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「伊豆海村後日譚」(24)

 新井が侵入した最初の五軒は、いずれも既に空き家だった。そこにはむっとするカビの匂いと、たわんだ床と、澱みすぎて粘性さえ感じられる空気が共通して存在していた。
 自分が沼津で犯した失態についてはよく分かっていた。パク・チョルスが自分を軽く扱い、ガキの使いのような業務しか与えてこないことも、だから理解はできた。
 理解はできても、感情は収まらない。怒りの内容を冷静に分析し、自分の責任按分を過不足なく弾き出し、理性で行動をコントロールできるぐらいなら、そもそもヤクザになどなっていない。
 元はと言えばあいつがポリ公に手を出したからやないけ。
 自分が逮捕された場合の処遇を想像する。警官を撃ったのは俺ではない。しかも奴らの行動を全く予想していなかったから幇助罪も適用されないはずだが、裁判官がはいそうですかとそれを信じるかどうかは微妙だ。加えて俺は現役のヤクザで、同じ日にクソガキ二人に重傷を負わせている。
 損な話や。
 そして新井は追い詰められた暴力主義者が往々にして陥る結論に、簡単に飛びついた。
 やってもいない罪で無期か死刑を喰らうなら、この先何人殺そうが一緒や。
 六軒目の家には鍵がかかっていた。玄関を蹴り割った。派手な音を立ててガラスが飛び散り、アルミ製の目隠しがぐにゃりと曲がった。すぐにトランシーバーからパク・チョルスの声が響く。
「新井か。大きな音が聞こえた。おまえか」
 元ボクサーは舌打ちを噛ましてから通話ボタンを押す。
「ドアにガタがきてまして。無理に外そうとしたら倒れました」
 受信機の向こうから、たっぷり五秒以上の沈黙が示された。
「他の方法を探せ」
 もう一度舌打ちし、中に入って台所から捜索を開始する。
 冷蔵庫の上、ガスコンロの下、テーブルの裏。次にリビング。ソファの後ろ、書棚の中、エアコンの上。そして寝室、トイレ、浴室。成果物は二万ドル弱が記帳された通帳、現金八百ドル弱、包丁二本、チェーンソー。銃器はなし。新井はチェーンソーの歯を外して庭に捨て、現金はズボンの尻ポケットに捻じ込んだ。
 通りを横切り七軒目へ。スピッツが激しく吠え立ててくる。誰かが住んでいる証拠だ。
 近づき、蹴った。途端に犬の眼が死んだ。憐れみを乞うように鼻で鳴き、ひっくり返って腹を見せた。
 四回戦ボーイだった頃、こんな相手が一人いた。最初のラウンドから逃げ回り、レフェリーに何度注意を受けてもクリンチを繰り返してきた。四ラウンドを通してそいつは絶対に当たらない距離からジャブを合計三十七発放ってきたが、それが奴のできる攻撃の全てだった。カウンターで右ストレートを顔面に当ててやると、その両目に媚びの光が浮かんだ。あなたは強いです、私なんかじゃ相手になりません。鼻血と混ざって情けないツラだった。試合終了直後、一人前に抱きついてきたそいつの腹を殴った。相手はしばらく起き上がれなかった。重い処分を覚悟していたら、翌日貰った沙汰は厳重注意だけだった。相手には引退勧告。客から金を取ってリングに立つプロの拳闘選手としてあのような試合を行った以上、金輪際マッチメイクは認めないというのが西日本ボクシング協会がそいつとそいつのジムに伝えた通告だったと後から聞かされ、今まで過ごしてきた世界と比べて、ここは随分と公平だなと思ったものだ。噛みつこうという気概も見せることなく即座に仰向けになり、震えながら腹を見せているその犬が、彼に昔の記憶を蘇らせた。
 スピッツの腹を踏みつける。一度、二度。そのまま動かなくなった犬に見向きもせず、男はその家に入り、十五分後に散弾銃二丁を持って出てきた。
 そして十四軒目。新井は無線機の通話ボタンを押した。
「さっき無線屋で聞いた塩谷でしたっけ?それらしきジジイとババアを見つけました。婆さんは寝たきり、爺さんは今土下座しています。どうします?」
「家に武器は?」「ざっと見た限りは何も」
「おまえに任せる」
 腐りかけた畳にそのまま溶けてしまいそうなほど体を丸めた老人に、新井は話しかけた。おい、爺さん。
 床に額をつけたままの老人は、床に額をつけたまま返事した。はい。
「この婆さんと何年夫婦をやってきた?」
「五十六年目でございます」
 老人は依然として顔を上げなかった。背中が小刻みに震えている。
「介護も大変やろ」
 塩谷老は返事しなかった。暴力団員は煙草を咥え、穏やかな口調で続けた。
「今日からあんた、その重荷から解放されるで」
 新井は散弾銃を構え、安全装置を外した。中に弾が入っているかどうかは知ったことではなかった。空砲ならば別の手段を取るまでだ。
 気配を察した老人が顔を上げ、形相と態度を一変させた。
「やめんかああっ!」
 引き金を引いた。弾は発射された。
 そこに小柄な老人が襲い掛かってきた。
「殺してやる!お前、殺してやる!」
 ストローのような老人の腕を剥がすのに苦労はしなかったが、その獣のような体臭に新井は辟易とした。つかんできた老人を投げ飛ばし、銃身でその頭を殴った。
 老人は壁際にまで転がり、そこで二発目の散弾を全身に浴びた。
 トランシーバーからリーダーの声が聞こえてくる。「銃声が二度聞こえた。どうした」
 思いの他気が高ぶり、全身で激しく深呼吸していた元ボクサーは直ぐに返事ができなかった。「撃ちました」
「抵抗されたのか」「まあ、そうです」「死んだか」
 新井は布団に入ったままの老婆には目もくれず、壁に横たわる赤く染まった肉塊にちらりと視線を送った。死んでます。
「寝たきりと土下座老人相手でも武器を使ってしっかりと仕留める。いい心がけだ」
 本心からの賞賛なのか強烈な皮肉なのか分からず、男はただ一言だけ返答した。どうも。
 次の家に向かい、同じように淡々と業務をこなした。空き家であることが明らかな建物は一瞥だけで済ます。
 二十六軒の家探しが終了した時点で包丁十四本、散弾銃六丁、散弾実包三十五ケース、短銃一丁、イスラエル製短機関銃一丁、モデルガン二十丁、各種ナイフ多数、スタンガン四個、催涙スプレー八個、トランシーバー三個を掻き集めていたが、これが過疎の一集落の平均的装備なのか否か、プロの犯罪者の目利きでも分からなかった。
 二十七軒目がこの集落に着いて最初に足を踏み入れた『欲しいものは何でも揃うコンビニエンスストア』だった。
 ドアを開ける。ポテトチップの袋を開け、中身をつまむ。
「ビールもあるんかいな。ホンマに何でも揃っとるやないけ」
 新井は二缶開けた。しばらく休憩や。
 獲得武器を詰め込んだ、何軒目かの家から拝借した布団袋を床に下ろし、その横に男はしゃがんだ。
 ほろ酔いの状態がちょうどいい具合に精神に弛緩を与え始めた頃、元ボクサーは再び立ち上がった。「まずはカウンターから見たろか」
 
  ***

 近づいてくる足音。単数。警戒心とは無縁の響き。砂を蹴る音が大きくなってくる。
 船戸は息を深く吸い、それ以上にゆっくりと吐いた。イヤホンを外し、トランシーバーの電源を切る。
 落ち着け。
 カウンターの横に回って腰を下ろし、片目だけでドアの方向を覗く。
 そこにやってきたのは、新井敦司だけだった。丸坊主にはなっていたが、ニュースで見た顔写真、ボクシング西日本新人王を獲った時の映像から、面影にさほど変化はない。体も締まっている。背は百七十五センチの船戸より五センチは高い。
 若者は男がドアを開ける前に顔を引っ込め、もう一度息を吐いた。何かを詰めた大きな袋を持ってはいるものの、銃器を手にした様子はない。集落の偵察でもしているのか、それにしては不遜な態度だ。己の戦闘能力に相当の自信があるのだろう。
 この期に及んで唇をかみ締めざるを得なかった。所詮自分はアマチュアだ。男が近づいてきたらどうするのか。坐したまま待つのか、自分からタイミングを見計らって立ち上がるのか、いきなり撃つのか。発砲音に男の仲間が集まってきたらどうするのか。そもそもこいつはずっと一人なのか、仲間が後から店で合流するのか。
 何のシミュレーションも立てていなかった。
 こめかみはどくどくと脈打ち、五臓六腑は急速に痙攣している。口の中は駱駝を飼えそうなほどに乾燥している。それでも、と思う。
 考えても何も分からない時は、あれこれ悩んでも仕方ない。「考えるな、感じろ」だ。
 俺自身の命は惜しくないが、今俺が死ねば、三留さんも渚さんも、この草履集落の自分を受け入れてくれたあの老人たちも、危険な立場に置かれてしまう。誰かが、もしくは誰もが粛清からは免れないだろう。それは何としてでも避けたい流れだ。ただ、自分が先に死ねば、どのような結果が導かれようともそれを見ずに聞かずに済む。無責任な言い草だが、自分ができるだけのことはやって、それで負けたら諦める他はない。
 そう思うと少し気が楽になった、と信じることにした。
「ビールもあるんかいな」
 カウンターの向こうからの声に、全身がびくりと痙攣した。一瞬独り言と判断できず、話しかけられたのかと勘違いし返事をしそうになった。
 手のひらをねっとりと覆う汗をズボンに擦りつける。干からびた喉をうごめかせ、瞬きを最小限に抑えて待ち続ける。何を?分からない。とにかく待ち続ける。
 この心臓の音が敵の鼓膜に届かないことを祈りながら、船戸はじっと体を固めた。プルトップを空ける音が聞こえ、異様に高められた嗅覚が、ビールの匂いを捉えた。本当に酒を飲んでいるのか、この新井というヤクザは。それが意図して自分を誘っているものとは流石に考えられなかった。男は過信している、ナメている。
 喉をならす音と、ぷはあっと吐く息も聞こえてきた。どうやら本格的に寛ぎ始めたようだ。そして船戸が無意識のうちに数え始めていた二百五十回目の鼓動と同時に、もう一本、缶を開ける音が店内に響き渡った。
 一体いつまでこの時間が続くのか、と焦れ始めた時、元ボクサーの声が聞こえた。
「まずはカウンターから見たろか」

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