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言葉にならない知恵がある


<畑の哲学>言葉にならない知恵がある

自然農を教えている身として、いつも苦戦しているのがこの部分だ。

植物の知識や自然界の摂理は
今までたくさんの科学者や先人たちが残してくれた研究を
元に説明することができる。

これは言葉にできる知恵や知識といったところか。
言葉にすることができたおかげで私たち人類はこの文明を発展させることができた。

これは他の動物にはできなかった、とてもすごいこと。

しかし、いくら言葉によるコミュニケーションが発達したとしても
その背後には膨大な量の言葉にならない知恵がある。
そして、ここに職人たちが語る言葉の深さと技術の美しさの根源がある。

自然と調和した暮らしを続ける原住民族や百姓、
現代社会に飲み込まれることなく続く伝統工芸の職人たち、
彼らと同じことをしようとしても私たち現代人が真似できない本当の理由は
ここにある。

言葉にならない知恵を蓄積していないからだ。
これはいくら本を読んでも、動画を漁っても、講演会に参加しても蓄積されない。

一番蓄積される方法は彼らとともに寝食を共にすることだ。
つまり弟子入りすることだ。
現代の資本主義経済では昔ながらの徒弟制度を取り入れることは
不可能ではないが、様々な問題があり難しい。

しかし、徒弟制度が世界中にあったことはその制度に大きな価値があったからだ。
私はその価値は言葉にならない知恵の伝授にあったと思う。
その伝授は一見無駄に思える作業やささいな言葉のなかで受け継がれていく。

そして、その言葉にならない知恵の伝授は決まって、
たいてい月日が多く流れたあとに気がつくことになる。

あぁ、そういうことか!
あの言葉はこれを意味していたのか!
といった具合に。

そしてそれはもちろん、言葉にならないのだ。
だからどうしても次の弟子にも同じように伝授するしかない。

私が自然農を学んできた時間の中で、一番言葉にならない知恵を受け取ったのは
草刈りだ。
来る日も来る日も草刈りをしていた日々だ。
(だからいずれ弟子を持つとしたら草刈りばかりさせるだろう)

私たちは誰かから何かを学ぶとき、その内容や効果を事前に知り納得しないといけなくなってしまった。
周りの大人たちはあなたに「それをやってどんな意味があるの?」と言うだろう。

しかし、それは本当に不幸なことなのだ。
たいてい学びとは私たちが期待したことしか受け取ることができない。
経済のように等価交換を前提にしてしまっている。
草刈りでは草を刈ること以外に学びがないと思っている。

しかし、草刈りのような無駄に思える作業の背後には
言葉にならない知恵がたくさん詰まっている。
そのためか江戸時代の農家の子供の仕事といえばもっぱら草刈りだった。草刈りをとおして自然とのつながりを学んでいたようだ。

よく「お金で時間を買った」という人がいるが、それは大きな勘違いを生む。
言葉にできる知恵や知識は確かにお金を払えば受け取ることができるだろう。
しかし、言葉にならない知恵は時間をかけて、経験することでしか、自分の身体に蓄積されていかない。

飛行機でアフリカに飛ぶのと、アフリカまで歩いていくので全く違う経験なのだ。
この違いを身体で理解しているのは実際に体験した人間だけである。

そこには現代社会が忘れてしまった貴重な知恵がある。
この現代社会に調和を取り戻すためにはその知恵は必要不可欠なのだ。

だからこそ、月1回の講座よりも毎日の観察が重要なのだ。

自然農は時間がないとできない。
それは作業が多いからではなく、時間をかけないとその知恵にたどり着けないからだ。

そしてそれは遠回りではない。
時間をかけることが一番時間の節約になる。

ミヒャエルエンデの代表作「モモ」に出てくるカメのカシオペアはこう言った。
「オソイホドハヤイ」

自然農の講座に出た人には、ゆっくり時間をかけて農を営んでほしい。

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