見出し画像

選択する悪魔

 スーパーの商品棚へ手を伸ばし、しばし逡巡する。
 目的の品である二種類のマッシュルームが並んでいた。
 ホワイトマッシュルームとブラウンマッシュルーム。
 差し出した手がそれぞれの前を行ったり来たりしていると、私は少し馬鹿馬鹿しくなって口角が上がった。
 どちらを選んでも味や金額に差はない。私は料理の見た目に拘るタイプでもない。心底どうでもいいと感じる二択を前に、私は今迷っている。
 やがて白いマッシュルームが選び取られると、左手に抱えられた買い物かごの一番上へ放り投げられる。選んだ理由は特に無い。本当になんとなく手に取っただけ。

 私はそれから鮮魚コーナーでバナメイ海老を品定めしながら、こんな選択を迫られるのは人生で何度目のことだろう、と思った。

 人が何かを選択する度に行われる行為。
 数百万……数千万……?

 私は398円の海老のパックを手に取ると、カゴの中へ放り入れる。
 それから視線を自分の右肩へやった。それは相変わらず、時間や空間を超越した存在としてそこに鎮座していた。
 選択する悪魔。
 壮年の男性風の顔には表情らしいものは認められず、深い藍色のスーツに身を包んで、足元は光届かぬ海の底のように、光を吸収する黒は立体感を失っている。
 どういう原理かはわからないけれど、彼は常に地上から十センチ程度浮いた状態を維持して、私が動けば付き従う。
 時々思う。悪魔にはもっと悪魔らしい見た目をしていてほしかった。
 容姿だけを見れば、彼はどこにいても変哲のない人間の男のように見えた。まあ、悪魔というのも、真偽は定かでないのだけれど。

 選択する悪魔の石膏のような瞳は前だけを見据え、あの決まり切ったポーズで今も静止を続けている。
 彼の差し出した両の手には、今も一本ずつの麻紐が握られていた。
 一方の麻紐の先にだけ、血が染み込んだような赤黒いマークが付けられている。私はしばし二本の紐を眺めたのち、買い物かごをレジへ持って行くことに決めた。選択する悪魔は見えないピアノ線に引っ張られるように、私のすぐ近くを静かに付き従った。
 ゴロゴロと雷の嘶きが聞こえる。
 空の一面を覆い尽くす低い雲の層は、今にもコップから溢れそうな水を連想させた。夕立の前に買い物を済ませられそうで、私は少し安堵した。

 じっとりと粘つくような空気を割いて、夏の夕方のアスファルトを踏みしめていく。
 とかく人生は選択の連続だと、紋切り型の文句は幾度も耳にした経験がある。人生の大きな分岐点になる重要なものもあれば、夕飯のマッシュルームの色に至るまで、人は常に選択を迫られる。
 私が何か重大な選択を迫られた時、彼は決まって現れた。

 風の無い夏の日暮れが、歩く度に体へ染み出す。
 今はもう記憶も色褪せた8年前、私の前に選択する悪魔が現れたのは、私が高校二年生の頃だった。
 
 
 かつて私は、とある雑貨屋で万引きをして捕まった。
 盗んだのは装飾の可愛い、ポケットに入るサイズの小物入れだった。それほど高いものでもなかったが、何の魔が差したのか、私はお金を惜しんでそれを懐に忍ばせてしまった。
 あの頃の私は、ほんとうに愚かだった。
 経験が未来に与える影響について、私は想像すらしようとしなかった。
 過去は枷になり、枷が重ければ愚鈍になる。
 今更それを取り払おうとしても、もう叶わない。

 私が身に覚えのないの一点張りで難局を切り抜けようとしたのも、著しく店長の心象を下げる原因になった。結局は怒った店長が警察を呼び、父親をも巻き込んで大勢の大人に迷惑を掛けた。
 父は私と共に警察と店長へ頭を下げて廻り、私の愚行についても、一言苦言を呈しただけで赦した。夜の国道を走る車内、橙色のライトが前から後ろへ遠ざかる毎、涙が止まらずにぐしゃぐしゃになってしまった。
 事件が一通り収束し、私は泣きはらした顔を洗うために洗面所へ向かった。
 顔を一度水で濡らして鏡へ向き直った時、筆舌に尽くしがたい異常な出来事が起こっていると、ようやくここで気がついたのだった。

 私がそれを見つめ固まっていると、彼はゆっくりと右手だけを差し出してきた。その手には赤い印が刻まれた一本の麻紐が握られていた。
 「選択する悪魔」
 それが名乗りの口上だったのか、私に対する何かのメッセージだったのか、それは今もわからない。彼はおよそ人らしくない無機質な態度のままに、差し出した紐を取らせようとしていることだけは、確かに私にも伝わっていた。
 恐る恐る麻紐の端を握ると、それはたしかに、本物の麻紐のように感じられた。雑な作りのそれは、ところどころの繊維が切れてはみ出し、肌を突き刺すようなざらざらとした感触だった。
 「あなたは印のついた紐を選んだ」
 差し出さなかった左手をこちらに突き出すと、その手には赤い印の無い麻紐が握られていた。そして彼は突然、ぱっくりと切断したみたいに、あり得ない大きさの口を開いた。口の端が裂け蛇のようになった彼を見やり、やはりこれは人間ではないと、ようやく得心したのだった。
 彼は麻紐を握った腕ごと口の奥へとねじ込んだ。何度か咀嚼し飲み込むと、すぐに平常の彼の姿へと回帰していく。それもまた何かの仕組みの一部でしかないといった様子で、それは極めて機械的な作業に映った。
 気がつけば、悪魔の姿はどこにも確認出来なくなっていた。あらゆる異常は過ぎ去れば夢のようで、私は洗面所のドアをいつまでも見つめていた。

 あの時の私は心身が弱っていたからか、受け取った麻紐が今も消えずにリアルな感触を与えていたからか、とにかく理由はわからないけれど、それが妄想や幻覚の類ではないと私は理解した。
 しかし選択する悪魔が他人には視認されないとわかってからは、私は彼についての一切を秘匿すると決めた。
 それから、彼は度々私の前に姿を現すようになった。決まって何かに迷っている時に現れて、二本の麻紐のうち一本を私に選ばせた。そして一連のやり取りが終了するまで、彼は腕にくくった風船のように付き従うのだった。
 
 
 食べ終えた夕飯の皿を流しへ突っ込むと、蛇口を捻り水を浸した。今洗う気にどうしてもならず、結局後回しにして私はソファへ腰を下ろした。勢いよくソファへ沈み込むと、選択する悪魔の持つ麻紐が弛み、私の頬を撫でた。ところどころ突き出した繊維が肌を突き刺して、いよいよ私は決めなければならないとひとりごちた。
 そして私は思案する。一体何を決めるのだろう、と。
 蛍光灯の光で満ちた部屋は、小さな埃が揺蕩う以外に変化らしい変化を認められない。静かで静止した世界に、換気扇が回る音だけが剣呑に響いていく。
 選択する悪魔は、決まった文言以外を発しない。それでも私が麻紐を選ぶ時、それが一体何の選択を示すのか、大体の見当は付くものだった。
 私と彼の初めて邂逅では、私は紐を選ぶ権利を持たなかった。強制的に渡された印付きの麻紐は、既に為された選択を示すものだと私は結論付けた。つまりあれは、「万引きを行う」という選択だったのだろうと、私は納得することにした。
 印付きの麻紐は、「行う」印のない麻紐は「行わない」
 そんな不文律が出来たのは、もう随分前のことになる。しかしそれらのルールは、私が勝手に推察して作ったものだ。本当は麻紐を選び取ることに特別な意味など無いのかもしれない。私がなにかに迷った時に彼が現れるのも、ただの偶然だったのかもしれない。

 どちらの紐を選んだとしても、なにかを実行するのは私自身だ。
 私は背後を今一度確認する。選択する悪魔がそこに居る。光を吸収する素材のスーツが、白白と光る自室の中で、際立って浮いて見えた。
 今回、彼が現れて、もう二週間は経っていた。二週間、紐を選び取れなかった経験は、これまでに一度もなかった。
 何故私は選べないのか。
 その理由は明白で、私には今回、彼が現れた理由に全く見当がつかなかったからだった。何を選ぶのか不明瞭な選択に、私は一層不気味な気配を感じていた。答えが不明でも、せめて私が納得して選べるまで、結局私は選択を先延ばしにしている。
 私はなにを迷っているのだろう。
 彼が差し出す二本の麻紐は、静かな空気の流れに煽られて、室内灯から伸びる細い紐のように、くるくると揺れている。
 私がそれを選択するまでは、どうやら彼は消えないらしかった。
 
 
 その日は天気予報が外れて、朝から雨が降っていた。
 それ以外は普段と何も変わらない、変哲のない日常だった。早めに仕事を切り上げた私は、雨に沈む街を望みながら、ベランダの椅子に腰掛けた。
 人間の習慣という感覚は、あらゆるものを日常へ置き換えてしまうらしい。私はこの頃、常に私へ付き従う彼の存在を、忘れる時すらあった。真夏のある日に現れた彼だけれど、私が迷っているうち、季節が一つ、通り過ぎてしまった。
 この頃は仕事が忙しく、彼や彼にまつわる事柄について、考える機会を逸していた。ようやく繁忙期が過ぎ、こうして夕方の街をぼんやり眺める時間も得られたところで、今一度、選択する悪魔について考えを巡らせてみてもいいかもしれない。

 秋の雨は優しい泡のように街を包み、静かで柔らかい風を私の足元へと運んでいった。静かな夕暮れの街を見下ろして、いよいよ夏も終わったらしいと、私は思った。今年は帰省をしなかった。来年こそはと、いつも思うもの、もう5年は実家に帰っていない。私は親不孝者だ。
 そして私は、あ、と思った。
 柔らかく冷たい風に煽られて、今も麻紐は静かにくるくると揺れている。
 すべてはただの推察でしかない。選択する悪魔も、麻紐も、やっぱり私の妄想が生んだ産物なのかもしれない。そんなものに論理を求めるのは、ぬか床に釘を打つくらいに無意味な行いかもしれない。

 けれど思いついたアイデアには、これまでの疑問を払拭する説得力が、少なくとも私はあるように思われた。
 希死念慮。
 私が高校生の頃、万引きが暴かれ大勢の大人に迷惑を掛け、選択する悪魔が現れたあの日。それは本当に小さな粒のような弱いものだった。けれど私はそれを消そうとは思わなかった。あれから8年間、払えば消えるほどの小さな粒だったそれは、今はどうしてか私の中に大きな根を張り枝を伸ばしているように感じられた。
 これまでそれを本当に実行しようとは思わなかった。誰しもが心に持つ、風のない静かな午後のような諦観だと私は考えていた。

 本当にそうなのだろうか。私の心に根ざしゆっくりと成長を続けたそれは、もう花を咲かせたのだろうか。
 小さなパイプ椅子の上で、私は膝を抱えて丸くなる。

 自室の明かりがベランダへ伸びている。もうすっかり夕方は過ぎ去って、新しい夜がやってきたようだった。
 街の遠くの明かりはぼやけて滲み、街と空は曖昧に溶け合っていく。
 それでもいいのかもしれない。
 結局私は、そう思ったのだった。それは私の心に根ざした希死念慮が、たしかに大輪を咲かせたという証左でもあった。

 ――いや、本当にそうなるとは限らない。実家の両親に顔を出すか否かという、些末な迷いから生じたものだった可能性だってある。選択する悪魔が差し出す紐に、深い意味など何一つないのかもしれない。
 いずれにせよ――私はいつかは紐を掴むことになる、それだけは確かなことだったように感ぜられる。

 もし私に明日があるならば、仕事をほったらかしにして、実家へ帰省しよう。久しぶりに寿司を食べたいと我儘を言って、両親を困らせてみてもいい。

 彼の方へ向き直ると、選択する悪魔は街の遠いところを眺めていた。
 いや、彼は何も見ていないのかもしれなかった。悪魔というものは、こんなに仕事に堅いものなのだなぁと思うと、少しだけ笑いがこみ上げる。
 彼の右手には赤い染みが付いた麻紐が握られている。今も静かな風に揺られ廻っている。

 私は一度息を吸い込み、ゆっくりと吐いていく。
 そして紐の先を掴むと、やがてそれを引っ張った。


著/がるあん
絵/ヨツベ

よろしければ、サポートお願いいたします! いつか短編集の書籍化も実現したいと考えております。