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真似て、慣れる


<畑の哲学>真似て、慣れる
私は自然農や有機栽培をされている方の元を1年間計4箇所ほどウーフという形で渡り歩いて旅してことがある。ウーフというのは自給自足や農家さんのもとで働く代わりに、金銭ではなく知識や知恵、技術や経験を頂くスタイルの住み込みのボランティアみたいなものであり、世界中で受け入れが行われている。

さらに島根県に移住してからは自然栽培をされている農家さんの元で1年間研修生として関わったことがある。仕事の一部には給料が支払われるが、基本的には無給という形をとる。その代わり県が実施している制度を利用させてもらって生活していた。

師匠と寝食を共にする。学びたいと思っている知識や技術とは全く関係ないと思われる雑用をひたすら繰り返す。日本の伝統芸能や文化の世界ではそんな日々を10年も過ごすのが弟子入りという制度だった。そういった徒弟制度は江戸時代ごろまでは当たり前に存在していたが、昭和、平成、令和と急速に失われていった。

一昔前まで、こういった形の修業は一番身近な学習方法だった。しかしそれは現在では労働基準法にひっかかるため、双方の合意がない限り、行われることはめったにない。実際に合意があってものちのちトラブルになることも多いそうだ。

その約2年間の修業の日々は経済的には苦しかったのは間違いないが、その日々は講座やセミナー、学校では学ぶことができないことを多く学ぶことができた。それは暗黙知とか身体知とか呼ばれるものである。存在としての智慧といってもいいだろう。

職人たちの後ろ姿はもちろん、仕事をしている姿はこの上なく美しい。それはたとえどんな表現方法を屈指しても、表現しきれない。絵画でも音楽でも映像でも文章でも。村上春樹さんでも岩井俊二さんでも。(私は二人の大ファンであるが)

その後ろ姿を見ることができるというのが、非合理的で非効率的で非経済的な修業を受ける一番の理由であり、それ以外にはないのかもしれないと思うほどだ。

学ぶとはもともと「真似ぶ」であり、師匠の動きをひたすらに真似ることから始まる。習うとはもともと「慣れう」であり、師匠から与えられた動きに慣れることで身体に染み込ませていくことで身体に覚えさせていく。

そのため今でも伝統芸能や伝統工芸の世界では「見習い」と「手習い」の期間がある。見て学び、手を動かして学ぶのである。その期間のもどかしさは想像しやすいだろう。知識や技術をいち早く習得したいと思っている、それが目の前にあるにも限らず、やらせてもらえない、任せてもらえないのだから。

その代わりに「これってどんな意味がある?」「こんな雑用ばかりさせやがって」ということばかりさせられるのである。もちろん理由を聞いても「いいから黙って、やれ」なのだ。

しかし、その積み重ねがいきなり技能の上達へと結びつくのだから、不思議で面白い。その弟子が一人前となり独立する頃には後ろ姿ばかりか話す言葉もまた師匠そっくりなのだ。こうして暖簾分けは暖簾以外にも多くのものが師匠から弟子へと受け継がれる。

その様子は子供が両親に似てくる現象とほとんど同じである。子供は「親が言ったように育つ」のではなく「親がやっているように育つ」とはよく言ったものだ。それは「親の顔が見てみたい」という言葉にも通じる。

農業、もちろん自然農もまた身体知でしか身につけることができない。だからこそ、自然農を本を読んだり、動画を視聴してもできるようにはならない。講師は畑に行って、手本を見せなくてはならない。

さらにできることなら、一人一人できるようになるまで、ひたすら「全然違う、こうやるんだ!やり直せ!」と根気強く付き合わなくてはいけない。もちろん、現代ではこういった講座は実質的に難しく、参加者から敬遠されるだろう。それは本当に残念なことなのだが。師匠は厳しいが、自然はもっと厳しい。師匠の厳しさは、師匠から独立した後に優しさに変わる。

師匠には存在としての智慧がある。それはどんなに言葉や映像として残すことができても、弟子は師匠の元で一から体得していくしかない。死んでしまえば消えて無くなる。本当の智慧は記号では残すことができない。ただ弟子が存在として受け継いでいくことしか。

知性は明確な答えがないものに対して、五感を通して得た情報から考え、判断し、探求してくこと。知識を得ることも才能を磨くことも必要だ。これは自然農を実践する上で非常に役に立つし、学校や講座でも訓練が可能だ。

知能は明確な答えがあるものに対して、素早く正確に判断すること。知識と才能が必要で、主に現代教育の学校で訓練されている。

これら知性や知能が決して必要ないわけでもないし、智慧と比べて劣るわけではない。ただ現代人は存在として持っている智慧を学ぶことを忘れてしまっている。

学校で学ぶ知識と同等の価値がある。というのも存在が秘めている智慧はほとんど無限とも言えるほど深い。智慧は身体に内蔵されているし、遺伝子に組み込まれているように思えるほどだ。

よくよく考えてみれば他の生物、とくに親から子へ生きる術を伝授する生物は智慧を受け継がせているように思える。そこにこそこの地球で生き残る秘訣が隠されているのかもしれない。

もしあなたが運良く学びたいと思える自然農の職人に出会えたら、その職人自身をよく観察し、真似て、動きに慣れるまで繰り返してほしい。その師匠が「やれ」と言ったことはすべてやってほしい。(もちろん自然農以外の伝統工芸や文化の世界でも)

もしそういう人に出会えなくても大丈夫だ。師匠になりうる存在は自然界にはたくさんいる。土だって、雑草だって、虫だって、獣だって、樹木だって、いやこの地球そのものが存在として良き手本であり、良き師匠となりうる。

「これはすごい!」と思えるものはすべて最高の師となりうる。だから私にとって自然も地球もまるごと教科書であり、師匠である。彼らをよく観察し、真似て、動きと調和するとき、不思議と自然農ができるようになっているだろう。自然と調和した暮らしをしていることだろう。

もし「そういう人になかなか出会えない」と嘆くなら、それはひとつ勘違いしている。師との出会いは決して探したり求めたりして得られるものではない。その出会いは突然やってくる。求めていない時にやってくる。それは恋愛の一目惚れのようなものに近い。ビビッとくるのだ。グッとくるのだ。だから私がそんなあなたにできるアドバイスはひとつしかない。「いいから、観察しろ」と。


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