目からビーム!119~アート無罪とヒョーゲンのジユー
あの穢(けが)らわしき『表現の不自由展』が今年もまた開催されている。
およそ、現代アートというものの正体は、自称アートであり、思いつきと”やった者勝ち”の産物に他ならず、マルセル・デュシャンが便器を「泉」と題してニューヨーク・アンデパンダン出展して物議を醸してから100年、何の進歩もない時代遅れのジャンルなのであることをはからずしも再確認させてくれたのが、「表現の不自由展」だった。
アート無罪ともいうべき風潮がある。権力や権威をからかうのも結構、規制の価値観に楔を打つのも結構。ただし、よほどセンスよくやらねば、それはただの排泄物に過ぎない。まあ、排泄物を作品と言い張る自称アーティストもいるらしいから、ややこしいことこの上ないが、言いたいのは、いつも「表現の自由」様が守ってくれると思うのは甘えと知れということだ。
行動右翼の世界にも「肉体言語」という“表現活動”があると聞いた。一水会の元代表・鈴木邦男氏は、かつて雑誌に連載していたコラムで「単に天皇制反対を叫ぶだけでは、われわれ右翼が動くことはない。しかし、皇室をポルノ扱いしたりする者に対しては容赦しない」と書いていたと記憶している。
昭和天皇の写真と陰毛ヌードをコラージュした自称アートは、「皇室をポルノ扱いした」ものではないのか。そのようなものに助成金、つまり税金が投入されている事実をどう見るのだ。別に氏の肉体言語まで期待するものではないが、何かしらのアクションがあるものとは思っていた。しょせんは口舌の徒だったようだ。
話は変わるが、今年7月、立憲民主党所属の俵鋼太郎小田原市議が走行中の電車の中で下半身を露出、公然わいせつ罪で現行犯逮捕されるという事件があったことを憶えているだろうか。もし筆者が、”人権屋弁護士“だったら俵市議に、「これは表現活動だ」「露出アートである」「逮捕は、国家権力による表現の自由に対する不当な弾圧だ」と徹底主張しろとアドバイスしていたかもしれない。そして身柄を津田大介に預ける。『表現の不自由展』の少女像の隣で、電車でやったのと同じことをやればいい。まさにアート無罪ではないか。
アートという権威を疑え。
(初出)八重山日報
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