月光に照らされた睡蓮:ハイネとシューマンの歌曲に寄す
先日、音楽は音によって理解されるべき、という正論を語ったが、いうまでもなく、音楽は言葉の伝えるイメージを伝える道具にもなる。
むしろ、言葉のイメージを音楽化した音楽の方が古来より好まれるのは、人は言葉によってコミュニケーションをして、感情を歌の翼に乗せて歌い続けてきたから。
メロディのタイプは文化ごとに千差万別。でも歌わない民族というはない。
人にとって人の声以上に美しいものはないという。どんな文化圏においても、どの時代においても例外はない。ヴァイオリンやヴィオラなどの弦楽器の音色は人の声を模して作られている。
全ての絵画が色と線だけの抽象絵画ではないように、音楽もまた、音の動きと重なり合いによる抽象音楽だけが正しいわけではない。
歌詞など、音楽が言葉に寄り添うとき、音楽は純粋音楽としての自立性を失ってしまう。言葉を補助する役割に堕してしまうことさえも。でも明らかに音楽をつけられた言葉もまた、歌となったとき、言葉は音楽なしに独立して理解はされなくなる。言葉もまた、音楽の中に呑まれてしまう。
言葉と音楽は補完し合うのだ。
新進作曲家シューベルトは大詩人ゲーテの詩に無断で音楽を付けて、大詩人に作品を聞いてもらおうと楽譜を送り付けたが、ゲーテはシューベルトを一切無視した。
ゲーテは完璧な言葉で書かれた自分の詩句に音楽を付けられることで、詩の解釈が音楽的イメージに制約限定されることを嫌ったのだ。「糸を紡ぐグレートヒェン」などという見事な歌曲をゲーテはどう評価したのだろうか。
恋に揺れる少女の乱れる心が糸車を模したピアノ伴奏に煽られる激情をやはり老いたゲーテは嫌ったのだろうか。詩はいろんな解釈が可能だが、こうして見事な音楽が付けられると、言葉は初恋に揺れる少女グレートヒェンの心の不安にばかり焦点を当てることになる。これはいろんな詩の読み方の一つでしかないとゲーテは嫌がったかもしれない。
音楽は言葉や世界を連想させるが、あくまで抽象的なものだ。
だからどんな素晴らしい音楽であっても、具体的な言葉のイメージそのものになり得ない。だから具体的なイメージを聴き手に求めるときには、言葉が不可欠になる。歌詞がなくても標題をつけたりするのだ。
確かに抽象的な幾何学模様ばかりだと芸術世界は狭くなる。
言葉のある音楽は、音楽を言葉の世界に縛り付けることで具体的なイメージを聴き手に想起させるが、詩のイメージにピッタリと寄り添った音楽だと、言葉とない音楽以上の感動を聴き手に与えることもある。
ゲーテは嫌ったのだけれども。
芸術は世界を模倣する。
鳥の声を模した音楽に存在意義があるのは、人は自然の美を我々だけが持つ独自の表現方法で再現することを好むからだ。美しい言葉で詩にしたり散文にしたり、メロディと和音を付けたり、ディフォルメしていろんな表現を楽しむ。
我々の目や耳といったフィルターを通じて作品に込められた感動を追体験してみよう。人は美的対象から得た感動を我々独自の方法でアウトプットしてその感動を永遠に忘れないでいようとする。
わたしの住んでいる街にある、大きくて美しい湖と、わたしの勤務する大学の池で、睡蓮を見た。
夏真っ盛りの今がちょうど見頃で、そして日に照り返る鏡のような水面に浮かびながら風に揺られている見事な睡蓮を見ていて、ある音楽を思い出した。
夕暮れの湖にて
夏時間という夏の間の数ヶ月だけ時計の長針を一つ早くする国に住んでいるので、日暮れがとても遅い。こちらは地中海性気候な南半球の島国。
夏時間がないならば、日暮れは8時くらいになるが、サマータイムは夕暮れを意図的に遅らせている。9時頃になるまで夕暮れは訪れないのだ。小さな子供たちはもう寝る時間だ。白夜に眠るかのように彼らの夜はまだ明るいままだ。
サマータイムのおかげで晩餐の後、大人たちには近くの湖や川や海岸などの水辺に夕涼みに行くことが大人気。
夕涼みに特別感動するほどには日中は暑くはないのだが、一周するのに小一時かかる湖縁をゆっくり散歩するのはとても優雅なことだった。
鋭角に降り注いでくる黄色い陽が赤色化して山の向こうに見えなくなるのは歩き疲れて帰路についた頃。微風で揺れる水面は弥生時代の遺跡から掘り出された黒い鏡面のようで美しい。
たくさんの睡蓮で湖の辺りは蓮の葉で埋め尽くされていて、足を踏み入れると地面があり歩いて行けそうなほど。でも夕刻の睡蓮は閉じていた。
少しばかり残念で、午前中に再び来ようと心に決めた。
シューマンの傑作歌曲
ドイツロマン派の大作曲家ローベルト・シューマンには花の詩をいくつか取り扱った歌った歌曲集がある。
わたしが思い出したのは、作品25の「ミルテの花」の七曲目。
こちらにシューマンの歌曲集が詳しく紹介されている。胡桃の木の歌もわたしの大好きな歌。
でもここで取り上げるのは、ハインリヒ・ハイネの詩による「睡蓮の花」。
Die Lotosblumeは「蓮の花」とも訳されるけれども、ヨーロッパで見られるLotos (英語ではLotus) は一般的に英語でいうところのWater Lily。あの有名なモネの連作絵画と同じ花。
わたしはあまり「蓮」の花は見たことがない。
「蓮」と「睡蓮」は違う種類の花。
英語では呼び名が違う。
LotusにWater Lilyでもドイツ語では区別がないらしい。ハイネの詩は蓮ではなく睡蓮のことを物語る。
ほとんどの人がこの二つの異種である花の区別がつかない。区別があることすら知らない。もしかしたらハイネも違いを知らなかったのかも。
睡蓮は水面すれすれに花を咲かせるが、蓮は茎が水面から上方へと突き出して花の位置がずいぶんと空に近くなる。
この歌曲、音楽が要所ではほとんど一拍ごとに絶妙に陰るシューマンらしいロマン溢れる音楽が付けられている。シューマンの名歌曲の代表作のひとつ。
曲は柔らかなヘ長調の中で流れてゆく。
詩の3行目のUnd mit gesenktem Hauptの部分、へ長調には本来存在しないG#が心を打つ。増五音程(和音のベースのCからG#との距離) は第六の音A音に解決される、主和音のへ長調のコードに戻る前の通過音だが、こうしてメロディとして歌われると半音階的な動きが音が非常に印象的。
続いて「月は彼女の恋人」だという部分、Der Mond der ist… はへ長調の属和音のCのコードから半音ずれて、へ長調から遠い変二長調へと転じる。この小さな音楽の中にもこんな絶妙な音による心理ドラマがある。睡蓮の恋人をここで言及して揺れる心が表現される。
しばしの昂揚ののちに再び原調のヘ長調へ戻る。
詩はもちろんドイツ語。非常に短いものだ。
blüht und glüht という韻の踏み方がいい。やはりヨーロッパ語は発声されてこそ意味がある。書き言葉としてではなく、音として素晴らしい。
英訳では、この部分はBlooms and glows and gleams。後半をG音の単語で音をそろえているのが秀逸な訳。Alliterationを使うと本当に英語らしくなる。
でもBloom, Glow, Gleamでは韻が全然そろわない。翻訳は難しいものだ。
さて、この英語を日本語に重訳してみよう。
筆者拙訳と吉田秀和訳
わたしが長年敬愛してきた昭和のクラシック音楽評論を牽引した吉田秀和 (1913-2012) の訳が手元にあるので、私の重訳と比較してほしい。
ドイツ語の恋人 Buhleは古臭い言い回し。英語訳はThe moon is her loverだが、これ以外に良い表現はないものか。やはりこうしたところに翻訳の限界がある。訳しようがない。
外国語に訳すと詩のエッセンスが失われてしまうのが常だけれども、ドイツ語と英語は似ているので、英訳の方が日本語訳よりも原詩に近くて美しく思えてしまう。英語でならば歌えるだろうか。
そしてドイツ語に堪能な吉田秀和訳は次の通り。
まるで夜中に訪ねてきた恋人に抱かれて、肉体的な喜びに包まれるも、朝になると男は去ってゆく。愛の痛みは後朝の別れゆえ?
太陽に照らされることが恥ずかしいのだ。睡蓮には隠し事があるのだから。だから心配で怖い。真実を知られることが。月が夜明けに姿を消すと、太陽が姿を表す。
Buhle=Loverを情夫と訳してる。昔風の言い回しで原語のドイツ語表現にピッタリだ。
blüht=英語のBloomを「身を開いて」と訳したのも非凡。
わたしにはこうは訳せなかった。花開くという意味から輝くに通じるけれども、ヴェールを脱ぎ捨てて身を開く=裸身を見せるとは!素晴らしい意訳。
こうしてハイネの詩は月と睡蓮の情事であることがわかる。大人の女性の恋。
みたいな想いなのかも。
これが「愛の痛み」。睡蓮は男をまだ知らぬウブな少女ではないのだ。
恋人たちは睡蓮と月になぞらえられている。
吉田秀和はハイネの短い詩を俳句のような詩であるという。愛の喜びではなく、ハイネは愛の痛みでこの短い詩句を締めくくることがハイネらしい深みを醸し出していると。
またごんな最後の言葉の意外性が俳句的なドラマなのだという。
曲は属七の和音と主和音のカデンツで結ばれる。
コード記号では、C-F/C-Bm7-C7-Fという動き。やはりへ長調には本来ない半音階のBm7の経過和音がロマンティック。このBm7で歌われる歌の部分ではUnd=andで、ここからクラクマックスに至る。
あまりに曲は短いので一瞬にして流れてゆくけれども、じっくり詩を読むと本当に深い思いが込められていることが知れる。
次のLiebe=Loveを経て、痛みという最後の言葉wehをシューマンは少しばかり引き伸ばす。
痛みという言葉が付点二分音符と長い音符の上にあり、三拍分の長さ、印象深く耳に残る。言葉と音楽が混然と一体になっていると言えるだろう。
情事の音楽でも睡蓮と月との愛引きゆえに決して下品にはならない。「キラキラ輝く」は愛の成就を意味してる。百人一首でお馴染みの敦忠の歌もまた「逢い見て」という言葉で男女の親密な仲をほのめかしつつも、上品な言葉で全てを語らずに、ロマンティックな情念を伝えている。
シューマン歌曲の録音
名曲なので、たくさんの歌手によって男声でも女声でも歌われている。
美声で可憐に歌うバーバラ・ボニーと知的な解釈のディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウではどちらがお気に召すだろうか?
憧れや郷愁や遠い世界や届かない誰かへの思い。これがロマン派詩人や音楽たちが最も好んだテーマだったが、この詩もまた、愛しても愛し尽くせない想いを歌ったもの。
愛し合って単純に良かったなとは終わらない。愛の苦しい思いが歌われる。
愛すれば愛するほどに悲しくなり痛みさえも感じるのだ。
恋人たちは許されない恋にむせび泣く。決して社会的には結ばれない二人。本当のことを書いては不粋だから睡蓮と月なのだ。
中世欧州の悲恋トリスタンとイゾルデにも通じるだろう。
だがシューマンは毒々しいヴァーグナーとは違って、こんな可憐な歌を付けた。響いている音楽は耳に心地よく可憐だが、言葉を読むと深い深い感情がほのめかされている。
俳句のように短い詩句と仰々しくない音楽に深い情感と世界が込められている。
音はどこまでも抽象的で、密やかな転調は燃え上がる秘めた想いを想起させるけれども、音は音でしかない。単純な音だけのピアノ伴奏パートだけ弾いてみると、世界でもっともロマンティックな音楽をピアノは奏でてくれるが、どんなロマンが秘められているかは音だけではわからない。
言葉って深いなあとため息を吐く。
美しいロマンティックな音でカモフラージュされているけれども、睡蓮と月の関係に偽装された童話のような情景の言葉は、非常に深い思いと痛みを秘めている。
言葉のある音楽は素晴らしいなあ。
ハイネとシューマンの類稀なる深い世界。シューベルトの晩年の作品にもハイネの詩につけた音楽がたくさんあるけれども、シューマンもまた、シューベルトに勝るとも劣らないだろう。
午後の池水に開いた蓮
翌日、大学の池に睡蓮を見に出かけた。午後の陽がまだ高い頃、ようやくにして美しく開花した睡蓮を拝めた。桃色や白や黄色の花たち。
詩句に寄り添う音楽は言葉と添い遂げる。
言葉なしには、もはや音楽はそれだけでは成り立たない。
音楽は、言葉を持つ以前の人類によって違った音程の声を和する音として認識することから生まれたという考え方がある。リズムを強調した踊りが生まれる以前に鳥たちのようなメロディを歌い合い、その音を合わせてハモらせることでコミュニケートしたのだとか。
いずれも人類学者たちの推論なのだが、声から音楽が生まれたという説が好きだ。
静まり返る水面の上にひっそりと咲く睡蓮を見て、意味ある言葉なく、原始の人はラーラーラと歌ったのだと信じたい。そしてハイネやシューマンのように月夜に閉じた花の幻想を抱いたのだろうか。
しめやかに花開いた睡蓮の海を眺めながら、ラーラーラとシューマンのメロディを独りごちる。
ある夏の日の午後の物思い。
こんな日がときどきあってもいいと思う。
わたしの夏休みは今日で終わり。
オンとオフ。オフの時間を持てないと人生は迷子になってしまうなと深く感じた夏休みでした。
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