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川崎市は文化の破壊者の道を選ぶのか

「大工の八っあん」はもういない

 東京浅草の長瀧山本法寺境内に「はなし塚」がある。戦時色の濃くなった昭和16年10月、時局にそぐわないという理由で廓話など53の演目を禁演落語に認定し、この「はなし塚」に封印、弔ったのである。あくまで、噺家サイドの自主規制という形だったが、戦時体制による大衆娯楽への抑圧の記録として、「はなし塚」の縁起は今に語り継がれている。
 では、戦後、落語は自由になったというのだろうか。否である。むしろ、“禁演”落語の数は増加しているのだ。故・三笑亭夢楽師匠によれば、いわゆる古典落語と呼ばれるものは約500演目。うち、現代まで伝わっているのが300演目くらい。しかし、実際、テレビや寄席、ホールなので演じられているのは100演目程度だという。つまり、200演目は何かの規制に引っかかるわけである。

浅草本法寺の「はなし塚」。碑の裏側には、発起人である寄席の席亭や桂文治、柳家小さん、古今亭志ん生などの名前が刻まれている。

 わかりやすい例で挙げれば、『三人片輪』『せむし茶屋』など障碍者が出てくる噺。まあ、これに関しては理解できなくもない。他には、ちょっと頭の弱い人物を主人公とした滑稽噺、たとえば、与太郎モノなども知的障碍者を笑いものにするということで、現在の基準としてテレビでは演じられない。さらにいえば、「あんま」「床屋」という、筆者が子供のころは日常的に使っていた単語も厳密な意味では放送コードに引っかかり、それぞれ、「マッサージ師」「理髪師」に言い替えなくてはならなくなった。大工の八っあんが「建築作業員の八っあん」ではしまりがない。となれば、少なからずの数の古典落語が電波に乗らないのもうなづけよう。新作落語の世界も例外ではない。テレビ落語のパイオニアの一人、三遊亭圓歌の十八番『授業中』も吃音者が出てくるという理由で放送不可。これは少年時代、吃音に悩まされた圓歌師匠の自伝的な作品でもあるのだが。
さすがに、寄席ではそこまでやかましくはないが、それでも、噺の大意をそこなわない程度に途中を端折たり、微妙に表現を変えたりすることはよくあるという。

深化する言葉狩り
 
反差別という名目による表現の規制が、落語やドラマといったエンタメの世界にまで入り込み始めたのは1970年代半ばごろで、部落解放同盟や彼らの活動に便乗した差別利権団体が過激な糾弾闘争を繰り返していた時期と重なる。民放各社は、独自の「言い替えマニュアル」をつくり、過敏なほどの自主規制でこれに対処した。そのための悲喜劇も多かった。たとえば、あるアニメ番組に「ブラックタクシー」という名前の暴力タクシーが登場するが、「部落タクシー」に聞こえるというクレームがあり、局が謝罪したなどという事例はその最たるものだろう。
こういった、大規模な言葉狩り、表現狩りキャンペーンには、周期のようなものがあるらしい。80年代後半には、「ちびくろサンボ」騒動が起こった。童話『ちびくろサンボ』のサンボが黒人の蔑称で差別にあたるとの指摘を受け絶版に追い込まれた。この余波で、ダッコちゃん人形、カルピスのトレードマークなども、“ステレオタイプな黒人像”としてやり玉に挙げられている。90年代の末から0年代にかけては、ポリティカルコネクトとフェミニズムの台頭か、看護婦を看護師、保母を保育士など、職業名から「性差」を排除する傾向が顕著になった。極端な話では、女優という語を廃止し男女ともに俳優に統一しろという主張もある。確かに、男優という言葉はアダルトビデオの世界ぐらいでしか耳にすることはないが(笑)。ならば、従軍慰安婦も従軍慰安師にしたらよかろう。
筆者など、キャビンアテンダントという呼称はいまだに馴染めず、ついスチュワーデスと呼んでしまうのだが、この語が「女性差別」「職業差別」と言われてしまえば、困惑するばかりである。

 メリー・クリスマスの言えないアメリカ
 
言葉は文化だ。筆者のように文章を飯のタネにしている者にとって、毎年のように多くの言葉が葬られていくのは、仕事上の差しさわり以上に、この国の文化が、ひいては人類の文化が、どんどんと先細っていくかのような危機感を憶えずにいられない。むろん、あからさまな差別語や蔑称は許されるものでないが、それらの言葉でさえ文化的な背景があるわけで、それを無視して言葉だけを狩るようなやり方は、別の新たな差別を生むだけのような気がする。
アメリカでは近年、暮の挨拶である「メリー・クリスマス」を止めて「ハッピー・ホリディ―」に変えようという運動がさかんならしい。キリスト教以外の宗教を信仰する人たちへの配慮だそうだ。別にメリー・クリスマスという言葉自体に、異教徒を排除する意味合いはないだろう。こういった文化的に育まれ定着した日常語から宗教由来の言葉を完全に取り除くことは不可能だしナンセンスだ。そもそも日本語の「挨拶」からしてもともとは仏教用語なのである。「差別」(しゃべつ)もだ。「愛敬」も「有難う」も「玄関」も「四苦八苦」もそうで、これらの言葉が生活から消えた世界を想像してほしい。
 フランスの議会で、教育現場において「お父さん」、「お母さん」という呼び方を廃止することが正式に決まった。同性カップルを親にもつ子供を傷つけるという理由からだ。「ママン」といういかにもフランスの香り漂う呼び方が少なくとも公的な場所からは抹消され、「親1」(パランタン)、「親2」(パランドゥ)という無機的な言葉に代替されることになったのである。これはまさに文化の放棄であり、狂気の沙汰といっていい。

「お子さんにとって、あなたは親1ですか親2ですか?」。さすがにフランスでも混乱は隠せないようだ。

 世界は今、この手の偽善に塗りつぶされ、言いたいことも言えない重苦しい空気に包まれようとしている。その重苦しさを笑うように、トランプは自身のツイッターで堂々とMerry Christmasと呼びかけ、2016年の大統領選に勝利した。サイレントな多数のアメリカ国民はわかっていたのである。
そのトランプが苦慮する全米同時多発的黒人暴動もまた、人々の間に広がった偽善を核として嵐となって渦巻いている。まさしく、黒人無罪、略奪有理。罪のない白人少女が数名の屈強な黒人男性に囲まれ殴る蹴るの暴行にあい、それを止めに入った黒人女性もまた、裏切り者として鉄拳の洗礼を浴びるのだ。分断と憎しみの連鎖はとどまることを知らない。 

韓流映画の日本人ヘイト
 
筆者は、このたびの川崎ヘイト条例の行くつくところは、この分断と対立であると断言する。そして、その両岸の間に累々とした言葉の屍が見えるのだ。
そもそも、民族差別的な言葉を吐く人士など心の卑しいヤツに決まっているし、軽蔑の眼差しで報いるのが最良なわけで、はなはだしい場合も現行法で対処可能だろう。
 YouTubeにある韓国映画の1シーンがUPされている。厨房のコックが日本人客の料理に唾を吐きかけるのである。何も知らない日本人客がそれを美味しそうに食べるのを見て、韓国人の観客は大いに留飲を下げるのだろう。わずか1分たらずのシーンに「チョッパリ」(=豚の足。日本人に対する最大の蔑称)という言葉が2回、「ケッセキ」(=犬っころ。典型的な罵倒語)が4回も出てくる。おそらくこのシーンがなくても全体のストーリー構成には影響はないはずで、単に日本人ヘイトを目的したヘイト・シーンなのは明らかだ。筆者はこの動画を観て、怒りよりも先に憐みを感じてしまう。冷ややかな笑いさえ浮かぶのだ。こういう映画はむしろどんどん日本公開し、彼らの性根というものを広く知ってもらうがいいと思う。 

鉄の爪」だってヘイトにできる
 
川崎ヘイト条例を読んでみると、ヘイトの規定が曖昧でどこまでも拡大解釈が可能なのだ。これは恐ろしい。
たとえば、外国人を動物に譬えるのもヘイトだという。となれば、「韓国の猛虎=大木金太郎」という表現はヘイトとなる。「メキシコの巨像=ジェス・オルテガ」もだ。「狂える牡牛=オックス・ベーカー」や「狂犬=マッドドッグ・バション」などは「狂」の字がつくから、二重の意味でアウトである。黒人レスラーの「毒グモ=アーニー・ラッド」はBLMからもクレームがつきそうだ。まだある。「鉄の爪=フリッツ・フォン・エリック」。鉄の爪は英語でiron claw。Nailではなくclaw(禽獣類の鉤爪)であるから、これもヘイト条例に抵触する恐れがある。
何度も言う。言葉は文化である。昭和プロレス文化を愛する一プロレス・ファンとしても、この欠陥だらけの川崎市ヘイト条例は受け入れることはできないのだ。

狂犬マッドドッグ・バション

(初出)『日本を滅ぼす欠陥ヘイト条例』(すべてのヘイトに反対する会編)(展転社)2000年刊

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