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カズオ・イシグロ『クララとお日さま』

人工知能を搭載したロボットのクララの視点で語られる不思議な物語である。

女子AF(人工親友)として店に陳列されていたクララは、病弱な少女ジョジーに気に入られ、ジョジーの家に買われていく。そのときから、ジョジーに奉仕し、ジョジーを守ることがクララの使命になる。

この物語では、大事なこと、些細なことを含めて、多くのことが不明のまま残される。

・ジョジーはなんの病気なのか?

・その病気は「向上処置」を受けたことが原因と仄めかされているが、向上処置とはどんな手術(あるいはその他の医療行為)なのか?

・冒頭から何度も出てくるRPOビルとはなんの建物か?

・街に汚染をまき散らすクーティングズ・マシンはなんのための機械なのか?

・ジョジーが在宅で授業を受けるときに使うオブロン端末の特性と名前の由来は?

・ジョジーが絵を描くときに使うシャーピ鉛筆の特性と名前の由来は?

・ジョジーの母親のクリシーはなんの仕事をしているのか?

・ジョジーの父親のポールが住む「コミュニティ」とはどんな場所なのか?

・家政婦のメラニアさんはどこの出身か? 最後の方ではなぜ家政婦を辞めたのか?

・そもそもこの物語の舞台はどこの国なのか?

・ジョジーの幼なじみで隣の家に住むリックは、なぜ「向上処置」を受けないという決断をしたのか?

そして、最大の謎は、もちろん「奇跡は本当に起こったのか?」ということだ。

奇跡とは、「ジョジーの病気を治してください」というクララの願いを、お日さまが聞き届けることを意味する。

クララ自身は奇跡のことを「とても特別な恵み」と表現しているのだが、それがきっと与えられるという確信はクララにとって自然なことだったのだろう。なぜなら、太陽光エネルギーで駆動するクララにとって、お日さまは神さまにほかならないからだ。
それに、クララは、店に陳列されていたときに、お日さまが特別な恵みを与えた実例を目撃していた。死にかけていた物乞いの人と連れの犬が、お日さまが注いだ栄養を受けて生き返ったのだ。

(考えてみれば、太陽は地球上のあらゆる生命の源泉であって、そもそも地球自体が太陽なしには存在しえなかったとすれば、クララたちAFに限らず、人類にとっても、古来、太陽信仰はきわめて自然な信念であったと言えるのではないか。)

ともあれ、クララは、ジョジーの家から草原を渡り、お日さまが沈む間際にひととき休息をとる(とクララが考える)マクベインさんの納屋でそのときを待ち受け、特別な恵みを一心にお願いする。そして、その代償として汚染をまき散らすクーティングズ・マシンを壊すことをお日さまに約束し、その約束を実行しさえする。
それでも、願いは聞き届けられない。クーティングズ・マシンはクララが壊した一台だけではなかったのだ。

クララは再度リックの助けを借りてマクベインさんの納屋へ行き、約束を果たせなかったことをお日さまに詫び、それでも何とか助けてほしいとお日さまにもう一度呼びかける。「ジョジーとリックのことをお考え下さい。いまジョジーが亡くなったら、まだとても若い二人が永遠に引き裂かれてしまいます」と。

「依怙贔屓がいいことではない、とは知っています。でも、お日さまが例外を設けてくださるなら、その依怙贔屓を受けるのにもっともふさわしいのは、一生愛し合う二人の若者ではないでしょうか。どこまでたしかなのか、子供に真の愛などわかるのか――お日さまはそうお尋ねでしょう。でも、わたしは二人をずっと見つづけてきて、真に愛し合っていると確信しています。二人は一緒に育ち、互いが相手の一部になっています。リックが今日そう話してくれました。わたしは街で約束を果たせませんでした。でも、もう一度だけ親切をくださいませんか。ジョジーに特別の助けをお願いできませんか。明日でも明後日でも、ジョジーの様子を見て、物乞いの人にあげたあの栄養をジョジーにもお願いします。依怙贔屓かもしれませんが、お願いします。わたしは約束を果たせませんでした」

カズオ・イシグロ 土屋政雄訳『クララとお日さま』早川書房 pp.391-392.

ジョジーは奇跡的に回復する。
その直前、奇妙な現象が起こる。厚い雲に閉ざされ、強風が吹き荒れる悪天候のさ中に、ほんの束の間、雲を突き破るように、強烈な太陽の光がジョジーの寝室いっぱいに降り注いだのだ。

奇跡は本当に起こったのだろうか?
もちろん、それが起こったことをクララは信じている。
リックも、マクベインさんの納屋でのクララの「秘密の交渉」とジョジーの寝室を見舞った「変な天気」とを関連付け、それがジョジーの回復のきっかけになった可能性を疑っている。もともと、リックは、ジョジーを助けられるかもしれないというクララの不可解な信念に、藁をもつかむような思いで一縷の希望を託したからこそ、マクベインさんの納屋までクララがたどり着けるように手助けをしたのだった。

ただ、本当に奇跡が起こったのかどうかは誰にも分からない。
なぜなら、この物語は、お日さまを神さまとあがめるクララの視点で書かれているからだ。
たとえクララの確信に揺らぎようがないとしても、それが「客観的な真実」であるという保証はない。本当のことを知っているはずの作者は、一人称の語り手であるクララの陰に身を隠し、決して本当のことを語ってくれない。
なにが真実なのか? それは読者ひとりひとりが自分で感じとるしかない。

人間は変わるものだ。

リックは、ジョジーとの愛は永遠だとクララに誓ったが、ジョジーが回復した後に、結局、二人は別々の道を選ぶこととなる。
向上処置と呼ばれる遺伝子編集の恩恵に浴した者(ジョジー)と、そうでない者(リック)とでは、未来の可能性が大きく異なるという事情もある。たとえそうでなくても、成長して、大人になれば、人は変わっていく。
大学に入るために家を出て行くジョジーには、クララはもう必要ではない。ジョジーはクララとの別れに際して、こう言う。「今度戻るとき、もういないのかもしれないのね。あなたはすばらしい友人だったわ、クララ。ほんとうの親友よ」。ジョジーにとって、クララはすでに過去の存在となったのだ。

人間は変わる。クリシーの愚かな考えは、そのことを見落としていた。
彼女は、もしジョジーが死んでしまった場合に、その喪失感を埋めるために、クララがジョジーを「引き継ぐ」という計画を立てる。そのために、クララがジョジーを完全に学習することを要求する。
しかし、クララがジョジーをどれほど完璧に理解し、ジョジーになり切ったとしても、その時点で固定されてしまったジョジーは、過去のジョジーに過ぎない。
たとえジョジーの成長をなぞるようにクララが成長したとしても、それはもはやジョジーではない。成長して、変わって行っても、ジョジーであり続けることができるのはジョジー本人のみなのだ。

人間は、身勝手で、ときに残酷なものだ。
クララが役割を終えたとき、クリシーは、クララを「そっと引退させてあげたい」と言う。
それが意味することは、廃品置き場にクララを廃棄し、野ざらしにすることだった。
クララは、広い置き場の固い地面に座らされ、場所を移動することさえできない。できることは、せいぜい首を動かして周囲を観察することくらいだ。
それでもクララは、決して恨み言を言ったり、人間を責めたりはしない。もともと、そのような負の感情はプログラミングされていないのだろう。

一方で、クララは人間の尊さをも発見する。
それは、「愛する者のためなら自分を犠牲にすることもいとわない」という美質だ。

クララがジョジーの使いで初めてリックの家を訪れ、リックの母親のヘレンと二人だけで会話をする場面がある。
ヘレンは、リックが難関であるアトラス・ブルッキング大学の入学試験に挑戦することを望んでいる。それは、向上処置を受けていない子供たちに開かれた唯一のチャンスである。
しかし、リックは母親を一人で家に残して行けないと思い、受験に乗り気ではない。
そんなリックを前向きにさせ、受験に本腰を入れさせようとして、ヘレンは、クララにジョジーへの口添えを頼む。リックの態度を変えさせられるのはジョジーしかいないと思うからだ。そのようなヘレンの頼みごとを聞いて、クララは驚く。

「すみません。少し驚いてしまって」
「驚いた? なぜ驚くの?」
「あの……正直に申し上げて、わたしが驚いたのは、リックについてのヘレンさんの頼みが本心のように聞こえたことです。わざわざ自分を孤独にするような頼みをする人がいることに驚きました。」
「それに驚いたって言うの?」
「はい。つい最近まで、人間は孤独になるような選択はできないと思っていましたので。なので、さびしさや孤独を避けたいという願いよりも強い思いもあったのか、と」

同上 pp.221-222.

人間が持つ意外な美質をクララが発見するというこの場面は、物語全体の中ではささいなエピソードに過ぎないものだが、わたしは、なぜかこの場面を読みながら涙が止まらなかった。

人間の移ろいやすさも、身勝手さも、そして尊さも、クララの無垢な濁りのない人工の眼を通すことで、より輪郭が明瞭になり、くっきりと浮かび上がる。

クララの眼は人間の本質を写しとるレンズのようだ。

そのような人間の本質をクララは、ただあるがままに静かに受け容れる。

廃品置き場で偶然再会したかつての店長さんに、クララは、全力を尽くして自分の使命を果たしたことを報告する。そして、あなたのことを心配していたと言う店長さんに「心配なことはありませんでした。わたしには最高の家で、ジョジーは最高の子です」と断言する。

繰り返しになるが、クララは、決して恨み言を言わず、誰ひとり人間を責めることはない。
だからこそ、余計にこの物語は哀切なのだ。きっと、不当に見捨てられ、放り出されたクララに代って読者が心を痛め、クララのために悲しむからだろう。

イシグロが生み出したクララという愛すべき語り手は、ひとつの稀有な文学的事件であった。そのように言っても決して大げさではないと思う。







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