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虫と植物とヒトと


<虫と植物とヒトと>

約300ほどの江戸時代の農書に「害虫」が出てくるのは1箇所のみ。
江戸時代には害虫の発生は神仏の怒りや祟りによるもの、あるいは気象条件や陰陽の気によって自ずと湧くものと考えられていた。

そのため他の災害と同様に準備をすれば被害は最低限に抑えられるものであり、起こることは避けられず仕方がないことであり、起きた後にどう対応するかが重要だと考えていた。農書にはその三つの段階に分けて技術的にも精神的にも教えが説かれていた。

私たちが当たり前のように使う害虫という言葉だが、実は生物学には「害虫」という分類はない。

害虫と呼ばれる虫は人間が作った小さな環境に生態的な適応を果たした昆虫であり、人間が生きるという活動をし続ける限り、持続可能で存続可能な昆虫であり、人為的環境無くして生存しえない栽培植物と同種の生物群である。今は人間との寄生(共生?)の道を選んでいるに過ぎず、近縁種は人間が住む環境とは遠く離れたところ、鳥の巣や蟻塚、哺乳類の巣の中、落葉層、木の皮の下、死肉の上などからも発見できる。

その虫との付き合いが長いのはヒトよりも植物である。植物が海から陸上に上がったあとを追いかけるようにしてやってきたのが現在の昆虫の祖先たちだ。それはもちろん植物を食べるためである。現在でも植物が生き残っているということは、虫に対しての防御策を持っている証である。

一見、植物たちは虫に一方的に食べられているように見える。しかし、実際は虫に食べられると植物は健康であれば対抗して毒を作り出し、それ以上の食害を防ぐことができる。植物の葉をちぎると良い香りだと思う成分は虫のとっては毒である。またアブラナ科植物のツーンとした食味もまた毒であるし、ヒトには美味しいと感じる苦みや酸味も同様である。植物は私たちに薬や栄養を作っているわけではなく、天敵に対して毒を作っているのである。これが「毒を以て毒を制する」という言葉のひとつの意味である。(他の意味はヒトにとって微弱な毒を入れて免疫力を引き出すことなど)

もちろん虫たちも、それに対抗し、適応している。ウリハムシの葉の食べ方を見ているとその毒や化学物質を送り込む管を切断し、避けるように円形に周りをちぎってから、中央部分を食べているのが分かる。そのため葉には切り取り線のようなスジが残っているのを観察することができる。

さらに植物たちは防御策を講じている。植物たちが発する香りにはその虫たちの天敵を呼び寄せるものがある。アブラムシに食べられた植物(もしくは食べられやすい植物)はヒラタアブやテントウムシを呼び寄せて、彼らは近くに卵を産ませると、卵から孵った幼虫がすぐにアブラムシを食べて育つ。モンシロチョウの幼虫に食べられたアブラナ科植物はその幼虫の体内に特殊な化学物質を投入し、その化学物質が幼虫の体液と化学反応を起こして、寄生蜂を呼び寄せる香りとなり、寄生蜂はそれに引き寄せられて幼虫の体内に卵を産み付ける。またアブラナ科のタネには善玉センチュウを呼び寄せて、悪玉センチュウを食べるように促す。イネ科やワタはヨトウムシに対して同じような戦略を持つ。

ナス科は昆虫の幼虫に葉をかじられると、植物全体に昆虫のタンパク質分解酵素だけに働く阻害タンパク質を作る。葉を食べ続けた幼虫は消化不良を起こして死んでしまう。ナス科のいくつかの種には害虫を捕食する益虫を呼び寄せる成分がある。

トライコームと呼ばれる葉や茎、花などの表面にある細かい毛は、害虫への防御、乾燥対策、強い光の緩和、断熱材、空気中の水分獲得など種や環境によってさまざまな役割を持つ。シソ科の香りはこの毛の中に含まれている。トマトの毛には害虫忌避成分がある。

これらの研究はここ最近のことで分かってきたことであり、おそらくほとんどの植物に似たような戦略があると考えられている。

植物は不要になった葉をわざと食べさせることがある。虫は不要になった葉を食べて、栄養豊富なウンチを落とす。間引いて風通しと日当たりを良くし、植物の成長を促す。自然農の畑ではウリ科の黄色くなった古い葉にはウリハムシがたくさんつくが、青々とした新しいにはほとんどウリハムシがいない。キャベツや白菜の古い外側の葉はアオムシが食べ尽くしてレース状になっているが、中心は青々とした葉が結球しているのが観察できる。

植物は虫に食べられて傷がついた後に回復する、ヒト同様自然治癒力が備わっているからだ。自然農ではその自然治癒力と引き出すために手を入れる。植物にかかっているストレスを読み解き、そのストレスを取り除いていく。植物自身に手を入れることもあるがそのほとんどが大地か大気の流れが滞っているためだ。だから畝肩や通路、畑周辺の草木など離れたところを手入れすることが多い。東洋医学において治療とはそういうものであるように。

最近の研究では植物は菌根菌のネットワークを利用して、同種のみならず他の種にもSOSや病害虫の情報をやりとりしてることが確認されている。私たちはついつい一種の植物だけでその性質を考えてしまいがちだが、彼らは繋がって一つの生態系として暮らしているようだ。

すべての命は弱肉強食の世界感のように、他の生物を犠牲にすることで成り立っている。しかし、このような過酷な現実の中にも強力な相互関係が発達している。食べる側は食べられる側の生物の健康や旺盛な繁殖力に依存する。食べられる側も病気で弱々しい生物が捕食されることで適度に間引かれ、健康を維持する。弱肉強食は力の上下関係ではなく、相互依存関係を意味している。コムギ(イネ)はヒトを家畜化したというが、逆にヒトが健康でなくてはタネを蒔いてもらえないように。

植物は黙って食べられない。生物多様性の世界では何か一つの種だけが繁栄することがありえないのは、こういったシステムが備わっているからだろう。すべての植物は子孫が住みやすい環境を整えることができる。虫による被害を減らすためには1年単位で考えるのではなく、数年単位で考えるように心がけよう。

ヒトによる栽培化によって、野菜は虫に対する防御策や周りの植物とのつながる能力が弱ってしまっている。ただし、その遺伝子は持っている。自家採種によって、その才能を呼び起こすことができる。自然農で自家採種が強く推奨されるのはそのためだ。そのため、どうしても自然農1年目は虫がつきやすいし、病気にもなりやすい。だからコンパニオンプランツや防虫ネットなどの資材を使って防ぐことも収穫を得るためには大切だ。

虫をせっせととってしまう人も多いが、それをすると天敵が増えるチャンスを捨ててしまっているようなものだ。それではいつまでたってもヒトの仕事は減らない。思い出して欲しい。私たちの目的は虫がつかなくなることではない。まず目指すところは虫がついても十分に収穫が得られるようにすることである。植物全体のうち3分の1ほどが食べられているなら大丈夫だ。また果菜類は実が食べられていない内は大丈夫だと考えよう。

自然農では「土作り・タネ作り・人作り」が重要だと言うが、虫がつかなくなるためにも同じことが言える。団粒構造の土を作り、空気と水が流れている環境を整える。自家採種を繰り返し、虫がつきづらい遺伝子が目覚めたタネにする。

農家は適地適作と適期適作と実践しつつ、農具を大切に扱う。「静」という字も農具を清める儀礼からきている。青丹から作る色が青で、「争」は耒を手で掴んでいる様子。農具を清めて虫害を防ぐことで、耕作や収穫が安らかなことを願ったことから「やすらか、しずか」の意味となった。そのため五穀豊穣を願う儀式では農具が神様の前で清められ、農家は日々農具を磨き丁寧に管理する。

これら「土作り・タネ作り・人作り」を全て満たすためには最低でも3年が必要だと言われるが、タネ作りは7年で最適化し、ヒトは一生かけるものだろう。

土もタネも人も、ヒトがすぐに作れるわけではない。自然との相互作用を通して、自然の摂理に従って作られていく。私たちは虫や植物との対話とケアを続けていくことでしか、成長することはできない。

自然農の1年目の畑には小さな虫が野菜にまとわりつき、目の前を漂っていて、手で払いのけたくなる。しかし、少しずつ生物多様性が育まれてくると次第に姿を消す。自然農ができる畑になると大地を植物の隙間を這うように進むクモやカマキリ、カエルなどがヒトの動きに合わせてうごめいていく。生物多様性は自然遷移の流れと同調している様子を観察することができるのも初めのうちだけだ。その過程すらも楽しんでもらいたい。


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