カレー屋さんで「夜がわかった」
こんにちは!
SPORTS MENの豊田です。
今回の豊田日記では、自分が古いメモ帳に書き留めていた、とある下北沢のカレー屋さんでの体験を振り返って、考察してみたいと思います。
その日、カレーを食べ終わった僕は、生まれて初めて「ある瞬間をキャッチした」と感じたのです。
本当に「日記」のような内容ですが、よかったらお付き合いください!
カレー屋さんでの出来事
これは、まだ小田急線が地上を走っていた頃の下北沢での、小さな出来事です。(つまり何年も前の話…)
以下、当時のメモを下地にして記していきます。
写真は最近撮りに行ったものです。
* * *
ある日の午後、ちょうど太陽が西に傾き始めた頃に、僕は一人で「茄子おやじ」というカレー屋さんに入りました。
茄子おやじは駅から少し離れた路地裏にあり、こじんまりとした店内は壁の色や照明の光が暖かくて、とても居心地の良いカレー屋さんです。
下北沢に通い始めた頃からたまたま知っていることもあり、また当時、大好きな曽我部恵一さんのサイン入りポスターが店内の壁に貼ってあったりもしたことから、僕にとってその空間は「下北沢らしさ」を強く感じることのできる場所の一つでした。
僕は色々な考え事で割と頭の中がごちゃごちゃしていることが多い性質で、一人でいると特に考え事が止まらなくなりがちです。
当時は今にも増してそうだったので、例えば、せっかくの美味しいごはんを殆ど無心の内に食べ終わってしまったりもするような感じでした。
その日も然り、そんな調子で半ば自動運転でカレーを食べ終わり、水を一口飲んでから、やっと少し肩の力を抜いて外の通りに目をやりました。
すると、その瞬間ーー
店の中の暖かい色合いとの対比で、窓ガラスの外の世界が意外なほど青いのが目に飛び込んできました。
「さっきここまで歩いてきたときは明るかったのに…」
僕は、そのことに何か純粋に驚いてしまい、ほんの一瞬の間を置いてから「…もう夜か」と認知しました。
そして、それと同時に、普段は感じることのない「日が暮れた」という事象に対する感慨が湧いてきて、心がざわざわと震えたのです。
日が暮れた。
なぜか、たったそれだけのことで、そのとき僕は日常から解放されたような、自分自身を取り戻したような気分にさえなりました。
ほんの些細な出来事ではありますが、その体験は「一体あれは何だったんだろう」と、その後も暫く心に引っかかり続けました。
* * *
「暮らす」という言葉を辞書で引くと、生活する、という意味よりも先に、時間を過ごす、という意味が表記されています。
その日、僕は「暮らす」という「行為」を、生まれて初めて実感したのかもしれません。
そして、それによって、すごく満たされた気持ちになることができたのだと思います。
何かをキャッチする瞬間について
毎日のように繰り返していることでも、絶妙な状況でしか「実感」できない物事というものが色々あると思います。
その対象が決して特別なことではなかったとしても、それを確かに感じることができた瞬間は貴重で、特別です。
むしろ、それがなんでもない日常的なことであればあるほど、改めて実感できた瞬間にはある種の衝撃が伴うように思います。
「日が暮れる」という現象は、もしかすると、そういう物事の代表格かもしれません。
つまり、毎日毎日、必ず日は暮れているけれど、それを体験として享受することは難しい。(繰り返しているからこそ難しい。)
その日に下北沢のカレー屋さんで感じた、まるで昼と夜の境界線を右足と左足で跨いだかのような確かな感触は、その後の人生でもなかなか得ることができていません。
もちろん、こういうことには個人差があり、暮らしている場所やライフスタイルによっても違うだろうし、或いは日常的に「日が暮れるなぁ」「暮れたなぁ」としみじみ実感している人だって沢山いるのかもしれません。
僕の叔母が昔、実家に遊びにきたとき、夕方になってリビングの雨戸とカーテンをすべて閉めきった瞬間に何気なく「はい、夜になっちゃった」と言い放ちました。
家の中で過ごしている場合に「雨戸を閉める」という行為によって昼と夜が積極的に分けられる感覚。
それはそれで、すごく「わかる」と思って、今でも印象に残っています。
ただ、少なくとも僕の場合、普段は基本的に気がついたときには日が暮れているという感じだし、例えば、きれいな夕焼け空を見たとしても、それが常に「日が暮れる」というラディカルな感慨を引き起こすかといえば、必ずしもそうではありません。
やはり、確かな実感を享受するためには、そのために必要ないくつかの条件というものが存在するのだと思います。
そして、ある日それらが偶然にも整ったときに、初めて実感が湧き、ハッとする。
その摂理が面白いと思うし、そういう瞬間があるから生きていける、とさえ思います。
* * *
今回のテーマに近いことを、もう少し特殊なケースの体験談として、第二回の豊田日記「『耳をすまして』を100枚、両手に抱えた日」でも書いています。
もし気になってくださった方がいたら、ぜひ、合わせてお読みください。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
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