語なので、読者にはどうしてもわからない部分がたくさんある。
小説の印象的な場面に、マクベイン氏の物置小屋BarnをKlaraが訪れる場面があるけれども、二度目に訪れたとき、鋭角に指す真っ赤な夕日の中でKlaraはお日さまと対話する。まさに祈るのだ。生きるための栄養分であるソーラーエネルギーを与えてくれるお日さまはクララの神様なのだ。
人工知能でしかないKlaraは祈りという非科学的な行為を行う。
そういう行為をどこで学んだのだろうか。
やがてお日さまは祈りを聞き届けたかのように大いなる日の光を病床のジョシーに降り注いで、奇蹟が起こる。
そういうことがいかにして可能だったのか、全く説明されないままに小説は終わる。
わたしもまた、この場面に違和感を感じたが、自分のことはどうでもいいからという祈りこそがKlaraが観察して学んだ愛のことなのだろう。
愛の究極は無私な祈りで、それがKlaraが一生のうちで学んだ最も尊いことだったのかも。
どうしてなのか全く語られないまま、小説は閉じられる。
ゆえに、ある読者はこの不可解さゆえにこの小説に失敗作の烙印を押す。
映像化すると、これらの日の光の場面はいかにして再現するのだろう。
映画全体を薄暗いディストピア小説そのものな暗い世界にして、時々、神々しいまでの日の光を画面いっぱいに溢れさせる。そんな手法だろうか。
あまり原作をいじって改変しては欲しくはないが、映画は一般受けしないと興行的に失敗する。
ドラマに乏しい物語だけれども、未来世界をいかにCGを駆使して異世界として映像化することに成功がかかっているような気がする。
美しい芸術的映画になりそうだけれども、「わたしを離さないで」のように誰もが感銘を受ける衝撃的な作品になりそうな気配はどこにもない。
改悪してKlaraがジョシーといつまでも一緒に暮らすような安易なハッピーエンドにだけはしてほしくない。
最後にKlaraは孤独とは何であるのかを知れるようになることでロボットの未来にどこか希望が生まれるようなエンディングが用意出来たらなと期待したい。
Noteにはこの本への読書感想文がかなりの数あるのだけれども、最後に廃棄されるKlaraに同情的で、どうにもバッドエンドな作品なのだとみるのが一般的なようだ。
次に紹介されている小学生作文コンクールの大賞の感想が典型。小学生でこれを全部読めたのは凄いけど、ほんとに子供っぽい作文だ。よく書けているのだけれどもね。
わたしは色んな人生を知っていて体験した大人なので、捨てられたKlaraは人間が感じる孤独とは何なのかをいつまでも思いながら日の光をいっぱいに浴びて空をみているという幕切れを美しいと思う。
どこか寓話なエンディングが本作にはふさわしい。
この幕切れを書きたくて作者はこの作品を書いたのでは。AIとは所詮は道具であり、トイストーリーにしかならないのだと。
人は長年愛着を持って使った道具を惜しむものだが、ジョシーはKlaraと別れることを当然だと思っている。それが近未来の人間らしさなのか。
ここから教訓をくみ取る必要なんで全然ないけれども、Klaraは最後には使命を果たした充実感と日の光の中で幸福感に包まれて一生を終えてゆく。
一生とは目的を果たすことができれば幸せだという考え方でKlaraは一生を終える。ジョシーは自分がいないところで幸せになってくれればいいと。
わたしはこの物語、全くバッドエンドではないと思う。
映画公開日が決まれば、ぜひとも映画館にゆく前にもう一度読み返したい。
そんな物語が「Klara and the Sun」なのでした。
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