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どちらが感情論か? 図書館再建にみる富岡派の分析

 富岡の中心機能を維持すべき、あるいは、今以上にさらに集約すべきだ。

・・・・という考え方に近い思想をもつ市民や推進者 (政治関係者、行政関係者)は、自分たちおよび反対論者を、どのように見ているのだろうか。
 検証した。

 おそらく、彼ら富岡バンザイ的な思想をもつ人は、自分たちのその考えを 合理的 だと思い込み、そして反対論を、ただの感情論や、周辺部の情緒的なノスタルジーでしかない ・・・・などと映っていることだろう。

 だが、本当にそうだろうか?

阿南図書館にみる富岡派の根拠

 現在の阿南市の課題である阿南駅前再開発、富岡での図書館再建、小中学校再編問題。このうちまず、図書館再建にみる市民の声を検証した。

 阿南図書館が耐震強度不足によって閉鎖された2021年。閉鎖前後の2021年上半期に、それに関連する投稿が4件なされている。これ以外には賛否を問わず投稿は確認できなかった。

2021年2月23日『阿南図書館が本好きの原点』
2021年3月5日『阿南図書館の早期復活望む』
2021年4月13日『図書館の利用中止で寂しく』
2021年6月12日『市中心部で図書館再建願う』

 投稿者の属性は、富岡近隣地域の在住者とみられる方が多い。高齢者や中高年が目立つ。「寂しい」などの主観的な感情論や、"中心部だから富岡にあって当然" という富岡の名誉維持的な意見、那賀川町や羽ノ浦町の図書館は遠くて不満だとする意見がみられる。

 いずれの意見も、図書館が富岡になければならないとする合理的な根拠には乏しいと言わざるを得ない。

 ”かつての富岡の栄華を再び” 的な、思考停止であったり高齢世代のノスタルジー、懐古主義といえるだろう。

 行政や政治レベルであっても、基本的にはこうした市民と同じであって、阿南図書館を富岡に維持しようとする根拠は、漠然とした抽象的なもの以外の説明が、これまで世に提示できているようには見えない。

 たとえ事業化の過程で、有識者会議やワークショップなどの形式的な儀式のお墨付きを挟んだとしてもだ。

"中心部だから富岡にあって当然"

 そんな理屈が通るなら、キャプテン交代はいつするのか?
 
中心部を見直す機会が永久に来ないではないか。自称中心部は努力しなくても未来永劫に中心の座が約束されていると言うことか?
 メンバーが超有能な成果を出して 富岡が食わせてもらう側 になったとしても、富岡の権威は揺るがない絶対君主なのか?

 ”富岡主義者” は合理的な視点を持っているとは考えられず、たんなる既得権の惰性的な継続論者でしかなく、合理性とは程遠い。
 行政や政治界の、図書館 富岡維持派、阿南駅前再開発 推進者 は、只のワガママで、非合理な感情論だろう。

これだけ図書館が近接集中するのが、合理的結論なのか?

世論誘導の疑問

 これらの投書を、それも、富岡での再建を要望する向きの投書を、短期間にこれだけ掲載した徳島新聞にも疑問は残る。事業環境のお膳立てをし、暗に富岡での再建を世論誘導する意図、行政をアシストする意図は本当になかったのだろうか。

 富岡が “那賀川町や羽ノ浦町の図書館は遠くてイヤだ” と言うなら、その何倍も遠い新野や桑野、加茂谷などの人々はどうなるのか。

 阿南市北部に図書館が集中してしまう課題は、マスコミには、すぐ思い浮かぶと思うのだが。

(以下)参考記事


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