熱帯の自然農と食べられる森の原点
<熱帯の自然農と食べられる森の原点>
パーマカルチャーでよく使われる「エディブルフォレスト」や「フードフォレスト」という言葉は現在の人工林が建材・繊維材・油脂専用樹木ばかりが栽培されることに違和感と、その大規模プランテーションで働く人々が飢えに苦しむことに対して違う選択肢を示すために生まれた言葉だろう。
パーマカルチャーが目指す人工林にも参考となった伝統的な森林がある。それが赤道付近の熱帯アジア地域で行われてきた森林農法である。
東南アジアの住宅に隣接する庭には果樹とともに野菜が植えられている。バナナ、マンゴー、マンゴスチン、ランブータン、パパイヤ、ココヤシなどの根元に里芋やキャッサバが植えられている。その合間をブタやニワトリが呑気に歩く。食べられる森は熱帯地域の伝統的な農法だ。また、食料用ではなく植物が豊富なのも東南アジアの庭の特徴でハゲイトウ、ニチニチソウ、ホウセンカなどコンパニオンプランツや薬草・香草の役割がある。
こういった熱帯アジアの食べられる森ではまず焼畑が行われ、10年周期で場所を移動していく。まず樹木を倒して焼く。そこにバナナやサトウキビなどの草やパンノキやヤシノキを植え、根元にタロイモ、ヤムイモ、ウコン、生姜などを栽培する。面白いことに堀棒一つだけで栽培していく。サゴヤシは非常に生産力が高い植物で、1年に1週間の作業で一年分の食料となる。
高さの異なる中高木、低木、つる性、根茎作物などで構成され、最小限の養分しか溶出しない。時間が経つにつれて収穫は減り、食用にならない樹木が茂るようになると放棄され、やがて森林に戻る。
同じように南米のアマゾン地域の焼畑でもバナナ、キャッサバ、里芋などが栽培される。保存に適さない食物ばかりで、収穫したらすぐ食べる。
熱帯地域の焼畑では建築材を焼く前に収穫し、家を建てる。そして、森林を放棄するときに家も放棄し、大地へと還元する。熱帯地域では自然遷移の回復スピードは早く、また数十年後に同じところに戻ってくるが、そのときにはヒトが住んでいた形跡は消え、また家を建てて焼くところから始まる。
これらの地域で多様性が非常に高まる有力な説の一つが十分な太陽光エネルギーである。温帯地域の人からすれば、赤道付近は一年中夏のように日が長く暖かい。そのため森林の層構造が発達し5層ほど複雑になり、森林のバイオマス量が増大し、これが多様性を支える。
しかし、5層に一種ずつの樹木があってもいいわけで、太陽光は本質的な理由になり得ない。物理的に安定だからという説もあるが、適度な撹乱がある方が多様性が高くなるという説とぶつかる。アマゾンの熱帯雨林が実は先住民族たちの利用によって生まれた二次林であり、極相林ではないことから、適度にヒトの手が入ることが多様性の主要因だという説もある。
熱帯地域の森林や食べられる森ではまさにジャングルと呼ぶほど草木が密集している。暖かく水が豊富な地域ほど草木が密集しても元気に育つことが分かる。横も縦の空間もさまざまな草木が絡み合っている。おそらく土中内の根も。森林から空を見上げれば美しいほど林冠のパッチワークが広がる。資源が豊富にあればあるほど衝突は避けられる。
しかし実は暖かい地域ほど土中内の養分が貧相になりやすい。実際に熱帯地域の土を観察してみると団粒構造のような黒っぽい土は少ない。これは団粒構造の土が作りやすい温帯地域に比べて土中内微生物の活動の方が活発で腐食を微生物が食べつくしてしまうからだ。そのためコンポストの分解スピードは温帯よりもはるかに早い。
そのため熱帯地域の森林内で肥沃な黒っぽい土は表層の数cm程度しかないところが多い。腐食はあくまでも微生物の食べ残しであり、いずれ失われてしまうものである。
温帯地域では腐食土として、熱帯地域では生きた植物が栄養分を蓄える役割を持っていると言われる。そのため熱帯地域では草(緑肥など)で団粒構造の土を作るというよりも積極的に樹木の枝葉をマルチとして大地に返していくほうが適している。そのため高炭素資材を積極的に土中内に鋤きこむ炭素循環農法のような農法がブラジルなどで行われている。
ブラジルの世界重要農業遺産であるトメアスのアグロフォレストリーでは森林破壊とモノカルチャー栽培によって荒廃してしまった農地に多年生作物(バナナ、アサイー、コーヒー、カカオなど)を植え、その隙間にコショウなどの香辛料、木材となるゴムやマホガニー、野菜としてキャッサバ芋などを栽培している。裸地が森林へと戻っていく自然遷移の力を利用しながら1年目から収穫物を得て、長期的な収穫物も得ることができる農林業複合システムである。
同様にタンザニアのアグロフォレストリーでも同様に樹木が作り出す木陰で野菜などの作物が栽培されている。もともとドイツの植民地帯だったため、ヨーロッパ諸国のために植えられた果樹や建材が多かったが地元民はその木陰に自分たちのために有用樹や食料作物を植えていった。
先進国の科学者たちが選んだ樹木は残念ながら早生種の建材ばかりだったが、地元民が植えたものはほとんどが育ち、建材を先進国に売るたびに日向が増え、有用樹が育ち、木陰で野菜が育った。植民地から解放後に荒廃した土地ではなく豊かな食べられる森が残った。彼らの臨機応変さとしたたかさを見習いたい。
熱帯地域のような強い日差しが一年中降り注ぐ環境では地温が高くなり微生物の活動が強くなりすぎて、野菜にとって過乾燥や過高温になってしまう。そのため積極的にフィールド内に樹木を植えて、森林農法(木漏れ陽栽培)をイメージしたい。
おそらく沖縄などの南西諸島では本州が弥生時代に入り農耕をしていたのにも関わらず、ずっと貝塚文化(土器などは入っていた)だった。つまり豊かな海と照葉樹林から得られる森の恵みで十分だったのだ。
平安時代の終わりにいきなり始まるコメとサトウキビ栽培はこのとき初めて沖縄に誕生する政権・琉球王国が主要作物としたが始まりだった。そこから森林が刈りつくされていったのだろう。
沖縄のように台風の通り道となっている地域では森林農法は防災の役割を担う。畑だけではなく家にとっても樹木はなくてはならない存在だった。食べられる森では1年中何かしらの果樹が実をつける。現在の沖縄は台風で物流がストップするとスーパーやコンビニの棚から食材が消えてしまう。野菜は水害・塩害に遭ってしまう。
基地を返還してもらったらどんどん食べられる森を作っていってもらいたい。森林を好まない基地はリスクとお金しか生まない。しかし森林は災害と食糧危機のリスクを軽減する。基地とお金は腹を満たさないし、命の糧にはならない。
協生農法もまた熱帯や亜熱帯の気候に近い地域に適した栽培方法である。樹木の木陰が作り出す微気候が野菜にとって都合の良い気候となる。寒くて乾燥が強くなるにつれて、太陽光と水、そして豊かな土の資源が減るため衝突が起きてしまう。日本では南西諸島のほか太平洋気候、瀬戸内海気候の地域で適している。
本州でも縄文時代には食べられる森のような環境で暮らしていただろう。現在よりも気温が高かった縄文時代(3~5℃ほど)にはドングリなどの照葉樹が広く分布していたし、豊富な魚介類を育むサンゴ礁も広く分布していただろう。
立体農業を推奨していた賀川豊彦が重要視していた穀樹(ドングリやクルミなど穀物のように炭水化物とタンパク質を豊富に含む種子を落とす樹木)が縄文民族の腹を満たしていた。狩猟採集の文化が根付く条件の一つに豊かな食資源があげられる。
日本のように雨が多い地域では気温が高くなれば、熱帯地域と同様な植生や多様性が生まれていただろう。縄文時代の食べられる森の実態は調査が難しいが、現代の熱帯アジアに残る食べられる森に違いはずだ。なぜなら日本人の先祖の一部は東南アジアから台湾、沖縄を通って本州に上陸していたことが示唆されているからだ。