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焼き付いた

 朝である。

 朝とは私にとって、目覚めてからの数時間の事を指す。
 現在の時刻は十二時三十四分。
 世間一般的な解釈に基づけば、この時間は当然朝とは言い難い時間である。
世間一般的な朝というのは、私の認識の限り喫茶店がモーニングメニューの販売を停止するまで、となっている。私が眠りに就いた時間に世界は目覚め、そして私が起きた時には既にそれは終わっている。
 しかし、私にとっての朝は正しく、たった今目覚めたこの時間を差すものである。

 私は正直、私的解釈における朝からブルーだった。この一文を書く為だけに朝の定義について説明せざるを得なかったというのは、何とも遠回りであり手際が悪い。しかし情報は多いに越したことは無いと、何かの本に書いてあった。言葉は少なければ少ない程に、曖昧なものになってしまう。それは頂けない。
 
 さて、話は戻るが私は朝からブルーだったのだ。

 私が目覚めた原因は、残暑の厳しさと、一本の連絡によるものであった。携帯電話は空気を読まずにけたたましく鳴り響く。登録していない番号からの電話だったが、気にせず私は通話ボタンを押した。
 寝起きであるという雰囲気を全く隠さずに返事をする。これはこのような時間に連絡をしてきた相手に対して私なりの抗議の意味があった。
「もしもし」
 受話器の向こう側からは、がさごそと不快な雑音が聞こえる。返事が無かったので、仕方なくもう一度返事をする。
「もしもし、どちら様ですか?」
 やはり反応は無かった。私は寝起きの頭でこの連絡の正体は何なのか考える事にした。
 真っ先に思いつくのは、ポケットの中で携帯電話が暴走してしまったパターンである。
 嘘みたいな話ではあるが、私にも似たような経験があったのでこれは最有力の可能性と言って良い。携帯電話は重労働に耐え兼ねると、ストライキどころかクーデターを起こす。そのような事態を招かない為にも、携帯電話は日ごろから労わっておいた方が良い。私もクーデターを一度起こされてからは、これについては非常に気を使っている次第だった。

 受話器の向こう側からかすかに誰かの話声が聞こえた。
 私は段々と目が覚め始め、今ではこの問題に対してはっきりとした頭脳で取り組む覚悟があった。
 電話の向こう側から聞こえる声は、十代か、二十代か、若い女性の声だ。

「辞めて」

 結局はっきりと聞こえたのは、その一言だけだった。
 何故この一言だけが聞き取れたのか、女性はこの一言を輪唱し続けた為である。他には布と擦れる雑音と、判別できない声だけが届くばかりであった。

 私は次の可能性について考えなければならない。私には女性の、「辞めて」という言葉からある情景を思い描いた。監禁された人質が、隠れて誰かに電話を掛けるというものである。非常に馬鹿馬鹿しい話ではあるけれど、物事は常に一番悪い可能性から考えるべきだというのが私の持論なのである。

 いやしかし、仮にそうだとしても、何故私に?
 そのような切迫した状況の中で電話を掛ける相手を私に選ぶような知人は、誓ってもいいが一人も居ない。本当に、一万歩程歩み寄っておめでたい頭で強いて考えれば、そんな人は吉仲さんくらいだ。
 どうやら私はまだ夢の中に居るようだった。これで覚醒しているのだとしたら、一度顔を洗ってきた方が良いだろう。何故吉仲さんが誘拐されたり監禁されたりしなければならないのだ。あの人は僕と同じくして非常に模範的な一般市民に過ぎず、一般市民とは常に平穏であるからこそ一般市民なのである。
 それでも思い付いてしまえば、不安は増長するものであった。私は受話器の向こう側で吉仲さんが両手を縛られ、猿ぐつわを付けられ、監禁状態に置かれているのを想像した。ほんの僅かばかり、私の中の男性的な思考が割り込みを始めていた。これは紳士な精神を持つ男として、一人の良心的な心を持つ人間として、恥ずかしい。自分の頬を一度叩いておいた。

 受話器の向こうからは、一切の声が届かなくなった。しかし依然として通話状態は保たれたままであり、こちらから通話を終了するには未だ憚られた。もしこれがSOSだとしたら、警察に連絡しなければならない。そこまで事態を発展させるには、情報が足らない。今警察に連絡しても、頭のおかしい奴が来たと思われるだけである。
 次なる情報を受話器を片手に待ち続けながら、私は吉仲さんの事について考える事にした。
 彼女は私が大学生だった頃の一つ下の後輩で、ミステリー研究会サークルの仲間でもあった。ミステリー研究会とは言っても名ばかりな代物で、当ミス研は一般的なミス研とは活動内容も全くと言って良いほど違い、名は人集めの為だけに設置された、実態は何もかも別物の何かであった。先輩に聞いたところ、近隣の大学との合同活動が盛んなミス研において、当大学のミス研だけはその内輪に存在しないのだそうだ。何故か誇らしげにそれを語る先輩の姿は、最早滑稽であった。

 その実情はこういうものであった。東京中のあらゆる場所を探索し、ミステリーな雰囲気が保持されている場所を見つけ、それらを完璧な状態でカメラに収める。素材を元に偽の文庫本カバーを作成し、適当な本にそれを装着させる。そして完成した偽物のミステリ小説を肴に、ありもしない小説の内容を皆で語り合うのである。今考えると極めて無為な、薄気味悪い活動だ。私も初めはその楽しさに半信半疑ではあったが、しかしやってみるとこれが妙に楽しいのだった。
 私も吉仲さんも、世間一般的なミス研を期待して入会し、そして闇の遊びにどっぷりと浸かってしまった口であった。
 吉仲さんは一般市民としては優秀な、何の変哲も無い女性だった。しかし強いて言えば少しロマンチストなところがあり、ごく稀に何と返事をしていいのか分からない文学的な言葉をつい漏らしてしまうような、うっかりした可愛い人でもあった。

 その日は吉仲さんと二人で、西日暮里の探索をしていた。活動内容や日程はすべて会長が決めていたので、私と吉仲さんはそれに従っただけだ。吉仲さんと私はお互いが引っ込み思案というところもあり、その日まで一度も会話すらした事が無かった。話せば中々趣味の合う人で、私は恋人も居なかった事もあってか、非常に舞い上がってしまった。隣で歩いている黒髪でボブカットの小さな女子が、世界で唯一私を理解してくれる女性だと思えた。悪く言えば篭絡された。絡めとられた。

 西日暮里から東へ少し行ったところ、谷中との間の住宅街を歩いていると、「富士見坂」という坂を発見した。この坂は軽自動車すら通る事が出来ない程狭く、そして長く急であった。眼下には東京の景色が一望出来、それは非常に良い景色だった。名前の通り、かつては富士の山がここから拝めたのであろう。私達はお互いに、今日の成果はここで残そうと合意した。

 撮影を始めてからしばらくしたところで、私は彼女にめろめろになっているという事もあり、先輩の職権を乱用しようと試みた。
 つまりは風景だけでは飽き足らず、吉仲さんもファインダーに収めようとしたのである。意外な事に吉仲さんは嫌がる素振りも見せず、何であればノリノリであった。
 夕日に照らされた彼女の姿は美しく、次の偽小説に使う素材はこれで決定だと確信した。

 何枚か写真を撮った所で、彼女は急に私へ背中を向ける。やりすぎたかと不安がよぎった直後、彼女はこちらへ振り返りこんな事を言うのだった。
「この東京の下で、私の事を見つけられる?」
 私は彼女が何のつもりなのか全く理解できずに混乱した。あたふたとしていると吉仲さんは笑い出し、「ごめんなさい。一度言ってみたかったんです」と付け足した。やっと安堵したところで私は思ったものだ。
 この私が、きっと見つけて見せよう!

 しかし、結局私は彼女の事を見つけてあげられなかった。或いは吉仲さんを見つけるという役目を背負った男は別に居たのだろう。大学を卒業してからは、互いに連絡すらも途絶えてしまった。

 受話器を握る手が痺れ始めたところで、何だかむなしくなってきた。結局私はこの電話の相手が吉仲さんであって欲しいと願っているだけなのである。知人が監禁されているのを願うとは人としてどうなのか。少なくとも一般市民的には不道徳と言って良い。

 初めから分かっていた。これは見知らぬ誰かの携帯電話が自ら起こしたクーデターに過ぎない。受話器の向こう側から複数の笑い声が聞こえたところで私は一気に熱から覚め、携帯電話を耳を離した。

 吉仲さんは今もきっと、この東京のどこかで元気にしている。
 あの時と変わらない笑顔で日々頑張っている吉仲さんを想像した。私には全く縁の無い交友関係の中で生きている彼女は、最早別の世界に居ると言って良い。その姿は私にとって妙に寂しく感じるものであったが、それで良かったとも思える。
 今はもう、携帯電話の番号しか知らない仲だけれど、それでも私は彼女の幸せを願っているのである。

 私は名前も知らない間違い電話の相手に感謝をした。久しぶりに吉仲さんの事を思い出せる良い機会を与えてくれたのである。

 最後に一言、「お世話様でした」と言うと通話終了のボタンを押す。

 顔を上げ窓を見やると、カーテンの隙間からもれる光が私の網膜を焼いた。
 どうやら今日は快晴のようだ。


著/がるあん
挿絵/ヨツベ

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