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スぺカレAクラス~自分を見つめて社会も見つめる~

スぺカレAクラス 6月4日
・自分の責任者は自分
・オキシトシン系かドーパミン系か
・神は死んだ


自分の責任者は自分ということを現代の人々は忘れがちではないだろうか、これは生きるに値する人生を送っているかどうかということも関係してくる。怠惰な日々、とりあえず…が枕詞になったような行動、でもだって…が口癖の人、多くの人がこの問題に直面していると思う。
自分を助けられるのも、破滅の道へと運ぶのも自分だということを忘れずに過ごしてほしい。

その中にマッチングアプリが挙げられる。
マッチングアプリは簡単に言うと獲物探し、都合のいい人探しである。
深いかかわりなど考えず自分本位の関係を求めている人で溢れかえってしまっている。
その理由としては、マッチングアプリというものは便利・快適だからである。気に入らなければスワイプをしてしまえば目に入らなくなる、マッチをしたら即座に会って都合のいいように相手を扱うことができる。
まさに便利・快適である。

ここで「いいじゃん!楽じゃん!」と思ってしまった人がいたとしたら感情が劣化しかけていると自覚してほしい。
人間関係というものは昔から便利・快適ではない。
便利・快適にするとより深い関係が築かれないからである。

深い関係を求めていない人はマッチングアプリでどんどん楽しめばよいが、浅い関係ばかりつなげているといざという時に頼れる人がいなかったり、自分を心の底から信じてくれる人に出会えなかったりと、人間関係においていいことが一つもないのである。
マッチングアプリの懸念点はそこにある。

そのマッチングアプリの問題点に気づき、世界では人間関係にも”量より質”を求めて深い関係を築こうとしている流れが見えている。
深い関係についてはのちに説明するため、ここで今考えたことをよく覚えていておいてほしい。

自分の責任者は自分という考えについては推し活も大きく関係しているだろう。
社会的にも推し活はよりメジャーになり、アニメやアイドルなどに熱中している人が多くみられる。
しかし、社会学的にみると推し活を含むエンタメとは痛み止めではないか。という考えが生まれてくる。

「平日は苦しい勤務を耐えて…耐えて…土日は思いっきりリフレッシュ!…はぁまた月曜日…でも今度のライブがあるからどうにか平日耐えよう…」
このような考えで毎日を過ごしている人は非常に幸福度が低いといえるだろう。恥ずかしながら私自身も去年まではこの考えで毎日を過ごしていた。
苦しい日々は推しに癒してもらおう!そのためには平日嫌な勤務を耐えるんだ!と日々を過ごしていた。その結果として自分を見失い、何のために生きているんだっけ?とふとした疑問が生まれた。
つまりは痛み止めに依存して痛み止めを買うために労働をしていたのである。

エンタメしか考えられない日々に自分の生きる意味を見出すことなど到底無理なのである。
幸せのバランスを整えてライブに行ったり、楽しい場に行くことは大いに良いことであるが、エンタメを糧にして生きていると空っぽ人間になってしまうことを忘れないでほしい。

幸せのバランスとはどのように整えていったらよいのか、そして幸せのホルモンとはどのようなものがあるのかを見ていく。

幸せホルモンは大きく3つある
1.セロトニン:食事や規則正しい生活によって分泌される
2.オキシトシン:愛情、深い人間関係によって分泌される
3.ドーパミン:成功体験や身体の興奮状態の際に分泌される

ここではオキシトシンとドーパミンの違いについて恋愛の面から見てみよう。
「深い関係」を築くことの大切さを先ほど記したが、これはどちらのホルモンが作用しているかが自分自身を破滅の道に誘うか否かのカギになる。

ここでいう深い関係とはオキシトシンが作用している関係のことをいう。
スライドの通り、家族の愛情に近いものがオキシトシン系。
メンヘラっぽいのがドーパミン系である。

ドーパミン系で幸せを回すとどうなるかというと、簡単に言ってしまえば心が崩れ落ちてしまう。
先ほど記した通り、痛み止めを求めて痛み止めのために生きる人になる。
ここでいう痛み止めとは恋人になる。
結果は一緒で何のために生きているのか、誰かにすがりつき自分の足で立っていない。
そのためその誰かがいなくなってしまったら崩れ落ちるのである。

ではどうしたらよいのか、オキシトシンを感じる機会を増やすことが必要である。オキシトシンは一瞬で回復するようなドーパミンと違い、積み上げ方式で幸せを感じるモノになっている。
人と人とのあったかいつながりを感じられる場所に身を置き続けることがオキシトシンの分泌につながり、幸福度の高まりにつながる。

さて、社会全体の流れから自分について見つめてきたが、哲学者は昔からどのように考えていたのかを紹介していく。

ニーチェは神は死んだと言った。
これはキリスト教が強く信仰されている時代ではありえないと考えられたものであるが、自分自身に力を与えてくれる哲学として広まっていった。

神は死んだとは、価値や道徳の規範、固定概念を疑い続けながら新しい価値を生み出す超人になれ。ということである。

現代の社会を受け入れて何もしない、「これが当たり前だから…」と受け身になってしまえば、それ止まりなのである。
新しい価値を創造し続けることで社会が変化し続けることにつながるのだ。

自分の考えなんてどうせ…となってしまうのも無理はない。
しかし、大きな声は出せずとも社会に目を向けたり自分自身の価値観とすり合わせていったりすることでそこで仲間が生まれるかもしれない。
それこそが深いつながりなのである。
現代の人々は自分や社会から目を背けずにしっかりと物事を深く見つめてほしい。

まとめ)社会を見ることと自分を見つめることを同時にしていくことで相違点が見えたり、この考えはどこから生まれたものかと自分自身にも疑問が生まれてきたりした。この考えを討論したいと思える仲間がいることを大切にしながら自分の生きる意味や生きていることで残せるものを価値のあるものにしていきたい。

まなちゃる


マイクロスポーツを幸福にカッコよくするための学びを発信します。