日本語しか喋れない人は西洋古典音楽を弾きこなせないか?
という西洋音楽文化に関わりを持つ人ならば、誰もが抱いている疑問に関して、次の新書は次のように答えます。
わたしの言葉で換骨奪胎して書き換えると:
西洋音楽は二元論を精神的支柱とする西洋文化というユニークな文化の産物。西洋音楽は普遍的な人類の文化と呼ぶにはあまりに歪。文化として個性的で独特に歪んだ西洋文化を日本文化という特殊な文化の中に取り入れると、歪になる。
西洋文化を支配する構造は、独自のアクセントを持つ西洋語であり、西洋音楽が規則正しい厳密なビート感を持つのも、日本語とは全く別のリズムを持つ西洋語のため。したがって、西洋文化と西洋語に親しんでいるどころか、体得していないと、日本人にはクラシック音楽は無理。
という刺激的な内容を本書は提供してくれたのでした。
わたしは発売日の1月20日にオンラインで購入して、数時間で読み終えるも、筆者の独断と偏見に満ちた深い考察に、本当にそうなのだろうか?と数日を費やして考えてみました。
優れた読書とは、自分が知っていることにYes,Yesというのではなく、Noを突き付けて考えさせてくれることだと思うので、その意味でこの新書は良書です。
でも読む人を選ぶ本かもしれません。
現代音楽作曲家として実績ある作者の長年の経験に裏付けられた独自の視線(偏見)と作者の意見に耳を傾けてみると、今まで当たり前だと思っていたこともそうではないと思えるかも。
いずれにせよ、批判的な態度で読むのがよさそうな挑戦的な一冊です。
「日本のクラシック音楽は歪んでいる」という挑発的なタイトル、わたしはクラシック音楽の本場の欧州で現代作曲家として認められていた著者の言葉にいろいろと共感しました。
ですが、「日本の」と書かれていますが、外国人の西洋古典音楽需要は多かれ少なかれ「歪んで」います。
本書が糾弾する日本の音楽教育の「テクニック偏重主義」にしても、おなじ西洋音楽需要後進国の中国や韓国でも同じこと。
中国出身の某世界的ピアニストなど、ものすごいテクニックを駆使して、異文化である西洋音楽を小馬鹿にしたように徹底的にエンタメ・ショーミュージックとして弄んでいる印象を受けて不快です。
アジア出身のクラシック音楽家が伝統的な暗しく音楽の文脈において異端なのは日本文化所有者だけに限った話ではないのです。
つまり西洋音楽は、非西洋人には「外国語である」という本書の主張を、同じく海外で音楽を学び、外国語に堪能な私は全面的に支持します。
日本のクラシック音楽は歪んでいる、という作者の論点は正しい。
でもそれは日本のクラシックに限ったことではないのでは。
日本語や日本文化を理解しない外国人が邦楽を奏でると、全然見当ちがいな音楽になるように、多かれ少なかれ、西洋音楽のアクセントを理解しない日本人が洋楽を奏でると和風になるように。
異文化を外国人が真似しても、並大抵の努力ではネイティブのようにはなれない。それにもかかわらず、世界中の西洋文化の恩恵を受けている文化圏の誰もがピアノを習い、ギターを奏でる。この点は本当に文化的に歪んでいる。西洋文化侵略の帰結なのか。
洋風日本音楽の例:お正月によく聴く「春の海」。フルートとピアノで弾かれて、楽譜通りに奏でられると、洋風になる(本来は琴と尺八の曲)。
下の動画は立派な演奏だけれども、決定的に日本情緒が欠落している。
日本人が同じ曲を演奏すると、演歌のような「こぶし」を込めて演奏するので、真正の日本音楽に聞こえる(楽器が西洋楽器だと限界はあるにせよ)。
日本人の演奏するベートーヴェンは、しばしばこんな感じに西洋人の耳には聞こえる。
同様に日本のクラシック音楽、ロックミュージック、JPOPは全て和風アレンジされている、というのが真実でしょう。海外で相当の経験でも積まない限り。
というのが本書の趣旨なのですが、いかにして和風なクラシック音楽(作者の言葉で歪んだクラシック)が出来上がるのかを、本書を読み終えた感想、アウトプットとして書き出してみます。
西洋音楽への誤解
作者は前作で「西洋音楽はアップビートである」という主張をして物議を醸したそうですが、本書はその主張をさらに推し進めたものだです。
ジャズやロックで当たり前なアップビート(オフビートいわゆる裏拍が強いアクセントを持つ音楽も含まれるようです)は実は西洋の伝統的な音楽由来である、という主張は別に格段に特別なものではありません。
後述するように、日本人はダウンビートにアクセントを置くという基本を杓子定規に信じすぎて、クラシック音楽を自由な呼吸で演奏できないというらしいのです。
本書では言及されませんが、日本人は日本語アクセントが弱拍を持たないので、裏拍を取ることを非常に苦手とするという事実にも通じます。
英語は強拍と弱拍の繰り返しでできている言語なので、英語話者は比較的簡単に裏拍を感じながら音楽出来てしまう。
ならば英語話者は日本人よりも音楽的に優れているのか?
ビートのお話
音楽の最も大事な要素は、メロディーよりもハーモニーよりも、リズム(ビート)です。
ビートは人間の心臓の鼓動に由来するので、これはまったく世界中の音楽に普遍的なものなのですが、ビートの捉え方には文化ごとに差異があり、西洋音楽の場合、強拍と弱拍を繰り返すパターンで拍子という枠組みが作られます。
というのが定説なのですが、実は西洋音楽の場合、この特徴的なビートは西洋人の毎日喋っている、アクセントのある言葉に影響されているのです。
英語をはじめとするヨーロッパ語は、単語のどこかに必ず、強勢(アクセント)が存在するのが特徴。
綴りの長い単語では一番強いアクセントと少し弱いアクセントが、まるで四拍子の第一拍と第三拍のように存在する(第三拍は第一拍よりも弱い)。
というわけで、外国語を喋る人は、西洋音楽を演奏すると、誰でも自然と音楽はアクセント付きになるのです。
逆に言えば、全ての音を日本語のように均一に奏でることは苦手。
外国人は日本式アクセント、つまりアクセントではなく、三々七拍子のような音の長さの違いによる音楽は苦手。五七五七七の三十一字の短歌のリズムを味わうのも無理。
つまり、別の原理で出来ている西洋音楽は、日本人にとって完璧に外国語なのです。
日本人の奏でる西洋音楽はアクセントに乏しくて平べったくなる(ネイティヴではなく、外国語として学習したものだから)。ほとんどの人は裏拍を取るのが苦手。
1,2,3,4の四分音符の四拍子を、八分音符にして、1&,2&,3&,4&と&=andを入れて同じテンポで数えると、&の部分が裏拍。この部分にアクセントをつけて音楽するとアップビート音楽の出来上がり。
八分音符にしないで四分音符の二拍目と四拍目を強くしても同じ。
頑張れば、日本人でも西洋音楽を自然に弾けるようになる。
でもそれは日本人が頑張って英語やドイツ語を学んで立派な外国語話者になっても、ネイティヴ発音やネイティヴ的な節回しが苦手なままなのと似ているのです。
作者森本氏は人生の大部分を海外で過ごされた英語とドイツ語が堪能な方ですが、ヨーロッパ言語と我が日本語を隔てる決定的な要素は強拍の有無だと指摘される。
わたしは以前、この記事で英語のアクセントの大切さを語りました。
フランス語などは音を大きくしてアクセントをつけずに長短でアクセントを表現するので日本語的ですが、それでも強調する音(長く伸ばす音)というものが言葉の中に存在するのです
西洋音楽は拍子の中の強いビートを強調することで前に進む。そして強いビートは、前のビートをしっかりと用意することでますます前進する。
西洋人には、音楽的才能の有無にもかからず、これが自然とできてしまう。言葉の中にビートのリズムが含まれているからです。
非日本語的な強いビートを音楽に込めることが苦手な日本人は、頭の中で、音楽は「強弱強弱」または「強弱弱」「弱強」などというビートを思い浮かべながら音楽を演奏する。
だから日本人の演奏するクラシック音楽は「本場のそれとは違う」といわれてしまう。
不自然な音楽になるのです。できるようになっても、ネイティブのリズム感とどうか違ってしまう。
音楽の推進力
音楽に前進する推進力を持たせて自然な音楽的な流れを作り出すには
という風に拍の一番最後のビートを大袈裟に強調する方が楽しくて美しい。
だから音楽のリズムっていうのは、1,2,3,よりも3,1,2の方が自然なのです。
クラシック音楽、なんでもいいので1,2,3ではなく3,1,2で歌ってみてください。
器楽曲でも3,1,2の方が素敵に響きます。
この方が音楽は勢いづいて、自然にするすると前に流れてゆくのです。
「前のめり」な流れが生まれるのです。
いわゆるクラシック音楽でいうところの弱起・弱拍(アウフタクト)で始まる音楽こそが最も音楽的な音楽なのです。
指揮者が指揮棒を振り上げるアップの部分が実は音楽において最も大事。
振り上げてから、振り下ろす。だから前に進んでゆく。
初動には準備の動きが必要。
だから実際に一番大切なのは、前の拍子の最後のビート。振り下ろすために振り上げる。
つまりアップビートは西洋音楽の呼吸。吐く前には吸わないといけない。
弱起の音楽の最初の音は本番の前の助走のようなものだとも言われていますが、一拍目の音の始まる前の降り上がる瞬間が音楽的に最も強調されるように奏でると、音楽が生き生きとします。少なくとも私はそう思います。
ベートーヴェンの音楽は大抵はアウフタクトで始まりますが、最初の第三拍目を強調して、逆に第一拍目を弱めにして奏でてみると、ベートーヴェンの音楽は急に生き生きとして輝きだします。
ベートーヴェンはいつだってアップビートなのです。
英語のアクセント(ビート)
英語(アクセントを持つ全てのヨーロッパ語)はまったく西洋音楽的。
わたしは英語発音を大人になってから学びましたが、英語アクセントの理屈を体得すると、なぜだか感覚的にわたしの音楽家として能力も飛躍的に向上しました。
全く同じ原理だからなのだと発見して驚きました。
拍子の中のアクセントを強調するということを頭で理解していても、自然になるまで身に着けるには長い年月を必要とするのですが(セカンドネイチャーになるまでは)、ヨーロッパ言語話者は生まれたときからアクセントのある言葉を喋っているので、音楽にアクセントを付けて歌ったり奏でたりすることは当たり前のことなのでした。
音楽のアクセントも英語のアクセントも、上がって下がっての繰り返し。
そして音楽の規則的なアクセントの位置がわかるようになると(言葉では説明しにくいですが、演奏になれるとアクセントをどこに付けると音楽が美しくなるかわかるのです)アクセントの関係からフレージングもわかるようになる。
イントネーションです。
という言葉も
日本語を知っていれば、
という風に三つのフレーズに区切れてしまう。
でも外国人は
なんて区切るかもしれない。
英語ならば、Accentという英単語
どちらが美しいでしょうか。
このアクセントの置き方を身に着けておかないと、英語という言葉の音楽は美しくならない。
無理やりカタカナで書くと
になりますが、スェントを綺麗に発音するには上がった音の後にほんの少しブレイキをかけるのです。アクセントの後のシラブルには少し隙間ができるのです。これが英語の呼吸。ア・ク・セ・ン・トみたいに均等にバラバラにしてはダメ。
もっと長い単語にすると、Acceleration はどうでしょう?
という音節に切れますが、カタカナで「アクセラ」で弱く入り「レイション」で持ち上げる。アクセントが後半にあると完璧にアップビートの音楽。
英単語の例のように、西洋音楽は原理的にダウンビートにもアップビートのどちらにもなるのだけれども、音楽的にはアップビートの音楽が西洋音楽では特に素晴らしく、西洋人はどちらのビートにも普段から慣れている。
アップビートがどうなのなんて、頭で考えなくても、自然と日常の言葉を通じて身に着けている感覚をそのまま使えば、西洋人には西洋音楽は、おのずと西洋音楽らしくなる。
日本語話者にはこれがなかなかできない。
西洋人は音楽のアクセントがどうだのこうだのとあまり語らない。
アクセントは存在していて当たり前だからです。
自然の呼吸。
自明の理。
強弱強弱ばかりの杓子定規が西洋音楽の基本ではなく、クラシック音楽の奥義はアップビート。弱強弱強。
それを強調した音楽が20世紀の大衆的洋楽なわけです。
「弱く強く」はボクシングの1-2にも似ているかも。この呼吸も西洋的。
アウフタクトでない音楽の場合でも、わたしは最初の音符の前に休符があるととらえます。
音楽を始める前に一呼吸でもいいです。
こうすると、音楽はより自然に流れてゆきます。
まったく西洋音楽は外国文化であり、音楽は世界共通語ではないのです。
西洋音楽にはヨーロッパ語の呼吸が必要なのです。
世界の中の日本音楽
日本のロックやJPOPが世界で受けないのも、日本のオーケストラの音楽が海外で高く評価されないのも、入試困難な日本の音大が世界大学ランキングで100位以内にも入らないのも、すべて外国文化を日本文化の文脈で理解しようとしているから、と主張する著者の言葉を、海外に住んで海外で音楽を学んだわたしは全面的に支持します。
だから日本の音楽家が世界的に成功するには、海外留学経験を持っているか、海外文化体験が豊富なのかが必須条件。
外国人が日本文化を理解するのに、日本語を理解しないで日本文化の経験なしには不可能であるようなもの。上記の「春の海」みたいなもの。
本書には更なる具体例が挙げられていますが、明治以来の日本のクラシック音楽受容はいかに「歪んだ」ものだったということも考察されます。
日本のピアノ教育の重鎮、のちに天皇とさえ呼ばれた井口基成や、クラシック音楽評論の吉田秀和などの西洋音楽理解が中途半端であったがために、日本における西洋クラシック音楽への理解は「歪んだ」になったのだそうです。
一例を引用するならば、22歳の若過ぎる井口が欧州に渡った1930年代の欧州音楽界は19世紀的な自由な解釈を許容する演奏を否定して楽譜に書かれた音をできる限り再現すべきという即物的な演奏が大いにもてはやされていたのでしたが、井口はそうした過去の伝統への反動という過渡期的な欧州の風潮を日本に持ち込んで、楽譜に忠実を旗印として日本の音楽教育の根幹としたのでした。
限られた情報の中で欧州音楽事情を学んだのは、国費で留学した若い学生たちでした。
天才だった明治の瀧廉太郎が文化的にドイツで打ちのめされたように、当時の留学生の音楽理解や演奏レヴェルなど、語るに足りぬものでした。
当時の欧州にいた日本の知識人の音楽理解など、まったくお粗末なものでした。
しかしながら、そんな不十分な理解の中から、日本の音楽教育の土台は作り上げられていったのでした。
本書では言及されませんが、ハイフィンガー奏法 (指を高く持ち上げる、欧州式の重力奏法とは対極の弾き方) の悪習が日本人ピアニストに浸透していたのはピアノ教育の重鎮の井口の責任なのでは。
わたしは評論家吉田秀和の著書をたくさん所有していますが、吉田の評論を読むと、彼の音楽理解は趣味人のそれを出てはいないのだなと痛感します。そして趣味人として音楽を生涯愛していられた彼を羨ましくも思えます。
わたしは趣味としてクラシック音楽鑑賞を始めて、のちに演奏も始めた人間です。
吉田秀和にはとても親しみました。
最晩年のクラシック音楽歌曲を語った四冊の「永遠の故郷」などは、西洋音楽へのあこがれと愛を赤裸々に語った素敵な本です。
今でも私の本棚のすぐ手の届くところに並んでいます。
ドイツ語歌詞の解説部分は今読んでも素晴らしいから。でも楽曲解説は素人っぽいと苦笑したりもする。
趣味としての海外の崇拝すべき文化であるクラシック音楽を、日本人のために日本に広めることに貢献したのが吉田秀和でしたが、著書の中で自ら語っているように、音楽演奏の良し悪しを解説するのにどうしていいかわからず、相撲観戦に行って相撲の技の説明をクラシック音楽の解説の元にしたとさえ書いています。
涙ぐましい日本クラシック音楽評論黎明期のお話ですが、このレヴェルでは数百年の伝統を持った西洋クラシック音楽を専門的には語ることができなかったのも当然です。
彼に続いた数多くのクラシック音楽評論家たちもまた、翻訳したら本場の人間に嘲笑されるような内容のクラシック音楽解説をも書いて、現代の日本のクラシック音楽人気を作り上げ、またあまりにガラパゴス化したがために凋落の原因にもなったのでは。
彼らは基本的に録音されたクラシック音楽からクラシック音楽を学び、彼らの嗜好から大家たちの録音の優劣や好悪を語っていました。
現代音楽作曲家の森本氏は、クラシック音楽を商業的に広めた評論家等は楽譜を読んで音楽を語っていないと喝破される。
何はともあれ、情報が限られていた20世紀だからこそ、欧州の手に入りずらかった最新の音楽情報を伝えた彼らの肉声は貴重でした。
彼らが独自の解釈から蓄積した知識による録音解説などは大変に価値があったのは間違いない事実です。
でも情報を持っていることが偉かった、貴重な情報が売れた時代は終わり、新しい21世紀の現在、玉石混交の情報が溢れかえっている世界の中で、音源も収集ではなく配信として共有される中、クラシック音楽評論という職業はほぼ姿を消してしまいました。
やがてグローバリゼーションという文化植民地主義が影を潜めてゆくのならば、世界音楽の中で絶対的優位にある(世界中のポップ音楽はクラシック音楽のコードと理論でできている、そして西洋大衆文化を拒否している文化圏もいまだに存在している)西洋音楽は相対的に衰退してゆくことでしょう。
日本人のクラシック音楽崇拝は外国への憧れゆえのことでした。
外国に憧れなくなれば、日本の洋楽はますますガラパゴス化してゆくのかも。
スウィングの起源
森本氏は、長調短調のシステムを体系化させたフランス・バロック音楽の特徴である Notes inégales (イネガル)こそがジャズのスウィングの起源であるとも紹介されています。
ジャズが西洋音楽由来なのはポリコレ的に不都合な真実なので、公には認められていないのだという指摘、わたしには目から鱗でした。
バロック音楽がスウィングすることはよく知っていました。でもジャズに影響を与えていたとは思いもしなかった。
例えば、ハープシコードという楽器は、構造上、強弱の変化がつけられない楽器のですが、同じ長さの音符が連なる場合は音符をスウィングさせることで、音楽に活気を与えるなどをしていました。
オルガン演奏で同じ音符が続く場合は一拍目を長くして続く音符はスタッカート気味にして音を出すなどの工夫がバロック音楽時代にはあったのでした。
フランスバロック流のリズムを弾けさせる演奏方法はフランス革命前よりフランス植民地のアメリカ・ルイジアナ州に伝えられて、このフランス宮廷音楽の癖の名残がニューオーリンズなどジャズ発祥の源泉になったのだというのです。
ジャズを作ったのは数百年前に奴隷としてルイジアナ(ルイ王の土地)に連れてこられたアフリカ人の子孫たちでした。
彼らはもはや故郷の音楽など覚えていなかったのです。
奴隷一世の子孫たちが常時耳にしていたのは、語り継がれていた歌以外には雇い主たちが好んでいたフランスの伝統的器楽音楽だったのでした。
でもポリコレ的には全くNG。
「ジャズは黒人奴隷の子孫が作った音楽ではない」なんて主張、人種差別、歴史修正主義といわれてしまうことでしょう。
だからスウィングのバロック音楽起源はほどんと語られることがないのは当然のことなのです。
改めて書いておきますが、フランス・バロックの方が世界最初のジャズよりも数百年古いのです。
バロック音楽に精通した人ならばこの事実、必ず知っている。
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番がジャズのスウィングの起源だなどという珍説よりも、フランスバロックジャズ起源論はずっと説得力があります。
この件についても以前解説しました。長いのにたくさんの方に読んでいただけてスキもたくさんいただいた記事でした。
スウィングはクラシック音楽の即興演奏の基本。
だから西洋音楽に起源をもつジャズがスウィングしても何らおかしくはない。
この指摘は価値あるものだと思います。
まとめると
詳しい内容は本書に譲りますが、日本のクラシック音楽の歪んだ受容体系は
歴史的なテクニック重視のクラシック音楽教育が戦犯。音楽を崩して歌うよりも、書かれていない歌のフレージングを音楽的に作るよりも、AIのような機械のように正確に演奏することが評価するのが日本人の悪癖。アップビートをネイティブとして理解しない日本人は、その代わりにテクニック重視を目指したのでした。
音楽的フレーズ(スラーでつながれたレガート)やアップビートのリズム感を理解できないのは、アクセント感覚が言語的に決定的に異なるから。外国語のアクセントを習得しないと、西洋音楽は和製音楽になる。西洋人も邦楽を演奏するならば、日本語を学ばないといけない。
日本のクラオタが圧倒的に若者なのは(だったのは)名演奏の録音聴き比べを高尚な趣味として普及させた、偏った音楽知識しか持たない昭和の音楽評論家たちのため。趣味としての音楽鑑賞がこれほどに隆盛したのは日本だけ(ヨーロッパならば音楽後進国のイギリスだけ)。
日本の音楽で世界的にヒット作となるのは、日本固有のヨナヌキ音階(ドレミファソラシドから四つ目のファと七つ目のシが抜けた音階)に基づいた楽曲がほとんど。「すき焼きソング」として海外で広く知られる「上を向いて歩こう」や、人気アニメ「推しの子」主題歌のYOASOBIの「アイドル」などはヨナヌキ音階音楽の傑作です。
演歌は歌謡曲の一種だとされています。演歌とJPOPに音楽的な違いはないという音楽専門家もいるのだけれども、世界音楽には地方文化特有独特のフレージング(節回し)があり、日本の伝統的な歌い方の「こぶし」が生かされた音楽が演歌。こぶしが入ると西洋音楽の文脈の中で書かれた演歌でも、西洋音楽的なリズムとビート感が失われて、外国人には理解できない日本固有の「演歌」になる。演歌は昭和時代の見事な和洋折衷音楽。日本人クォーターのアメリカ人ジェロは日本文化に親しみ、日本語が出来るので、西洋音楽のポルタメントのように音を揺らす日本語のこぶしをよく理解していますね。
19世紀終わりの文明開化のころ、日本がクラシック音楽受容の後進国だったことは事実でしたが、国策として西洋音楽を取り入れて数多くの文部省唱歌を作らせて人口に膾炙させてもなお、日本において欧米で一流として通用する国産西洋音楽家がほとんど育たなかったのでした。これほどに育成に力を入れながらも。
そのわけは、哀しいかな、音楽の中に取り入れるべきヨーロッパ言語のアクセントを日本生まれの純正日本人は感覚的に理解できなかったため。
言葉が違うの西洋音楽の本質である「西洋音楽らしさ」を習得しがたいからなのでした。
つらい現実ですが、長年かけて英語を苦労して学んだわたしには、この洞察に同意せざるを得ない。
ロックやジャズやクラシックといった西洋音楽演奏を上手になり、さらに理解したいのならば、どれでもいいので、西洋語(英語やドイツ語やフランス語やスペイン語など)のアクセントを学びましょう。
外国語の呼吸が西洋音楽には不可欠。
音楽は世界共通語ではなく、イントネーションやフレージングやアクセントは文化固有のもの。英語のリズムは日本語とは全く違う。
音楽とは人間の言葉。
人間の言語は文化ごとに固有で独特。
そして西洋音楽は間違いなく外国語!
西洋音楽は世界音楽の中で非常に特殊。二元論的な長調短調というヒエラルキーを持つ体系を作り出したから。
この事実も本書が繰り返し語るテーマ。
でも西洋音楽が全世界の最も普遍的な音楽のように我が物顔に振舞っている現代世界では、世界言語の英語を学び、洋楽のアップビートを知ることは意味深いのです。
長い解説でしたが、読了ご苦労様でした。ありがとうございました。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。