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<畑の哲学>諦めても、自然は終わらない


<畑の哲学>諦めても、自然は終わらない

「諦めたら、そこで試合終了ですよ」というのはおそらく誰もが知っている名言だろう。
もちろんスラムダンクは好きだし、ファンの一人であることは先に断言しておいきたい。

でも実際のところは諦めても試合は終わらない。
実際に試合中に「諦めました!」と審判に伝えても、審判は試合終了のホイッスルを吹いてくれない。
どんなに点差が開いていても、制限時間に達するかルールー上打ち切りになるまで試合は無情にも続く。

同じように自然界ではあなたが諦めたとしても何も終わらない。

はじめて自分の畑で自然農にチャレンジしたとき、
夏野菜の収穫はたったのミニトマト3つだけだった。
実は梅雨頃に体調を大きく崩して、私はその年の畑を諦めたのだった。
だから、1ヶ月以上も草刈りをしなかったし、畑にすら通わなかった。

体調が安定してきた夏に秋冬野菜のタネ蒔きをしようと思って畑に足を運んだ時だった。
青々とジャングル化していた畑にミニトマトが3つだけ赤く熟し、光り輝いていた。

はじめての畑の収穫がミニトマト三つだけと聞けば、ショックだったに違いないと思うかもしれないが実際は逆だった。
自然の力に対して驚きとともに喜び、感動した。

真っ赤に染まったトマトに手を伸ばす。ふと隣の畝を見れば、そこには虫に葉を食べられてボロボロのキュウリがなんとか花を咲かせていた。
ナスもなんとか草むらからひょろっと顔を出して、葉を懸命に広げていた。
そう人間が諦めても、彼らは諦めないどころか、必死に生きていたのだ。

この季節に育苗をしていると、何日経っても発芽しなかったために
タネを蒔きなおしたり、諦めて端に追いやられたポットから
突如として発芽することがある。
人間が諦めても、彼らは与えられた環境で精一杯生きている。
諦めるというのもまた人間の都合であって、人間にしかない概念なのだろう。

彼らの様子を見ていると勇気をもらえると同時に責任感が湧く。
人間の都合でそこに蒔いたのだから、彼らにとっての悲願の目的である子孫を残すために最後まで寄り添いたいと。

人間が農業を諦めた土地は「耕作放棄地」と呼ぶ。
この言葉は一見無価値で無意味で無駄なものと思われがちだが、
そこでは多彩な植物たちと虫と獣たちが一つの生態系をなし、森林へと遷移を進めている。
豊かな生命たちの物語の場である。
そう、人間が諦めても自然遷移は止まらない。

自然農とは結局のところ、その止まらない自然遷移を巧みに操っていくことなのだ。
たとえ、あなたがこの世から旅立ったとしても、人類が忽然と絶滅したとしても、
地球が終わらないように、自然の営みも終わらない。

今年の春に挑戦したことは来年できるようになる。でも、今年挑戦しなかったことは来年できるようになるわけではない。本気でやった努力こそ、成功の元になるし、生きる糧になる。

たとえ点差が大きく開いたとしても、最後まで全力を尽くす選手は大きく成長するし、違う世界に進んでも活躍する。

あなたはこの春をどう過ごしましたか?
今年と同じ春はもう2度とこない。
今年と同じ年は2度とこない。
今日という日も2度とこない。

畑と向き合うということは自然遷移の物語と向き合うということであり、
そこで生きるものたちと不断の対話を続けていくということ。
人間の都合で蒔いたタネを、あなたは最後まで寄り添い続ける決意はありますか?

畑は積み重ねがものをいう世界。
積み重ねのない畑も重ねのない人も自然農ができるようにはならない。


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