「アンドレア・シェニエ」のガヴォット
久しぶりにオペラを見てきました。
英国ロイヤル・オペラ・ハウス(ロンドンのコヴェント・ガーデン)の生放送上映の映画館での鑑賞、今回の演目はイタリア・ヴェリズモオペラの大傑作「アンドレア・シェニエ」でした。
オペラハウスの音楽監督を長年務めてきた、アントニオ・パッパーノの音楽監督としての最後の公演だったそうですが、わたしはあまりパッパーノの演奏には興味がないので、演奏そのものについては触れずに、作品を語りたいと思います。
主役シェニエを歌ったのはジョナス・カウフマン。
カウフマン (1969-) はシェニエをとても得意にしていて、YouTubeでもたくさんの映像を見ることができます。
「アンドレア・シェニエ」というオペラ
ヴェリズモオペラ verismo opera というのは」現実主義オペラ」のイタリア式の言い方です。
神話の世界など超現実(ファンタジー)な設定が多かったそれまでのオペラに対して(19世紀後半のオペラ世界を席捲したヴァーグナーが代表)夢物語ではない、非常に現実的な世界を舞台にした作品たち。
時代設定は必ずしも現代ではありませんが、基本は現代の物語です。
下世話な物語の痴情がもつれて殺し合うという、いわゆる新聞の三面記事のお話がオペラになったようなものが多いのも特徴。
オペラにおける「愛ゆえの殺人」が定番なのですが、それを極めた作品群といえるでしょう。
三角関係になって恋的の男を殺したり(マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」)または思い余ってヒロインを殺したり(レオンカヴァエレロの「道化師」)またヒロインが彼女に横恋慕する男を殺したり(プッチーニの「トスカ」)なんとも血生臭い!
のですが、年代的に最後の成功したヴェリズモ・オペラであるウンベルト・ジョルダーノ (1867-1948) の「アンドレア・シェニエ」は芸術的に最も洗練されていて、ヴェリズモオペラの中ではわたしが個人的に最もよく聴くオペラです。
イタリアオペラらしく、美声の饗宴を楽しませる趣向に富んでいる素晴らしい作曲です。
現代劇がヴェリズモ・オペラの特徴ですが、本作は舞台が作品の書かれた時代の百年前のフランス革命を舞台にしていて、悲劇の主人公たちはフランス革命で断罪される側の貴族たちの物語(フランスではなくイタリアオペラなのですが)。
フランス革命の特徴は為政者たちへの復讐でした。
王政を打倒した新政権の革命派は貴族たちを徹底的に弾劾します。
権力を得た虐げられた者たちであるジャコバン党は、王族を捕らえて挙句の果てには王と王妃マリー・アントワネットまでも処刑する恐怖政治(テロル)でフランスを支配したのでした。
革命政権に有害であるとみなされると、形ばかりの裁判が行われて、弁解の余地も与えられずに被告は断頭台へと送られたのでした。
革命を主導したのは、かの悪名高きロベスピエール。
オペラの主人公アンドレア・シェニエは、反革命の詩を書いたロベスピエールの政敵でした。
したがって、オペラは
貴族の社会の革命前夜から始まり(第一幕)
革命が勃発。主人公アンドレアと彼を慕う貴族の娘マッダレーナは没落(第二幕)
マッダレーナは逮捕された想い人シェニエを救いたいので、彼女に横恋慕するロベスピエールの仲間のジェラール、かつての自分の使用人に自分を好きにしていいから彼を救ってくれという(第三幕)
ジェラールは彼女の無私の愛に打たれて処刑されてゆく主人公アンドレアとマッダレーナが一緒に処刑されるように取り計らう。二人は断頭台に共に引かれてゆく(第四幕)。
という内容です。
舞台上では誰も死なない。
けれども、フランス革命の歴史を知っている人ならば、舞台裏でどれほど多くの血が流されたのかを知っているという趣向です。
「ヴェルサイユのばら」と全く同じ時代の物語。
劇として、面白くないはずはないですが、殺されてゆく貴族の側にしてみればとんでもない時代です。
貴族や反革命反乱分子(とみなされた人々)を殺しまくったロベスピエールら革命家たちもまた、みな等しく断頭台の露と消えるという恐るべき時代でもありました。
さて、以上のあらすじを理解したうえで、ようやくオペラを鑑賞できます。
オペラは古典芸術
いかに演出されるかにオペラの面白さがあります。
オペラがわからないという人のほとんどは、お話を理解してから見ていないからわからないのではないでしょうか。
外国語だし。「アンドレア・シェニエ」はイタリア語で歌われます。
オペラの内容をネタバレしてはいけないなんてことは絶対にないどころか、あらすじを理解してから曲を聴くべきですよ。
まずはどんなお話なのかを知ったうえで、聴いてみましょう。
そしてあらすじを読んでどこが面白い部分、大事な部分かを前もって知っておくとオペラ理解も倍増します。
わたしの書いたあらすじからでも、オペラ物語の転換点が分かりますよね。
完璧に起承転結な構成の物語ですが、大事なのは「転」の部分、つまりヒロインのマッダレーナの献身。
ですので、当然ながらここにオペラの中でも最も聴きどころのアリアが置かれています。
わたしはここで歌われるアリアが大好きで、このアリアが舞台上で歌われるのを観たかったので、オペラ映画館上演をしたのでした。
マリア・カラスのマッダレーナ
わたしは最近はバロック音楽の器楽曲のことばかりを書いていますが、もともと文学畑の人間なので、台本のあるオペラや詩のあるリートが大好きです。
音楽とは「歌と踊り」でできているといわれますが、クラシック音楽を聴き始めたころは、とにかく「歌、歌、歌」でした。
歌にあふれたモーツァルトやシューベルトを心底好きになったのでしたが、オペラの魅力に開眼したのは、ある歌手の録音を聴いたことからでした。
その歌手の名前はマリア・カラス (1923-1977)!
マリア・カラスは、バッハのピアノ演奏におけるグレン・グールドみたいな存在です。
ある意味、とても異端で、常人の常識を超えた領域にいた、不世出、空前絶後のソプラノ歌手でした。
彼女を通じて20世紀のオペラは変革されたのです。
彼女なくして、20世紀における、忘れ去られていた19世紀前半に一世を風靡したドニゼッティ (1797-1848) やベッリーニ (1801-1835) のベルカント・オペラの復活はあり得ませんでした。
いわゆる「狂乱の場」と呼ばれる、ヒロインが狂気に憑りつかれて狂人として歌う、超絶技巧の歌が披露されるオペラです。
半音階のものすごい音階が延々と続く歌は、まさに狂人の歌の狂気の表現というわけです。
常人はこんな理解不能なうわごとを喋ったり歌ったりはしません。
ちなみにベッリーニは、ピアノの詩人ショパンに誰よりもメロディの書き方において影響を与えた天才オペラ作曲家です。
マリア・カラスは、しかしながら、いわゆる誰もが好むような美声のソプラノではありません。
彼女の声は、ある時は醜く、邪悪に、またある時は他の誰よりも可憐に抒情的に天使のように、またある時は誰よりも情熱的に、または喜劇では馬鹿みたいに無邪気で愉快で朗らかに。
生きて伝説となったマリア・カラスのことはまた機会があれば書いてみたいのですが、また別に機会に。
以前マクベス夫人のアリアについては以下の記事で少し言及しました。
本題の「アンドレア・シェニエ」に戻ると、カラスの歌った「アンドレア・シェニエ」のヒロインのマッダレーナの第三幕のアリア
を聴いて、電撃を打たれたかのように心動かされました。
この歌こそが、マッダレーナに片思いをしているジェラールの心を揺り動かす第三幕の歌。
オペラの起承転結の「転」を引き起こす歌です。
マリアカラスの歌は、他の歌手と聞き比べると感情の起伏がまさに命がけのヒロインの歌。
マッダレーナの辛い思いを表現する固く暗い声から絶望的な想いを表すピアニシモに悲しみ、激情、そしてクレッシェンドして到達する歓喜にまた堕ちる絶望の想い。
起伏のない部分とメロディが跳躍する部分の対比が素晴らしい、このアリアはマリアカラスにぴったりの歌です。
「ガラスの仮面」の憑依型女優の北島マヤのような歌手なのですから。
声は美しいばかりでは本当の気持ちは伝わらないのです。
マリア・カラスは自分が嫌う憎むべきジェラールに救いを求める哀しい無力な女性の心を歌います。
この不滅の録音ゆえに、わたしはジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」が大好きになったのでした。
さて、今回のロイヤルオペラハウスの公演。
わたしはこの歌を何度も聴いて知り尽くしていたので、主役カウフマンのシェニエの歌よりも、第三幕でマッダレーナの歌が出てきた場面で最も興奮しました(コヴェントガーデンのソプラノ歌手は並みの出来でしたが)。
映画館の大音響で聴くオペラはある意味、劇場で聴くよりも音響的に優れていて、名アリアを心から堪能できました。
オペラ全体の中では、起承転結の「転」に当たる最も大事な歌なので、やはりオペラ全曲を聴いて、そのうえでこのアリアを聴いてほしい。
貴族の生家が没落して、彼女をいまでも守ってくれている、かつての召使いの女性が身売りしたお金で生かしてもらっているという、あまりにもみじめな境遇のマッダレーナ。
もはや彼女には何も残されてはいない。
けれども彼(アンドレア・シェニエ)を思う心(愛)だけがわたしにはある。
だから牢獄に繋がれて明日には断頭台へと連れてゆかれる彼を助けてほしい。
わたしを好きにしてもよいからと、生殺与奪の権を持つジェラールに対して歌うのです。
人間ってすべてを失うと、最後には愛だけを拠り所にするって本当なのだと思います(母親ならば子供に全てを注いて死んでゆきます。ミス・サイゴンみたいに)
愛する人と一緒に死んでゆきたい、愛する人のためならば死んでしまってもいい、という思いは真実です。
愛する人が死んでしまった、いなくなってしまった世界に生き残っていたいとは思えないほどに誰かを愛するから本当の愛なのです。
オペラでは、権力者側のジェラールにも政権を牛耳る絶対権力者ロベスピエールに嫌悪されているアンドレア・シェニエは救えない。
けれどもシェニエと一緒に死ぬことはできると、明日殺される予定だった女性の身代わりになることでマッダレーナは牢に入り、シェニエと再会します。
最後の夜を経て翌朝、市民たちが罵声を浴びせる中、二人して従容と断頭台へと向かうのです。ここで幕。
聴きどころはマッダレーナやシェニエのアリア以外では、ほとんど20世紀の1897年の作品だけあって、大胆な転調の妙が楽しめるカラフルなオーケストレーションが素晴らしい。
オーケストラ音楽を改革したヴァーグナーの後の時代の作品であることを感じさせます。
イタリアオペラなのですが、声以外の部分も楽しめるわけです。
機会があればオペラ全曲を(二時間弱)、そうでなければマッダレーナのアリアだけでも聞いてみてください。
フランス革命前夜を象徴する舞曲
さて、今回映画の舞台を見て、全曲を通じて特に注目したのは、私が最近夢中になっているバロック音楽がらみでした。
第一幕では裕福な貴族の贅沢なパーティの情景が登場します。
庶民は食べるものがない。そこでなんと彼らは貴族の館に押し入ってくるのです。
まさにその場面、演奏されていたのはフランス宮廷舞曲のガヴォットなのでした。
最近はバロック舞曲のことばかりを考えていたのですが、アンドレア・シェニエの舞台上に、ガヴォットを踊る場面があったなんてとんと忘れていました。
ですので、今回オペラでガヴォットに出会えたことは本当に良かったです。
ガヴォットは、アウフタクト(弱起)の四拍子の舞曲。
弱い拍から始まって、第一拍の強拍を強調する、皆で一緒になって踊る舞曲です。
ジョルダーノのガヴォットは、バロック舞曲を真似た疑似バロック舞曲なのでしたが、ガヴォットを踊る貴族たちを見れたことはなかなか良かったですね。
ガヴォットはとても楽しい分かりやすい音楽です。あまりに陽気で飢えたパリ市民には怒りの矛先が向かっても仕方がない音楽といえるでしょう。
アルマンドの音符が多すぎたり、クーラントのようにリズムが難しくなくて、ガヴォットは四拍子の1,2,3,4の単純な崩さずに、規則正しく明確な拍をとるので非常にわかりやすい。
音楽を聴かない人には難解に聞こえてしまうバッハの組曲の中でも、ガヴォットだけは誰が聞いても楽しい音楽だと思いますよ。
バッハのガヴォットはたくさんありますが、わたしはやはりピアノで弾けるフランス組曲のガヴォットが一番好きかも。
バッハ作品として最も有名なのは、ヴァイオリンパルティータ第三番のロンド風ガヴォットです。
ガヴォットは普通は二部形式なのに、ロンド形式で書かれたガヴォットなので、少し変則的なのですが。
この曲は、ラフマニノフ編曲版ならばピアノでも素晴らしい。
もっと有名なのは、フランスの交響曲作曲家ゴセック (1734-1829) のガヴォット。
とてもチャーミングでクラシックを普段聴かない人でも、きっとどこかで聞いたことがあるはず。
リズムを規則正しく刻んでメロディが上がったり下がったりする特徴を持つガヴォットは、後世においてもバロック舞曲の中でも特別に愛されました。
古典的舞曲の代表として、ソヴィエト連邦のプロコフィエフの古典交響曲の第三楽章に採用されたりもしました。
同じ新古典主義のストラヴィンスキーもまた、美しいガヴォットを20世紀になって書いています。バレーの「プルチネラ」と同じ曲。
でも作者不詳のバロック時代の作品であるともいわれていて、ストラヴィンスキーの編曲なのかもしれないのですが。
また古典派では、意外なことに、モーツァルトもガヴォットを書いています。
1778年のパリ滞在中のモーツァルトは、バレー音楽「レ・プチ・リアン」をバレー上演のために作曲していて、その中にガヴォットが三曲も含まれています。
フランス舞曲には欠かせないのがガヴォットというわけです。
ガヴォットはフランス舞曲の中でも最もフランスらしい舞曲。
「アンドレア・シェニエ」の作曲家ジョルダーノが、民衆の反感を煽る貴族階級のダンスとして、第一幕にガヴォットを含めたことは、歴史的に見ても極めて正しかったわけです。
オペラでは、優雅にガヴォットを踊る貴族のダンスパーティに飢えた民衆が押し寄せてくるという、恐ろしい事態に進展します。
ガヴォットが優雅であればあるほど、旧体制によって打ちひしがれていたパリ市民たちの悲哀と怒りがより露わになり、優雅なガヴォットとのギャップゆえに、オペラ「アンドレア・シェニエ」のテロルの時代の無情さがいやがうえにも高まるわけです。
歴史的人物としてのアンドレ・シェニエは、国王ルイ16世や王妃マリー=アントワネットなどを断頭台に送ったロベスピエールの政敵として、まさにテルミドールのクーデターによるロベスピエール失脚の二日前に殺されたのでした。
あと三日死刑執行が遅れていれば、革命後のフランス再建のために役立ったかもしれなかった惜しい人材でした。
ちなみに、幸運にも牢獄で死を待ちながらも断頭台に送られなかったのは、革命後のフランスを帝政に導くナポレオン・ボナパルトの妻となり、皇后となった貴族の娘ジョゼフィーヌでした。
ロベスピエールのジャコバン政権の崩壊がもう少しばかり遅れていれば、ナポレオンの皇后は別の人になっていたのでしょうね。
でもジョゼフィーヌのお話はまた別の機会に。
オペラ全曲録音
オペラの字幕付き録音はこちらです。
舞台が見えないとオペラの愉しみは半減ですが(どんな演技をしているかなどは分かりません)日本語歌詞付きで物語と音楽を前以って理解してから、本場イタリアオペラの舞台映像を愉しまれるのもいいですね。
カラスのライヴァルとみなされていた、美声のテバルディのマッダレーナは、演技派カラスのような圧倒的な凄みはありませんが、可憐で清楚な少女を演じるには素晴らしい声です。
恋人の命乞いをするには彼女の歌はわたしには美しすぎるのですが(アリアは美声だけではだめなのです)。
わたしが映画舞台で見たパッパーノ・カウフマンの全曲動画(最新の画質と音質)もあります。
英語・日本語字幕はないのですが(スペイン語のみ)、あらすじがわかっていれば楽しめます。
こちらはマッダレーナのアリアの部分だけ。1:22:00から。
アリアの楽曲解説
少し専門的で、蛇足かもしれませんが、このアリアの導入部の弦楽器のソロ、半音階的に揺れ動いて、ピアニシモになって♩=44と遅くなってから奏でられるメロディ、なんとも美しい。
色調(調性)は揺れまくりますが、基本的にホ調ですね(ミとラが曲の中心)。
また、マッダレーナが静かに語るように歌い出してから、突然激する部分でのオーケストラの響き、Mosso(急速に)で速くなる部分、ヴァーグナーの「二―ベルングの指輪」の「火の神ローゲの動機」の中の印象的なトレモロ(音の離れた音をトリルのように速く鳴らすこと)の響きにそっくりです。
「燃え上がる思い」が引用されているのでしょうか。
全ての19世紀20世紀イタリアオペラに共通するテーマは「献身的な愛」です。
ジョルダーノと同じくヴェリズモオペラを書いたプッチーニもそうなのですが、女性が男性のために全てを捧げて破滅するという内容の作品ばかりが世紀末には作られます。
ヒロインが死ぬオペラばかり。
ああオペラって。
でもアンドレア・シェニエは男も一緒に死んでしまうので、その点は革新的でしょうか(笑)。
誰かのために死んでもいいと思うほどの愛、平和な時代には似つかわしくないのかもしれませんが、日本も含めた平和に見えている先進国もまた苦しい時代を迎えようとしています。
こんなにも狂おしい愛の歌は舞台の上だけにとどめておきたいものです。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。