シェイクスピアと音楽(19): 魔女ジャンヌ・ダルク
シェイクスピアは52年の生涯で、37の劇作品を完成させたといわれています。シェイクスピア死後数年たった1623年に、シェイクスピアの劇団の同僚らによって出版された最初の全集、いわゆる第一フォリオに含められた作品総数が37作だからです。
実際にはシェイクスピアとほかの作家との共作の存在も知られています。そういう共作も含めると、シェイクスピア作品の総数は38になったり39になったり40にもなりえます。
そして全集に含まれた37作品のなかにも他人の書いたものが含まれていることも判明しているのです。
どこからどこまでがシェイクスピアの作品なのでしょうか。
シェイクスピア全集には含まれなかった「エドワード三世」
全集に含まれていないけれども、近年とみに注目を浴びているのが史劇「エドワード三世」。
エドワード三世は、いわゆる英仏百年戦争の発端の原因を作ったプランタジネットの英国王。12世紀にフランスのアンジュー伯アンリが、英国を統一したフランス・ノルマンディーのウィリアム征服王の王朝を受け継ぎ、アンリがイングランドに打ち立てた王朝がプランタジネット王朝。
イングランドにおいて、アンジュー伯アンリは英国王ヘンリー二世と呼ばれるようになりました。英語の喋れないフランス人のイングランドの王様です。
ヘンリー二世の息子たちには、英国人には、怪傑ロビンフッドに登場する王様として知られる、十字軍で有名なリチャード獅子心王、そしてシェイクスピアが史劇の主人公にも据えたジョン欠地王がいます。
というわけで、シェイクスピアの史劇はプランタジネット家の王様の歴史、そしてのちに薔薇戦争と呼ばれるようになるプランタジネット家の内乱を収めたのが英雄ヘンリー・チューダー。
シェイクスピアを庇護したエリザベス女王はチューダー家の君主ですので、シェイクスピアが薔薇戦争を題材とした「ヘンリー六世」を劇作したのは非常に意味深いのです。チューダー王朝の正統性を謳う史劇というわけです。
さて、「エドワード三世」のエドワード王は、後に引き起こされる薔薇戦争の遠因を作った人物。
五人の男子を作り、それぞれが分家となります。王族の分家がたくさん作られますが、長子相続の原則に基づかない王位継承が悲劇となるのです。
エドワード三世の五人の息子は:
エドワード黒太子(王位継承者:百年戦争の英雄エドワードですが、エドワード王より先になくなり、彼の息子であるリチャードが長子相続制に基づいて、リチャード二世となります)
クレランス公ライオネル(曾孫のアンがヨーク公の嫁ぎます)
ランカスター公ゴーントのジョン(息子のヘンリー・ボルンブルックがリチャード二世を廃してヘンリー四世となります)
ヨーク公エドワード(クレランス家のアンとヨーク家のケンブリッジ公リチャードの息子のリチャードが「ばら戦争」を引き起こします)
グロースター公トーマス
というわけですが、悲劇はリチャード二世のときに生じます。リチャード王がヘンリー四世に王位を譲り渡したために、王位継承がゆがんだのです。
リチャード二世の悲劇もまた、シェイクスピアは劇作しています。
語彙文体コンピュータ解析
コンピュータ語彙解析によって、シェイクスピア真作とされる「エドワード三世」にはシェイクスピア以外の第三者の手によって書かれた部分があると指摘されています。
コンピュータ語彙解析は非常に優れた分析方法です。
本邦の「紫式部」と呼ばれる女性の筆によるとされる「源氏物語」も、光源氏死後の世界を描いた宇治十帖はおそらく別人の筆になるものという解析結果も出ています。紫式部の娘が書いたという説が濃厚。
文体は個性です。
私も別の人の文章を読んで、自分とは全く違う文体や語彙、書き手の癖を見つけて、自分の文章を書く上での参考にしていますが、私の書く文章には明らかに私の書き癖があります。
私の場合は日英ほぼ完全バイリンガルですので、英語の癖で、どうしても主語を書いてしまう。日本語で文章を書いても、推敲段階で余剰な主語を日本語文章から削除することがしばしば。日本語を一気呵成に書くと、主語がないとなんとなく落ち着かないのです。
ですのでNoteでほかの方の投稿を読むとき、自分とは全く違う書き方を面白く思うこともあります。
さて、コンピュータ語彙解析。
「ロミオとジュリエット」にもライヴァルだったクリストファー・マーロウの文体も紛れているなど、現代ならば盗作疑惑も浮上してきそうな裏側の事情さえも見つけることができるのですが、37作の正編のなかで、他人との明らかな共作、または合作と見做される作品に、シェイクスピア初期の傑作「ヘンリー六世」第一部が挙げられます。
「ヘンリー六世」第一部の場合
「ヘンリー六世」はシェイクスピアの首都ロンドンにおけるデビュー作。
処女作には作家の全てが詰まっていると言われていますが、シェイクスピアの「ヘンリー六世」三部作もそんな作品です。
歴史劇には、喜劇も悲劇も全てがあり、悪人にも同情すべきところがあり、善人にも愚かしいところがある。「ヘンリー六世」には、こういうシェイクスピア的な魅力が満載です。
三部作の中の物語の発端となる第一部は、三作の最後に書かれたとされる問題作。
1590年代に舞台にかけられて以降、ほとんど20世紀まで忘れ去られていた作品です。再評価は20世紀になってから。
イギリス側から見た魔女ジョアン(ジャンヌ)
再評価が遅れた理由はおそらく、第一部はバラ戦争の中核を描き出す、続く第二部第三部の前日譚の趣があり、劇の最後は劇的には締めくくられないために、独立して上演すると劇的効果に乏しい作品だから。
さらには推論ですが、フランス側から見れば百年戦争の英雄であるジャンヌ・ダルク Joan of Arc / Jeanne d'Arc (1412-1431) が「聖女」ではなく「魔女」として描かれていること。
ジャンヌは「魔女」として火刑に付されて殺害され、二百年以上もそうだったと信じられていたので、ジャンヌが魔女でも英国人シェイクスピアが特に事実を歪曲しているわけでもないのですが。
ですがナポレオン帝政時代に国威高揚のために救国の英雄が必要とされて、百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクが注目されるようになり、ジャンヌは魔女から聖女に一気に格上げされて、20世紀に至ると、死後400年の歳月にもかかわらず、カトリック教会は魔女認定の誤りを認めたのでした。
「ヘンリー六世」第一部の現代的見どころは、間違いなく魔女ジャンヌ・ダルクです。
「ヘンリー六世」と「ばら戦争」。
さて、ジャンヌが登場するまでの背景を説明すると、英仏両国の二つの王冠を戴いた征服王ヘンリー五世が急逝して、息子ヘンリー六世が即位するも、幼児なので、五世王の弟のグロスター公が摂政となりますが、幼君が玉座に就くと国が乱れることは、古今東西、必定のことわり。
ですので、海の向こうのフランス国内では英仏戦争は継続中なのに、長子相続の伝統を盾にとって、王家の分家である白薔薇を紋章に頂くヨーク家と本家の赤薔薇のランカスター家が対立。エドワード三世時代の因縁を持ち出してきて争うのです。
このように英国側に幼い王の出現して王家が割れているとき、いまだに続いてた英仏百年戦争、ここで侵略されている劣勢のフランス側に救世主ジャンヌが登場。
「ヘンリー六世」はこうして開幕します。
日本語によるリモート上演「ヘンリー六世」
YouTubeで素晴らしい動画を見つけました。
コロナ禍におけて、日本人キャストによって演じられた「リモート演劇」。選ばれた作品は「ヘンリー六世」三部作でした!
この魔女ジャンヌの場面をご覧ください!鳥肌立ちますね、凄いです。
シェイクスピアは英語でなくても、日本語でもやはりすごい!お勧めです。
「ヘンリー六世」の中の魔女ジャンヌ
シェイクスピアはジャンヌを聖女としては描きませんでしたが、聖母の声を聞いて王太子のもとに馳せ参じた有名なエピソードはきちんと収録しています。
こうしてシャルル王太子に認められるジャンヌは悪霊の力を借りて戦っていると英国軍には信じられて行きます。仲間割れする英国軍で唯一孤軍奮戦するトールボットをジャンヌの軍は壊滅させます。
極めつけは第五幕第三場、ジャンヌが英国兵にとらえられる直前の悪霊の召喚の場面。
面白いので、全部引用します。是非舞台でこの悪霊たちとジャンヌのやり取りを見てみたいです。
悪霊から見放されたジャンヌ!
なんだか古代世界の戦争で、呪術師を前線に並べて呪いあってから戦争を始めていた頃のようですね。戦場での魔女の役割とはそのようなものでしょうか。
フランス人はこんなジャンヌを見たがらないでしょう。
悪霊と同じ眷属の魔女として、ジャンヌダルクをシェイクスピアは描いています。現代においては、フランスのみならず、この劇が上演されづらいわけです。
魔女とは?
でも中世ヨーロッパでは、魔女の存在は当たり前のことでした。
医学と魔術が混同されていて、薬草使いは魔女と呼ばれました。教会を通じて行われない民間治療はみんな魔術。
だからシェイクスピアの記述は当時の風俗を知るうえで非常に貴重。
そしてイギリス軍が魔女ジャンヌを呪いながら焼き殺したのも事実。ジャンヌは当時何百人何千人と魔女認定されて殺された犠牲者の一人。
全く世間の常識とは恐ろしい。
魔女を信じる根拠を現代人も受け継いでいます。
2020年のコロナ禍初期において、迷信的ともいえるウイルス除けのペンダントが世界的にバカ売れしたり、大震災の後、「放射能は感染る」などと福島の人たちが差別されたりと非科学的なことが今でも信じられている事実を知れば(広島長崎原爆の被爆者もそうやって差別されました)嘘ではなかったと理解されるでしょうか。
シェイクスピアの書いているような悪霊を召喚できる魔女なんて存在しない。でもいまでも占い大好きな人たちは信じているのかな?
新興宗教はますます栄えているし。
当時の社会的常識では、魔女の存在はリアルでした。
文豪シェイクスピアの筆から描かれるジャンヌ像には真実味があります。
そういう意味で「ヘンリー六世」第一部を、シェイクスピアの書いたそのままのスタイルで上演することには、今日的に大変に意味があるはず。
ジャンヌ・ダルクは「マクベス」の
の魔女たちと同類なのです!
「ヘンリー六世」を本家BBCはテレビ映画「Hollow Crown」シリーズの一作品として映画化。
「Hollow Crown」は訳するならば、直訳の「空っぽの王冠」を意訳して「虚栄の王権」。公式の邦訳では「嘆きの王冠」ですが、あまり良い訳には思えません。いずれにせよ、王冠とは虚しい権力である王権を象徴する、むなしいアイテム。ロード・オブ・ザリングの指輪と同じ。
テレビ映画「Hollow Crown」で語られる英語は、シェイクスピア劇そのままの古い英語。劇的効果を高めるために原作からかなり短縮されていますが、シェイクスピアらしさを十二分に堪能することが出来ます。
魔女ジャンヌの姿は、The Hollow Crownでは抑制されながらもそれなりに見ることができます。
十字架上のジャンヌ:シェイクスピア版
シェイクスピアは火刑上の魔女ジャンヌに次のようなセリフを喋らせています。
悪霊とは無縁であるという言葉、上記の第四幕の場面と矛盾しますが、このような二枚舌を使うのが魔女という認識だったのでしょう。
敵である英国側には偽預言者以外の何物でもないのです。
First, let me tell you whom you have condemn'd: 最初に誰をおまえたちが糾弾しているのか教えよう
Not me begotten of a shepherd swain, わたしは羊飼いの父親などから生まれたものではない
But issued from the progeny of kings; 徳高くて聖なる王族の血を引くものだ
Virtuous and holy; chosen from above, 天より選ばれし者
By inspiration of celestial grace, 天よりも霊感において
To work exceeding miracles on earth. 地上において類まれなる奇跡を行うのだ
I never had to do with wicked spirits: 悪霊などと何の関わりもない
But you, that are polluted with your lusts, だがおまえたちは欲望に穢れ
Stain'd with the guiltless blood of innocents, 無辜の血に染まり
Corrupt and tainted with a thousand vices, 無数の悪行に身は腐っている
Because you want the grace that others have, だから他人が持つ恩寵をお前たちは欲しがり、
You judge it straight a thing impossible ありえない奇蹟が行われることを理解できないおまえたちは
To compass wonders but by help of devils. すぐに悪霊の仕業だと決めつける
No, misconceived! Joan of Arc hath been 違うぞ、わかっていない、ジャンヌ・ダルクは
A virgin from her tender infancy, いたいけな幼子の頃から清らかで
Chaste and immaculate in very thought; 穢れなく無垢なる処女だ
Whose maiden blood, thus rigorously effused, 乙女の血はこうして無惨に流されて
Will cry for vengeance at the gates of heaven 天国の門において復讐せよと叫ぶことだろう
矛盾しているシェイクスピアのジャンヌ・ダルク。
ここまで劇を見てきた人にはジャンヌの弁明は嘘八百であるとわかります(YouはThouの複数形。庶民のジャンヌはThouという言葉を英国軍相手に使い続けてきたので敬語ではここは訳せません)。
さらには乙女ジャンヌは処女ではないというオチまで。自分は妊娠していると語ります、そしてその父親は王太子シャルルではなく、アランソンだと。
この部分は聖女ジャンヌが好きな人には許せない描写かもしれません。
シェイクスピアのジャンヌはこのようなものでした。
でもシェイクスピアの後、ジャンヌの聖人化は進められて、以下のような作品中で限りなく美化されてゆくのです。
聖女ジャンヌのための二次創作
ジャンヌのための音楽としては、ジャンヌを英雄として愛したドイツのフリードリヒ・シラーの戯曲「オルレアンの乙女」をオペラ化した、チャイコフスキーの「ジャンヌダルク」が素晴らしい。
若いころのヴェルディも同じシラーに作曲していますが、チャイコフスキーの作品の方が優れています。
ジャンヌ・ダルクの悲劇!シラー原作だけあって劇的効果はシェイクスピアにも負けません!
また20世紀スイスの作曲家アーサー・オネガーは壮大なオラトリオ「火刑上のジャンヌダルク」を作曲しています。
不協和音だらけの恐ろしげな音楽は、ジャンヌが体験したであろう恐怖を描き出すにふさわしい音楽。
20世紀後半にはカナダの人気ポピュラーシンガー、ロバート・コーヘンがJoan of Arcという曲を作曲。1971年の発表。
火刑上のジョアンの幻影に語り掛けているような歌。
アメリカの小説家マーク・トゥエインはジャンヌ・ダルクに傾倒して、世界的ユーモア作家と知られていたにもかかわらず、まじめなジャンヌのための歴史小説を書いたりもしています。
以上、シェイクスピアの「ヘンリー六世」第一部と、後の聖女ジャンヌのための二次創作を比較してみて、歴史とは本当に解釈次第なのだなあ、歴史像とは変わり続けるのだと改めて思い知りました。
「ヘンリー六世」、最高に面白いです!
石川雅之「純潔のマリア」
現代日本からは、漫画「純潔のマリア」がジャンヌ・ダルク時代の魔女という迷信に焦点を置いたファンタジー作品、なかなか楽しめました。
ファンタジー作品で、作中、魔女は空を飛んだり、竜を召喚したりと魔法を使いますが、魔女の社会的意義をいろいろ考えさせられるリアリティがありました。
性的欲求不満の兵士に性的ファンタジーを夢見させたという夢魔サキュバスを使って戦争を停滞させる魔女マリア。こんな魔女解釈もあり得るのだと目から鱗でした。
アニメにもなっています。
大天使ミカエルの語る「神の愛」とはなんであるかの深め方が足りないとは思いながらも(神は見守るだけ、「神の愛とは」の答えは語られません)、「人の愛」の在り方を描いた作品として感銘深い作品でした。
性的仄めかしがふんだんなので子供向きではないですが、名作だと思います。
あとがきには次のような解説がありました。
中世の魔女を理解する上で秀逸だと思うので、一部を引用します。
現代にも信じられている(らしい)魔女
シェイクスピア劇の世界は、魔女と呪いと血族同士の殺し合いの世界。
でも、非科学的なウイルス除けのお守りが山のように売れる21世紀とあまり大差のない世界にわたしには思えます(中国などでは売れまくり、政府は販売を禁止しました)。
魔女の火刑を見せ物として楽しんだ大衆たちは、それこそSNSにおいて誰かの失言を広めて炎上させたり、ついこの間の韓国のハロウィン事故の犯人=魔女は誰だとか「魔女」探しに躍起になっている人たちとあまり変わらない。
さらには、ウクライナ・ロシアの戦争が欧米対ロシアの代理戦争でしかない図式は、フランスやヨーク家やランカスター家の争いと大差のないものです。
「百年戦争」や「ばら戦争」と、どこが違う?
人の本質は変わらない。いつまでも。
だから古典であるシェイクスピア、上演されるならば、今すぐにでも、今現代のための劇としてよみがえるのです。
人の本質は変わらない。
でも我々がシェイクスピアなどを見て読んで考えて、人の本質を自覚するとき、人は変わることができると思います。
長大な論考になりましたが、読んでくださりありがとうございました。
この記事が参加している募集
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。