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18,親友 虹に乗って旅立つ
うつ病再発のため、2018.11から休職。2019.1から鍼灸治療も開始。2019.3に 初孫が誕生します。その後は、ゆっくりと回復していきました。2020年の中頃から家の建て替えの話が持ち上がります。コロナ禍でしたが、様々な条件が整い実現方向へ。その後は、家の設計などでバタバタと時が流れていきます。
旅行にも行きました。コロナ禍でしたので、あまり遠方へは行けませんでしたが、2020.3には奄美大島へ、2020.11には長野県内へ旅行に行っています。感染の多い時期には、近場の神社巡り(神社参拝が趣味なもので)をしたりしていました。
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↓ 2022.3.2~6 奄美大島旅行記
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2020.11には上越、妙高、飯山、小布施方面へ旅行に行きました。旅行の最終日、朝食の際、妙高山方面に虹がかかりました。こんな風に雪山をバックに虹のかかる風景はみたことがありませんでしたね。
その後、帰宅後の翌日に高崎の大学の親友が他界したと連絡がありました。逝ったのは虹の出た日です。
私の母もALSで他界したのですが、私の母もそうでしたが、親友も人工呼吸器は付けない選択をしたそうです。病気になってからは彼は社長でしたので会社へはできるだけ出社していたようですが、友人とは誰にも会わなかったとの事。私もお見舞いに行きたいと何度か打診しましたが、良くなったらね、とかわされていました。
彼は虹を渡って天に召されたでしょうか。数日後お通夜・告別式に参列しました。立派なお葬式でした。葬儀は真言宗でした。声明・・・お坊さん、良いお声でした。お通夜参列時に第三の目(サードアイ)の辺りがジ~ンと熱くなってきて親友が近くに居ると感じました。葬儀場は、コロナウィルス感染対策で、近縁者、参列者以外は通夜・告別式共にお焼香後、直ぐに帰れるように(密にならないように)工夫されていましたので、人が溜まる場はありませんでした。また、テレビカメラで葬儀の様子が他の場所から良く解りました。
告別式後、霊柩車を見送ってお別れしました。霊柩車が発車するときのホーンの音が悲しかった。でも霊魂は不滅で死後も存続すると思っていますので、いずれまた会えますね。それまでみんなを見守っていてください。
それにしても1年間でこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1~2.5人だそうですが、そんな珍しい病気に母と親友が罹るとは・・・どういうことなのでしょう。
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このALS(筋萎縮性側索硬化症)は、ゲーリック病とも呼ばれています。
「ぼくはのっぽの大リーガーだった」・・・・この本は、2歳の男の子、クリスチャン ハウプト(Christian Haupt)くんが、かつて大リーガーの選手「ルー・ゲーリック」だったとほのめかし、母親がその信ぴょう性を徹底的に追求するといった内容です。
ルー・ゲーリック(1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグのプロ野球選手(内野手)。ニューヨーク州ニューヨーク市生まれ。左投左打。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した。三冠王をはじめ、打撃タイトルを多数獲得し、史上最高の一塁手と称される。
ゲーリッグは毎日プレーを厭わないその頑丈さから鉄の馬(Iron Horse)と呼ばれ、1925年から1939年の14年間に渡り、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たした。しかし、1939年、体調異変を感じて自ら欠場を申し入れ、記録は途切れた。後の診断で筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたゲーリッグは引退を決意した(この病気は「ルー・ゲーリッグ病」と称されることもある。ルー・ゲーリッグ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2020年9月21日 (月) 12:29
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