シェイクスピアと音楽(6): 妖精パックの見た人間世界
さて今回はシェイクスピア劇の中でも最も人気の高い喜劇「夏の夜の夢」のパックのお話です。
引用した歌は、二十世紀アメリカの女流作曲家エイミー・ビーチ Amy Bech (1867-1944) 作曲の女性アカペラによる妖精の歌。
妖精パックとは
上記の妖精の歌は、人間ばかりだった第一幕が終わり、第二幕冒頭、妖精パックが初登場して
とパックが出会い頭に出会った別の妖精に訪ねた言葉への返事。
こんな歌の返事で会話するのは妖精らしくて素敵です。ここから夢幻劇の始まり始まり。
妖精パックは、彼が仕える妖精の王様オベロンよりも、美しい妖精の女王ティターニアよりも、「夏の夜の夢」においては重要な役柄を担っています。
物語が転換する場面には、必ずパックが出てきます。まさに主役なのです。
パックの悪戯から引き起こされる一夜の騒動が「夏の夜の夢」。
パックが恋人たちの瞼に垂らした、一眼見た相手に恋に落ちてしまう魔法のLove-in-idlenessの有効期限は一夜だけ。
文字通り、「ある夏の一夜の夢」なのです。
英語の原題は
Theではなく、Aであることが意味深い。ただ一度の特別な、二度と起こり得ない夜ではなく、またいつだってこんな夜は訪れるというニュアンスを感じさせます。
Midsummer なので、「真夏の夜の夢」と、かつては訳されたこともありましたが、Midsummer とは、まだ暑くならなりきらない夏至のこと。夏至の日の前の夜、でも「ある夏至前夜の夜の夢」では語感が美しくない。
「夏の夜の夢」という訳が正しくて美しい劇の題名。
日本文化では夏至の日は意味深くないけれども、西欧ではいろいろ文化的宗教的に重要なのです。ちなみに南半球のニュージーランドでは冬至の日(つまり北半球の夏至の日)はマオリ民族の新年の日。
日本文化では夏至も冬至も重要視されないのは興味深い。
地球温暖化以前の十六世紀終わりのイングランドの森は夏至の夜には涼しく心地よいものだったことでしょう。
一見、他のシェイクスピア喜劇同様に恋人たちのドタバタ劇にしか見えない「夏の夜の夢」ですが、妖精パックの次の一言がこの喜劇の本質を言い当てています。
妖精から眺めた人間世界!
このセリフは「夏の夜の夢」の中でも、最も重要なものだとされています。だから検索すれば、ミームもたくさん見つかります。この画像もネットで拾ってきたもの。
この言葉の意味する「夏の夜の夢」の世界を、妖精パックを通じて読み解いてみましょう。
死せる詩人の会 Dead Poets Society
日本の高校生だった頃に、今は亡きアメリカの名俳優ロビン・ウィリアムズが名門進学校の熱血英語教師に扮した
という映画を観ました。
大学受験前のことで、アメリカの名門大学に入学するために青春自体を試験の点数獲得のために捧げる生活を強いられた男子高校生たちの生き方に深い感銘を受けました。
映画は、ウィリアムズ演じるキーティング先生と彼を慕う生徒たちの物語。
生徒の一人ニックは先生に感化され、演劇に目覚めます。
勉学のみに打ち込めと説く父親の反対を押し切り、「夏の夜の夢」の主役パック役を得て、見事に演じ切るのです。
それまでの自分は、シェイクスピアといえば、マクベスやリア王のような深刻な悲劇にしか興味はなかったのですが、この映画のパックを通じて、「夏の夜の夢」が大好きになりました。
触発されて原作を日本語で読んで、改めて「夏の夜の夢」の世界に魅了されました。
最初は妖精たちよりも、主にシェイクスピアの書いた恋人たちの美しい愛の言葉に惹かれたのですが、今では人間たちのの言葉よりもパックやオベロンらの妖精の存在に心動かされます。
名作漫画「ガラスの仮面」
パックの面白さをまだ知らない方は、世紀の演劇漫画「ガラスの仮面」を手にとってご覧になって下さい。
あなたがシェイクスピア劇の魅力に取り憑かれること請け合い、最高の「夏の夜の夢」へのイントロダクション。
演劇漫画「ガラスの仮面」が取り上げるシェイクスピア劇は、ハムレットでもリア王でもなく「夏の夜の夢」ただ一つ。手塚治虫先生の演劇漫画「七色インコ」はハムレットでしたが、ここが手塚先生と美内すずえ先生の求める演劇像の違いと言えるでしょうか。
主役パックを演じるのはもちろんマヤ!
もう古典と呼んで良い名作漫画ですので、たくさん引用しましょう。
つまり、妖精の王様と女王様は夫婦喧嘩の真っ最中。
その二人の犬も食わない夫婦喧嘩に並行して繰り広げられる人間たちの駆け落ちや大公の結婚式のための準備に浮かれる職人(つまり庶民)たちの馬鹿騒ぎ。
そこに使い走りのパックが登場。
前回紹介した妖精たちの子守唄の場面はこんなふう。
とまあ、こんな具合で「ガラスの仮面」を読むと、「夏の夜の夢」がどのような物語なのか、すぐに理解できるのです。漫画らしい大胆解釈も楽しめます。
パックによるエピローグ
終幕、全てのドタバタ劇にカタがつき、妖精たちが大団円の合唱を歌います。
シェイクスピアの言葉に美しい音楽をつけたのは、もちろん史上最高の「夏の夜の夢」のための音楽を書いたフェリックス・メンデルスゾーン。
妖精たちの華麗な乱舞の後に、舞台上に現れるのは、最後に台詞を述べる妖精パック。
上記の映画「今を生きる Dead Poets Society」の動画で、ニックが最後に観衆に向かって語り掛けていた言葉。
このパックの言葉、「夏の夜の夢」は何度もオペラ化や映画化されていますので、この言葉だけを取り上げて編集した動画を見つけました。編集者さんに大感謝です。
一夜の夢の騒動は「ロビンが元通りに」という言葉で幕切れ。
ここで冒頭に挙げたパックの
というセリフを振り返ってみましょう。
死ぬ定めの人間たち
人間界を超越したImmortal のパックから見れば、永遠の命を持たない人間など、あまりにも愚かしい。
この喜劇が可笑しいのは、ただ単に恋人たちの気持ちが入れ替わったり、妖精の女王が社会的下層階級のロバの首を被ったボトムに恋したりする笑いを誘う設定以上に、階級制度が厳しい古代ギリシアのアテネにおいて、普段は社会的制約に縛られている、上流階級のヘレナやテメトリアスらが下層階級のボトムやクィンスたちと同じように馬鹿げた笑劇を演じること。
上流階級の貴族だろうが、下級階級の庶民だろうが、皆平等に死ぬべき定めの人間たち。
普段はこんな風なのに
日本語訳だけ読んでいるとわからないのですが、パックは人をHumanとは呼ばずに、Mortalsと呼ぶ。
パックはImmortal。
アテネの高貴な貴族たちも下賤な庶民も皆、同格、妖精の視点から見れば。
古代アテネを舞台に繰り広げられる喜劇は、厳しい階級社会のシェイクスピアの生きていた頃の英国社会の風刺。
以前紹介したヴィクトリア英国を忠実に再現したアニメ「エマ」にはこんなセリフがありました。
16世紀のシェイクスピア時代から綿々と二十一世紀の今日まで続く英国階級社会。
不死の命を持つパックからしてみれば、しかしながら、人間の誰もがどんな階級に属するのにも関わらず、馬鹿なことをしている存在なのです。
でもですね、ここまで深読みしなくても、「夏の夜の夢」はただ見ているだけで笑えるシェイクスピア喜劇の大傑作。
妖精の女王はロバの首に恋をする。
教養のないロバの首のボトムさえも、絶世の美女という設定の妖精の女王様に愛される!
麗しい貴公子が妖精に愛されたりする物語は多々ありますが、こういう倒錯した世界は、もちろん人間世界への風刺。
庶民出身のシェイクスピアはこうした物語を書いて、貧しい身分の彼を虐げていた階級社会を暗に批判して溜飲を提げていたのでは。
トリックスター
妖精パックは、トリックスターとしばしば呼ばれます。
日本の演劇の狂言回しのような存在ですが、演劇の基本である予定調和の世界に徒波を立てて、世界を狂わせるのですが、最後には乱された世界は元通りになる。
ややこしい男女の中も、イザコザの末に元の鞘の中に戻る。
この役割を最高に楽しい形で演じたのが、目に見えない妖怪のように、自由気ままな妖精パック。
人間を超越した存在の彼がしている悪戯は、日本文化でいうところの妖怪の仕業。
後年、シェイクスピアはロンドンでの最後の劇として、同じような妖精と魔法の幻想劇「テンペストを書き、パックに似た空気の精アーリエル(エーリアル)を登場させます。
アーリエルは神秘的で変幻自在。
魔術師プロスペローに仕えるのは、パックがオベロンに従属している構図とまるきり同じ。
でもパックは王であるオベロンにさえも囚われないけれども、アーリエルはプロスペローの魔術によって自由を奪われた存在なのです。
アーリエルはプロスペローのために働くけれども、それは自由になりたいがため。
パックとアーリエルは同じような超自然界の存在でありながら、全く違う。
天真爛漫なパックには悲しみの陰はない。
歌を歌い、怪鳥ハーピーに姿を変えたりもするアーリエルは天衣無縫に美しいけれども、悲しげです。
名作「テンペスト」は喜劇と悲劇の入り混じった、どこか虚無的な作品。
「夏の夜の夢」(1597年または1600年ごろの作品)と「テンペスト」(1616年の作品)を見比べると、前途洋々たる若かったシェイクスピアと、人の世の酸いも甘いも味わい尽くして人生の終焉に思いを馳せる老いたシェイクスピアとの創作の変化に、人生の複雑さを思わずにはいられません。
パックのための音楽
パックのための音楽はたくさんあるようで、作曲するに難しいのか、あまり存在しないようです。
「テンペスト」のアーリエルの歌は本当にたくさんあるのに。
森を駆け巡るトリックスター、パックを音楽化した最高の例は、フランス印象主義の大作曲家クロード・ドビュッシーが彼の人生の後半に書いたピアノ前奏曲集の中の「パックの踊り」。
単純な跳躍する音型がグリッサンドで一気に跳ね上がる。とめどもなく飛び回る飛び跳ねる音は自由奔放な妖精パックそのもの。
私の大好きな音楽です。
ドビュッシーは晩年、スキャンダラスな略奪婚を行い、彼の音楽的才能を讃えていた人たちから見捨てられて四面楚歌な結婚生活を送るのですが、幸い一粒種の女の子を授かり、目に入れても痛くないほどに溺愛するのでした。
シュシュ(キャベツちゃん)という渾名で呼んだ愛娘に、イギリスの著名な絵本画家でイラストレーターのアーサー・ラッカムの画集や絵本を父娘で楽しんだとか。
鼻持ちならない不道徳な無頼感ドビュッシーの持っていた愛らしい一面です。
前奏曲第11番「パックの踊り」は、アーサー・ラッカムの挿絵にインスパイアされたとも言われています。
ドビュッシー晩年の英国趣味は間違いなく、シュシュのために買い揃えた英語の絵本や画集のおかげ。
シュシュのための有名なピアノ曲の題名は、フランス人なのにわざわざ英語で、
と名付けられたほど。
舞台上の俳優演じるパックは大きな体躯なのですが、ラッカムの描くパックは小さくて、本当に妖精なのですね。ピーター・パンの相棒ティンカー・ベルを思い出させます。
妖精パックは本当に魅力的なキャラクター。うされて然るべき、シェイクスピアの作り出した、まさにImmortalな妖精なのです。
パックから見た人間世界の風刺。これが「夏の夜の夢」の本質なのだと、わたしは思います。
「夏の夜の夢」、野外劇場で上演されるような機会があれば、必ず見に行ってくださいね。シェイクスピア劇の凄さに魅了されること間違いなしです。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。