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去年の8月に書き忘れたことと、ちょっと追記。(雑記)

(この記事は2021年4月に書いた記事を再編集しています。最後の方がまとまらず、当時投稿をしていなかったものに文章を付け加えました。)

日が暮れかけた街をとぼとぼ歩いていると、吹き抜ける湿った風の中にも、どことなく秋の気配を感じる。季節の変わり目は、前触れもなくやってきて、いつの間にか過ぎ去ってしまう。いつまでが夏で、いつからが秋だなんて区切りがあるわけではないけれど、ふと気が付いたときにはこの連日のうだるような暑さが嘘みたいに、吹く風の匂いと肌寒さに切なさをしみじみ感じながら、思わず秋だなあと呟いてしまう日がやってくるものなのだろう。
日本では今頃、ヒグラシが鳴いている頃だろうか。まるで算数や図画工作で出てくる三角形が、風車のようにカラカラとまわる鳴き声が、夏の終わりを演出していたあの日の帰り道を、ぼんやりと思い出しながら、懐かしさと郷愁に浸ってみる。ちょっとだけナルシストみたいだけど、誰にも見られていない、誰にアピールするわけでもなく、ぽつぽつと、歩いてみる。「そういえば、ヒグラシは秋の季語だったっけ」などと思い、スマホで検索してみたりする。

蝉はよく「儚さ」の象徴として使われるけれど、それは多分、蝉が地上に出てきてから「ミンミン」や「カラカラ」と鳴く期間が、ほんの一週間足らずと言われているからだ、と思う。(もっとも最近の研究だと、長くて一ヶ月くらいは活動するらしい。)ただ、最近目にした記事には、蝉は地上に出てくる前、幼虫として地中に潜っている期間を含めると約七年ほどと、個体寿命としては、昆虫の中でも比較的長い方だということが記されていた。まあ知識としては知っていることだったけれど、なるほど、言われてみればその通りだ。こうした「気付き」とともに、つくづく人間というのは、表に見えるものや目立つもの、分かりやすいもの、自らの視点から知ることのできるものを、出来事の本質だと思い込み、目立たないことや役に立ちそうもないことを、「負のもの」としたり、元から存在しないもののようにしてしまう、そんな癖があるのだなあ、なんてことを考えていた。

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あなたにとって、あるいはわたしたちにとって、理解の範疇を超えるような、あるセンセーショナルな出来事が起きたとき、決まって「どうしてだろう」「なぜだろう」という疑問が先行する。そして何が原因なのかと詮索したり、決めつけたりして、時には誰かを、そして自分自身を批判してしまうことがある。

世界を理解するために、何かを証明するためには、必ずある一定の「論理」が求められるものだ。「原因」という起点と、「結果」というゴールに基づく因果関係によって、ある程度のことを説明してしまう、それが科学的な論理であって、学問に限らず、人生においても、そうした「論理」を知ることによって、出来事を自分たちの理解の範疇に昇華して、安堵する。こうした点と点を一直線で繋ぐ思考こそが論理的と称され、もちろん多くの場面で求められる能力であることは事実である。

でもね、やっぱり世の中は、わたしたちのいる世界はそれだけではなかなか、立ち行かない。こんな目的合理性がはびこる世の中でも、その「合理化」によって語られ得るものには限界がある。わたしたちは必ずしも、「合理的」に生きているわけではない。わたしたちにとって見えている2つの点は、必ずしも一本の直線で繋がっているわけではないのだ。もちろん二つの点は互いに関わり合うものであるかも知れないし、もしかしたら近い位置で因果的に関係しているのかも知れない。ただ、そうした少ない点しか見えてないわたしたちが、それらを繋ぐことを担っているわけではない。そしてその二つに点の間には、無数の、縦横軸を超えたあらゆる場所に、点が広がっていることもまたあるのだろう。それを、見えてるものだけで、理解できるようにつなぐことに対して、はなはだ暴力性を感じてしまう。目の当たりにした事実を、たとえ肯定的に捉えたとしても、そういう場面に出くわすことが、なかなか辛い。

わたしたちに見えている断片を恣意的に物語るという行為は、一方でわたしたちを「理解不能」な現実からの避難場所になる。ドラマチックな物語に、陶酔して、心を癒したり、新たな発見を得たりすることもあるかもしれない。わかりやすいストーリーや劇的な展開は、受けがよく、また人々の琴線に触れやすいものだ。でも同時に、事実を「物語化」することに対して、深く考えてしまう。人の暮らしや人生を、断片的な事実のみにより解釈して、「物語」かのようにして語ることは、どういうことなのか、と。

そんなことを言っていたら、もはや語り得ることなど、何もなくなってしまうのだろうか。結局のところ物事は主観でしか語り得ないのであって、そこに疑問を持つこと自体がナンセンスなのかもしれない。

事実に対してその原因とか背景を詮索したり、決めつけたりしながら、誰かを批判したり、自分を批判したりするのは違う、となんとなくだけど思っている。行き場のない感情が、ぐるぐると回ってしまうのなら、その矛先は他人でも、あなた自身でもない。空白は一生埋めることのできないだろうけど、埋めようと無理をする必要も、多分なくて、曖昧で、全然わからないけど、そのままで生きていけばいいんじゃん、と比較的ゆるく捉えたいと思うのだ。

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蝉が仰ぎ見た空が何色か、頭を捻ったところでそれを知る由はない。もしかしたら、彼らにとっての地上の一週間というのは命に火を燃やすのには十分過ぎる期間だったのかもしれない、それを「人間」の主観で儚いだなんていうのが少し恥ずかしくなってくる。

事実に対してそれが良いとか悪いとか、逃げとか忖度とか、信念とか、礼儀とか、謙虚さや誠実さを語ることは、もしかしたら「常識」という主観によって人を追い詰めることになるのかもしれない。気を抜くとすぐにそういうことを忘れてしまうものだから、日々意識しながら生きていかなければならないとつくづく思うのだ。

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