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夏野菜の終わらせ方と回し方


<夏野菜の終わらせ方と回し方>

夏野菜の振り返りをしなくては、来年に向けた土作りもできない。間作や輪作もまた計画が立てられないだろう。原因と対策はセットである。根を見ても葉を見ても何も問題がないにも関わらず全く育たなければ緑肥を中心に栽培して、次に備える。上手く育っていれば輪作で収穫物を得ながら土作りを行いたい。

短命作物であるキュウリやゴーヤ、スイカなどのウリ科や春植えのトウモロコシ、枝豆などのマメ科は自然農に限らず長生きさせるのは難しい。そのため、割り切って根元で切ってしまって秋冬野菜か緑肥へと移行したい。とくに秋は梅雨と同様に病気や虫が発生しやすい環境となるため、弱っている野菜はやられてしまいやすい。

台風が来るたびに秋が深まっていき、残暑は夏野菜にはちょうどよい季節となり収量が一気に増えることがある。特に無肥料の自然農では根が十分に張り出せたおかげで秋に実りが多くなる。しかし、本格的な秋となれば夏野菜の味は落ちていく。そのため畑の面積が狭い場合は早く終わらせてしまうのも悪くはない。広い面積でも加工したり保存食に回す方が美味しく食べられる。

もし、夏の間に生育が思わしくなく元気がなかったものは次の栽培に移る前に根を掘り出して観察・調査し、原因を探る。病気の部分は雑草コンポストか通路に置いておこう。問題は必ず畝の中か、畑の水分と風通しにあるので、それを読み解き改善策を講じたい。

秋冬野菜に向けた畝づくりは土寄せの要領で高畝にするのがベースとなる。秋冬野菜の多く雨は水はけの良さ(乾燥)を好むためだ。もし夏野菜にカビ菌の病気が発生していた場合は必須だ。夏野菜の実りが十分でなかった場合は元肥や有機物マルチで養分を補う。また天地返しをしていない場所ではしても良いが、残暑の中の作業は辛いので緑肥のほうが良いだろう。秋冬野菜ではイネ科の緑肥に、マメ科のエンドウやソラマメの組み合わせで収穫しつつ自然耕をするのもオススメだ。

来年に向けて土質に応じて植える作物や越冬対策を考えたい。粘土質の場合は重力と雨で固く締まりやすいので、緑肥栽培か野菜を栽培しておこう。もちろん雑草を生やすのも良いが草刈りが増えてしまう。砂質の場合は何もしないと養分がどんどん失われていってしまうので、緑肥栽培を中心にしたい。ただし畑の面積が狭く秋冬野菜を育てたい場合は冬の間に追肥、春先に元肥など自家製堆肥を積極的に使う方が自給する上で無理がない。

福岡正信はコメのあとにムギを栽培する二毛作を行なっていた。それぞれの収穫2週間前に播種し、芽が出た頃に収穫することで、自然界の夏草と冬草の入れ替えのように植生を遷移していく。江戸時代の農書にも出てくるこの二毛作は、水田と乾田を切り替えることで、それぞれの環境を好む雑草の繁栄を防ぐ意味合いがある。また大和地方では裏作にムギではなくソラマメを栽培し、地力の回復を促していた。

夏野菜の命を終わらせるときは、敬意を込めて根を残して地際から切る。もし地上部が枯れていれば、そのまま放っておいても構わない。基本的に輪作する場合でも根を抜くことなく、土中生物の餌にする(お礼)ただし、アレロパシーを多く出すマメ科植物やオクラなどはすぐに何か育てる場合は抜く方が輪作がしやすくなる。その場合すべての根を取り出す必要はなく、手で抜ける分で構わない(おそらく直根ばかりが抜けるがそれで十分)。

江戸時代の農書には作物の回し方(作り回し)に関する記述が多い。稲作は連作障害が起きないにも関わらず二毛作による輪作は広く行われていた。これはコメが租税の対象だったに対し、裏作は租税の対象ではなかったためで、裏作を充実させることは食糧危機対策であると同時に家の経営にとって重要な作物だったからだ。

単に連作障害を防ぐだけではなく、相性の良い回し方を観察し、他の百姓たちが残した農書で学び、自身で実践することで身につけていった。その努力と知恵が江戸時代の人口増加と気候変動のなかで十分に役立った。そういった篤農家は江戸幕府の支援を受けて、全国を回り指導していた。篤農家は作り回しの達人でもあったのだ。

家を大きく繁栄させた百姓たちは作物の回し方同様、手回しもまた得意だった。尾張の農書『農稼録』には家族の手を労り合いながら、いかに上手にやりくりしていくかという「手回し」が問題となっている。また手回しのできる経営規模の大切さを強調している。そのため必然と江戸時代の百姓たちはそれぞれの能力に応じた規模に落ち着いていた。

「手回し」は家族内の手を農だけにならず養蚕や養畜といった他部門との組み合わせの中で、いかに手を労り合いながらうまく回していくかという家族労作経営の問題だった。ただヒトを能力や効率で回すのではなく、労わり合うことの重要性が説かれている。そのため一家の長にはヒトを観察する眼と心遣い、細かな配慮が必要だったようだ。これから家族農業や半農半X、夫婦共働きが多くなる時代において百姓の手回しの教えは役に立つだろう。

村の中では世回しが特に重要で、村の長となる百姓には無くてはならない視点だった。江戸時代の租税は村単位であり、幕府や藩よりも村の自治の方が強大だった。だから「村八分」が一番リアルに恐れられたのである。

期限や日にちを決めて、村人総出で用水路の水底の泥さらいや河岸の樹木伐採、道や橋の修復作業などを行なった。多様な共同労働によって、村の生産条件と自然環境の維持・保全されていた。これは現在の地方の村でも残る村仕事で、自治会長の音頭で継続されている。よそから来たものはこの村仕事に参加することで、村人から認められていく。都会にはない慣習で戸惑う人々も多いが、村仕事は祭り同様江戸時代から続く村の伝統的な行事であると思って参加していきたい。続くということはそこには何かしらの機能や意味があるのだから。

江戸時代の人々にとって世界とは世間そのものだった。世間とは顔見知りの関係内に収まる世界であり、現代のようにテレビやインターネットで無理やり広げられ、作られた世界ではなかった。江戸時代までは世間(世界)にはリアリティがあったが、現代ではどこからが本物でどこからだ創作物なのかが誰にも分からなくなってしまった。そのためヒトは世間体という言葉を使いながらも、その世間がどこにあるのかが全く分からないままだ。

百姓たちは耕作地を定期的にくじ引きなどで割り変えていた。洪水などの自然災害に対するリスク分散という意味合いが強く、畑の違いによって富の偏りが生まれることを防ぐ共同防貧でもあった。この割地制度は百姓たちが考え出し、それが全国各地に伝播していったようである。畑は個々の百姓たちのものであると同時に村全体のものでもあった。それは村が家族のような運命共同体だったからだろう。

共同防貧の考えは江戸時代の村では当たり前だった。借金の担保として質入れした土地は期限が過ぎて返済不能となっても、質流れすることなくそれから何年経とうが元金を返済すれば請け戻すことができる無年季的質地請戻し慣行もまた、百姓が考え出し、全国各地に伝播していった。

村の中で生まれた貧困を助けるのは豊かな百姓の役目で、貧困が生まれるのは世回しの失敗だと考えられた。その反省から村長は世回しを改めて新しい掟や慣習を考えていった。世回しのうまい百姓は誰からも尊敬され、一線から退いた後も長老として、若い村長と村民から慕われて助言をした。そんな長老がいなくなったもの地方と日本の衰退の原因だろう。

このように回しという循環の思想は田畑や家だけではなく、村や地域・世間の動きに対しても世回しといった感じを持たせた。江戸時代とは「作り回し」「手回し」「世回し」の時代だった。江戸時代の百姓たちはこの回しという循環の思想が一つの柱として貫いていたのである。だからこそ、江戸時代は世界からも注目されるほどの循環型社会となったのだろう。


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