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目からビーム!41 オレたちヒョーゲン族(あいちトリエンナーレに寄せて)

 またぞろ、ヒョーゲンのジユーとやらの大合唱である。
 それにしても「平和の少女像」と称する、あの慰安婦呪い人形(いうまでもなく、あの像のような少女慰安婦は存在しない)のどこが「作品」で、何の美術的価値があるというのだ。いや、もしかして展示すること自体が「表現」だと言いたいのだろうか。
1917年、マルセル・デュシャンは、ただの陶器製の小便器に「泉」という題名をつけ、ニューヨーク・アンデパンダン展に出品を試みた。現代アートの歴史はここから始まるのである。
 この故事(?)を思い出して、ようやく僕の中で慰安婦呪い人形と便器が等価値で並んだ。言い方を変えれば、現代アートなど、100年も進歩がないということになるだろう。はっきりいえば、その手の芸術のほとんどが、思いつきと屁理屈の産物である。いっそ、あの呪い人形に「便器」というタイトルをつけて出品すれば、また別の芸術風景がそこに現出していたかもしれない。

少女像の作者は金夫妻という彫刻家。夫妻は北朝鮮とつながっているという説も。この少女は14歳を想定しているという。明らかに横田めぐみ氏拉致との相殺を狙っている。

 慰安婦呪い人形以上に、日本人の怒りを買ったのが、昭和天皇の写真をバーナーで焼く映像作品(嶋田美子「焼かれるべき絵」)だが、多くのマスコミはこちらの存在は無視して、展覧会中止を「慰安婦像展示に対する右派勢力の圧力」に集約させようとしているようにも見える。そもそも、このような作品が展示されれば抗議の声が殺到することは最初からわかっていたはずで、「表現の自由の侵害」「芸術への不当な干渉」「戦前の検閲を思わせる」などの陳腐な言葉も、あらかじめ仕込み済みだったろう。その上で被害者ポジションを取り、よしんば政権批判にむすびつけよう、津田某ごときの浅知恵はサルでも読める。

さすがに陰〇ヌードは貼れなかった。ご興味のある方はググられよ。


 展覧会開催中、観客の男性が慰安婦像の顔に紙袋をかぶせるという「いやがらせ」があったという。しかし、ハプニング・アート、コンセプチャル・アートの精神からすれば、「紙袋をかぶせる」という行為も立派な「作品」ではないか。しかも実に平和的だ。
「鑑賞者が創造的行為に加わることによってアートが完成する」。マルセル・デュシャンの言葉である。
 

デュシャンの「泉」。便器が「泉」なら、●●像が「便器」であってもいい。

初出・八重山日報


新宿トルエンナーレ。70年代の初頭、西口行けば見ることができた。


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